いまだに酔いが覚めない冬花ちゃんを引きずりながら、彼女の自宅へとたどりついた。
夜空に浮かぶ月明かりのもと、うっすら浮かび上がる白壁の邸宅。
改めて見上げると、建物の大きさに圧倒される。やっぱりこの田舎の風景にはそぐわない。
窓には白いカーテンがかかっているが、どれもぴったりと閉じられているせいで、外界の関わりを一切拒絶しているように感じる。
部屋の照明もすべて消えていて、それがより一層物寂しさを煽る。
表札には、冬花ちゃんと一緒に名前が連なっている『浅利幸恵』さんも住んでいるはずなのに、人の気配が感じられない。
まあ……まだ帰宅していないだけなのかもしれないが。
僕の体へへばりつくように腕を回す冬花ちゃんをやや強引に引き離す。
「じゃあ、僕はここで帰るから」
すると冬花ちゃんは頬を紅潮させたままぽかんと口を開き、呂律の回らない口調で、
「え? なんで? あがっていけばいいじゃん」
「いや、ご家族が帰ってくるでしょ」
「一人暮らしだよ」
予想外の返答だった。
こんな広い家に、たった一人で?
思わず振り返り、しげしげと豪邸を見上げる。
もしかして、訳ありなんだろうか。
返答に困って黙り込む僕の肩を、冬花ちゃんは親しげに撫でた。
「だから気にすることないよ。はい、決まり」
「でも」
「いいから。ほら」
冬花ちゃんは僕の呟きなど意に介さず、さっさと門を押し開いて誘うように手を振った。
一人暮らしだと言われれば、断る理由もない。
いや、むしろ断るべきなのかもしれない。
だけど、友達の家に招かれるという特異な体験は、僕にとっては非常に魅力的だ。
友達になったのだから、いいよね?
そう自分に言い聞かせることで、心の天秤はまたもや簡単に傾く。
「それなら……お邪魔します」
「ふふ。どーぞ」
白い歯を見せて微笑む冬花ちゃんに続き、僕は門をくぐった。
冬化ちゃんが両開きのドアを開くと、僕の部屋ぐらい広さのある玄関があった。電気がつくと、さきほどまでの陰鬱な雰囲気からは一転し、華やかなや内装が目に飛び込んでくる。
壁や床は白いタイルで統一されていて、二階へ続く階段の手すりはアンティーク調。
吹き抜けになっているために天井はとても高く、はるか頭上でシーリングファンが回っていた。どうやって掃除をしているんだろう? と、真っ先に考えてしまうのは、僕が庶民である証拠だろうか。
まるで、一等ホテルのエントランスのような高級感。
だが……。
足元にはハイヒールやスニーカー、潰されたダンボールに、黒いゴミ袋が乱雑に置かれていて、生活感が丸出しになっている。
広々とした廊下にも、脱ぎ捨てられた衣服や高そうなカバンがあちこちで山積みになっており、足の踏み場がない。
内装だけ切り取れば絵に描いたような豪邸に間違いないのだが、ここまで物が溢れかえっていると、情緒も風情もあったものではない。
「ちょっと汚いけど、あがって」
冬化ちゃんは呆然とする僕に構わず、ふらふらとした足取りで部屋の奥へと進んでいく。しっかり床に捨てられた物を踏みつけているが、本人は気にならないようだ。
戸惑いながらも、ここで引き返すわけにもいかない。
足元を注視しながら、手で物をどかしつつ、彼女に続いた。
廊下は広々としたリビングに繋がっていた。
大きな窓に、どっしりと据え置かれたソファとガラステーブル。それだけならモデルルームのような景観になったであろうに、廊下と同じく物やゴミ袋で溢れかえっているせいで台無しだ。
冬花ちゃんは、「適当にかけといて」と僕に言い残し、さっさとキッチンに引っ込んでしまった。
ソファの上にうず高く積まれた本や雑誌をどかしながら、おずおずと腰を下ろす。すると予想以上に尻が沈んで、つい声が出てしまった。僕のせんべい布団とは大違いだ。きっと値の張る代物に違いない。
手持ち無沙汰のまま、僕はしげしげと部屋を見渡す。
「すごいな……」
どんなに物が散乱していたとしても、やはり豪邸には変わりない。
二十畳はありそうなリビングの真ん中で座っているなんて、やはり場違いな気がする。招待されたとはいえ、相手は仮初めの友人なのだ。
生きている世界が違うんだなあ、と妙に胸のあたりがざわざわする。
ふと、足元に転がるモノに気が付いた。
大量の酒だ。ビールに、ウィスキー、チューハイから、日本酒まで。ありとあらゆる酒の缶や瓶が無造作に転がっている。
つま先でつついてみると、中身はすべて空っぽのようだった。
さすがにこの量を女の子が一人で飲むとは考えにくい。だとしたら、母親?……うーん?
じゃあ、父親か? だが、表札には名前がなかった。
それなら……友達か、彼氏?
彼氏……。
なぜか胸の奥がちくりと痛む。
そうだよな。冬花ちゃんのようなお金持ちで美人なら、わざわざ僕のような陰気な人間とつるまずとも、彼氏の一人や二人、友達の十人や二十人はいるだろう。
こんなことでショックを受ける自分自身に、少しだけ驚いた。
僕は、いったい何を期待しているんだ。
「あ、汚くてごめんね」
キッチンから戻ってきた冬花ちゃんの声で、僕ははっとして顔をあげた。
「いや、全然……ん!?」
つい言葉を失ってしまった。
冬花ちゃんがウィスキーとグラスを両手に握って立っていたからだ。
「北村くんも飲む?」
「僕はこれから仕事だから」
「そっか。残念」
セリフとは裏腹にさして残念がる様子もなく、彼女はテーブルの上を雑に片付けながら、胡座をかいて床に座り込んだ。
僕に背を向ける冬花ちゃんに、
「まだ飲むの? 立てないほど酔ってたのに」
「救急車で運ばれないうちは、酔っぱらいとは言わないのよ」
「酒好きなおじさんでも、そんな事言わないよ」
「ダメなのはわかっているんだけどね。やめられないの」
冬花ちゃんはグラスになみなみとウィスキーを注ぐと、そのまま一気に煽った。
うわあ。ストレートのウィスキーを、まるでジュースみたいに……。
見ているだけで気持ちが悪くなってきて、胸のあたりを手で撫でた。
「そんな飲み方、体に悪いよ」
「大丈夫だよ。いつも飲んでるし」
冬花ちゃんは足元の酒を指差しながら、自嘲気味に微笑む。
「もしかして、これ全部一人で?」
「うん。お酒だけがあたしを幸せにしてくれるから」
彼氏じゃなかったんだ。
こんなことでホッとするなんて器が小さすぎるかもしれないけど、やっぱり彼氏がいるよりいないほうがいい。恋愛感情は置いておいても、何かとトラブルに発展しかねない。
そんなことをぼんやり考えていたが、冬花ちゃんが空になったグラスに再びウィスキーを注ごうとしているのを見て、思わず「ちょっと」と声が出てしまった。
反射的に彼女の手を掴んで止めた。
「やめておきなよ」
「なんで?」
「友達として、見ていられないよ」
さっき会ったばかりの他人の僕がこんなことを言うなんて白々しいかもしれないけど、自傷行為のように酒を煽る人間を無視することはできない。
けれど、僕の反抗に冬花ちゃんはだいぶ気を害したようだ。
きれいに整えられた眉が吊り上がり、唇も不機嫌そうにきゅっと引き結ばれる。
咄嗟に手を引っ込めたくなったが、ダメなときはダメというのが友達というものだ。……って、よく本に書いてある。
「北村くん、痛いよ」
無意識に力を込めていたらしい。
「ごめん」と言いながら手を離し、そのままテーブルの上に置かれたウィスキーの瓶を彼女の腕が届かないところまで滑らせる。
「飲むなら、僕が帰ってからにして?」
冬花ちゃんは未練がましく瓶を見つめていたが、渋々グラスの縁を舌で舐めながらこくりとうなずいた。
「……北村くんは、お酒好き?」
「あんまり飲んだことない、かな」
さきほどの前原さんとの飲み会を除けば、最後に酒を口にしたのは工場の歓迎会の席だ。
僕と同時期に入社した数人を囲む、とても賑やかな夜だった。
最初から最後まで、僕は自己紹介以外で喋った記憶がないけれど。
「一人じゃなかなかね。人からも、あんまり誘われないし」
濁しながら説明したつもりだったが、
「そっか。北村くんって、友達いなかったりする?」
「えっ!? なんでわかったの」
思わず声に出してしまい、恥ずかしくなって顔を背ける。
友達が少ないことは事実だが、冬花ちゃんからダイレクトに問われると複雑だ。
化膿している傷口を指でつつかれたようで、あまり気持ちのいいものじゃない。
「色々難しいよね、人間関係って」
ぽつりと冬花ちゃんは囁くように言った。
わかりやすく元気がなくなった彼女がちょっと心配になって、おずおずと顔を覗き込む。
相変わらず頬は紅潮しているし、微かに唇も震えている。黒い瞳は天井にぶら下がるシャンデリアに向けられているが、今にも泣き出しそうに見えた。
僕はわざとおどけるように、
「冬花ちゃんは、び、美人だし……人気者なんじゃないかなって思うけど」
「事実だけど、全然そんなことないんだよね」
「堂々と肯定するのもすごいね」
「あたし、謙遜って最上の嫌味だと思ってるから。……スキあり!」
蛇が獲物に食らいつくような身のこなしで、ウィスキーの瓶に手を伸ばす冬花ちゃん。でも、僕のほうが早かったようだ。
今度こそ取られまいと、僕はウィスキー瓶を両手でしっかりと抱え込む。
「ダメだって言ったよね?」
「もうお酒は抜けたから! 一杯だけ」
「いい加減にしときなよ。だいぶお酒臭いし」
「北村くんにどう思われたって、別にいいわよ」
「それが友達に言うこと?」
「む」
冬花ちゃんの頬が、ぷくっと膨らむ。
本人は本気で拗ねているのだろうが、その姿が頬袋に餌を貯めたハムスターみたいで、僕はつい笑ってしまった。
そんな僕を見て、最初はきょとんとしていた冬花ちゃんも、恥ずかしそうに笑みをこぼす。
たったこれだけのことなのに、互いを見つめているだけでニヤニヤが止まらなくなっていき、どちらともなく声をあげて笑い出す。
普段ならクスリともしないような冗談でも、なぜか妙にツボに入ってしまい、やがて僕はお腹が痛くなるまで笑い転げた。
そんな僕の姿を見た冬花ちゃんも、手を叩きながらさらに大声で笑う。
あんなにひっそりとしていた寂しいリビングに、僕たちの声がぐわんぐわんと響いた。
お腹が痛すぎて、ひいひいと這いつくばる僕の目尻には、いつの間にか涙が滲む。
こんな風に笑ったのはいつぶりだろうか。
冬花ちゃんとは初対面のはずなのに、前原さんと向かい合った時のような緊張感はない。
臆病で他人の顔色を窺ってばかりの僕が、彼女の前では自然に笑うことができるなんて。
もしかしたら、僕たちは相性がいいんじゃないだろうか。
冬花ちゃんとなら、『本当の友達』になれる……?