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6 ヨルのおかげ

「……いや、そうなんだけど。そこまで言われるのも複雑だよ」


 せっかく過去を忘れかけていたというのに、あの封筒のせいで憂鬱な気分になってきた。


 物言いたげなヨルの視線から逃げるように、僕は玄関に行って積み重なったゴミ袋を鷲掴みにする。


「ゴミ出ししてくるね。ヨルはゆっくりしていて」

「はあい」


 玄関ドアを開けた途端、抜けるような青空に目が眩む。鳴きしきる蝉の声が、これが現実だということをまざまざと教えてくれるようだ。

 重たいゴミ袋を引きずりながら廊下の端までやってくると、背後で扉が開く音が聞こえた。


 振り返ると、隣の部屋に住む男がちょうど出てくるところだった。

 たしか前原という名字だったはずだ。

 年は三十代前半だろうか。ワックスで几帳面に整えられた黒髪に、シワ一つない縦縞のスーツがよく似合っている。


 僕が越してきたとき、一度だけ挨拶した覚えがある。それ以降、廊下ですれ違ってもろくに言葉を交わしたことはないが、いつもピンと背を伸ばして歩いている彼は、男の自分から見てもかっこいい。


 仕事の出来る営業マンとは彼のような人なのかもしれない。

 僕がじっと見つめていたからだろう。前原さんは僕と目が合うと、一瞬訝しげに目を細めた。あ、しまった。

 慌てて視線を逸らそうとしたが、意外なことに前原さんは微笑みを浮かべ、


「おはよう、北村さん」


 と言って、親しげに片手を振る。


「えっ? ど、どうもお世話に、なってます」

「やだな。そんな他人行儀な。って、すごいゴミ。引っ越しでもするの?」


 前原さんは上機嫌な様子で、靴音を鳴らしながら近づいてくる。


「大掃除をしてるだけです」

「へえ。ずいぶん溜め込んだねえ」

「はあ」


 やたら親しげに話しかけてくる彼に、僕はとても困惑していた。それが伝わってしまったのだろう。前原さんは少し困ったように眉をひそめると、


「俺のカッコ、なんかヘン?」

「あっ、すみません。全然、そんなことはないです」

「そ」

「…………」

「なあ、今日ヒマ?」

「えっ? あ、夜からは仕事ですが、それまでは、ヒマ、です」

「仕事、何時から?」

「二十二時です」

「じゃあ、十八時から飲もうよ」


 一瞬何を言われているのかわからなくて、言葉が出てこなかった。

 もしかして……飲みに誘われている?

 意識した途端、頬がじんわりと熱くなっていく。

 誰かから飲みに誘われるなんて、人生で初めてだ。

 これが――友達化!

 片手で口元を覆って、自然と溢れそうになる笑みを隠す。


「いっ、行きます! 行かせてください!」

「良かった。店はあとから……ん。そうだ。北村さんの連絡先教えてくれる?」

「も、もももちろんです」


 力みすぎて、噛んでしまった。

 だけど前原さんは気にした様子もなく、むしろ微笑ましそうに見守ってくれる。

 手早くお互いの連絡先を交換すると、


「じゃ、またあとで。仕事行ってくるわ」

「は、はい。頑張ってください」


 彼はゆるく手を振ると、僕を追い抜いて歩き去っていった。

 遠ざかっていく足音を聞きながら、僕はその場に立ち尽くす。

 携帯電話を買ってずいぶん経つが、個人の電話番号を登録したのは初めてだった。

 前原さん……無愛想に見えたが、きっと友達には優しいのだろう。すごくいい人そうだ。

 一緒に飲みに行くのは緊張する。でも、もしかしたら『本当の友達』になれるかもしれない。

 考えただけで宙を踏むような気持ちなって、僕は足取り軽くゴミ出しを終え、口笛を吹きながら部屋へ戻った。


「ヨル! 友達化ってすごいね!」


 玄関ドアを開けるなり、テーブルの前で体育座りをしていたヨルの下へ駆け寄る。細い手を取って、ぶんぶんと振る。


「どうしたんですか、北村さん」


 興奮する僕に驚いたのか、ヨルはぱちぱちと目を瞬かせた。


「前原さんから、飲みに誘われたんだ。こんなこと人生で初めてだよ!」

「前原さんがどなたかは存じませんが、おめでとうございます」

「ありがとう。ヨルのおかげだよ!」


 そのまま勢い余って彼女の体を抱きしめようとし、寸前のところではっと我に返った。飛び退くように手を放して、後退りをする。


「ごめん! ちょっと調子に乗りすぎた」

「いえいえ。北村さんが喜んでくれたのでしたら、ヨルも嬉しいです」


 ヨルは屈託のない笑みを浮かべ、僕の手を両手で包み込んでくれた。

 浮かれていたが、ヨルの指の冷たさに驚いて、僕は反射的に手を引っ込めた。そんな僕を、ヨルは少しだけ寂しそうに小首を傾げて見つめ返してくる。

 感じ悪いことをしてしまったな。


「……っていうか、たかが飲みに誘われたくらいで喜ぶなんてどうかしてるよね」


 気まずい空気を紛らわせたくて、自嘲気味に言うと、


「そんなことはありませんよ。前原さんが『本当のお友達』になってくれるといいですね」

「だけど上手に飲めるかな? 僕、プライベートで人と飲んだことなんて、ほとんどないし」

「飲みに上手いも下手もないと思いますよ。楽しめばいいのです」

「そういうもの?」

「はい。それに、まだ一人目です。ダメで元々ですよ」


 諭すように、ヨルは僕の頭をぽんぽんと撫でてくれた。

 なんだか子供扱いされているようにも感じたが、不思議と嫌な感じはしなかった。


「ありがとう。頑張ってくるよ」

「はいっ」


 そのとき、携帯電話が震えた。画面を確認してみると、前原さんから『今日ここで!』というメッセージと一緒に、海岸近くの居酒屋の情報が送られてきた。

 見覚えのあるお店だ。このアパートからも歩いていけるほど近い。

 この程度のやり取りなんて、普通の人たちからすればただの日常なんだろう。


 それでも、僕にとっては大きな変化だ。


 前原さんは僕の人生を変えてくれる人かもしれない。

 三十分もかかって、『こちらこそ、よろしくおねがいします』という、当たり障りのないメッセージを送信すると、どっと疲れが襲ってくる。


 でも、きっと今夜は楽しい時間を過ごせるに違いない。


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