「……いや、そうなんだけど。そこまで言われるのも複雑だよ」
せっかく過去を忘れかけていたというのに、あの封筒のせいで憂鬱な気分になってきた。
物言いたげなヨルの視線から逃げるように、僕は玄関に行って積み重なったゴミ袋を鷲掴みにする。
「ゴミ出ししてくるね。ヨルはゆっくりしていて」
「はあい」
玄関ドアを開けた途端、抜けるような青空に目が眩む。鳴きしきる蝉の声が、これが現実だということをまざまざと教えてくれるようだ。
重たいゴミ袋を引きずりながら廊下の端までやってくると、背後で扉が開く音が聞こえた。
振り返ると、隣の部屋に住む男がちょうど出てくるところだった。
たしか前原という名字だったはずだ。
年は三十代前半だろうか。ワックスで几帳面に整えられた黒髪に、シワ一つない縦縞のスーツがよく似合っている。
僕が越してきたとき、一度だけ挨拶した覚えがある。それ以降、廊下ですれ違ってもろくに言葉を交わしたことはないが、いつもピンと背を伸ばして歩いている彼は、男の自分から見てもかっこいい。
仕事の出来る営業マンとは彼のような人なのかもしれない。
僕がじっと見つめていたからだろう。前原さんは僕と目が合うと、一瞬訝しげに目を細めた。あ、しまった。
慌てて視線を逸らそうとしたが、意外なことに前原さんは微笑みを浮かべ、
「おはよう、北村さん」
と言って、親しげに片手を振る。
「えっ? ど、どうもお世話に、なってます」
「やだな。そんな他人行儀な。って、すごいゴミ。引っ越しでもするの?」
前原さんは上機嫌な様子で、靴音を鳴らしながら近づいてくる。
「大掃除をしてるだけです」
「へえ。ずいぶん溜め込んだねえ」
「はあ」
やたら親しげに話しかけてくる彼に、僕はとても困惑していた。それが伝わってしまったのだろう。前原さんは少し困ったように眉をひそめると、
「俺のカッコ、なんかヘン?」
「あっ、すみません。全然、そんなことはないです」
「そ」
「…………」
「なあ、今日ヒマ?」
「えっ? あ、夜からは仕事ですが、それまでは、ヒマ、です」
「仕事、何時から?」
「二十二時です」
「じゃあ、十八時から飲もうよ」
一瞬何を言われているのかわからなくて、言葉が出てこなかった。
もしかして……飲みに誘われている?
意識した途端、頬がじんわりと熱くなっていく。
誰かから飲みに誘われるなんて、人生で初めてだ。
これが――友達化!
片手で口元を覆って、自然と溢れそうになる笑みを隠す。
「いっ、行きます! 行かせてください!」
「良かった。店はあとから……ん。そうだ。北村さんの連絡先教えてくれる?」
「も、もももちろんです」
力みすぎて、噛んでしまった。
だけど前原さんは気にした様子もなく、むしろ微笑ましそうに見守ってくれる。
手早くお互いの連絡先を交換すると、
「じゃ、またあとで。仕事行ってくるわ」
「は、はい。頑張ってください」
彼はゆるく手を振ると、僕を追い抜いて歩き去っていった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、僕はその場に立ち尽くす。
携帯電話を買ってずいぶん経つが、個人の電話番号を登録したのは初めてだった。
前原さん……無愛想に見えたが、きっと友達には優しいのだろう。すごくいい人そうだ。
一緒に飲みに行くのは緊張する。でも、もしかしたら『本当の友達』になれるかもしれない。
考えただけで宙を踏むような気持ちなって、僕は足取り軽くゴミ出しを終え、口笛を吹きながら部屋へ戻った。
「ヨル! 友達化ってすごいね!」
玄関ドアを開けるなり、テーブルの前で体育座りをしていたヨルの下へ駆け寄る。細い手を取って、ぶんぶんと振る。
「どうしたんですか、北村さん」
興奮する僕に驚いたのか、ヨルはぱちぱちと目を瞬かせた。
「前原さんから、飲みに誘われたんだ。こんなこと人生で初めてだよ!」
「前原さんがどなたかは存じませんが、おめでとうございます」
「ありがとう。ヨルのおかげだよ!」
そのまま勢い余って彼女の体を抱きしめようとし、寸前のところではっと我に返った。飛び退くように手を放して、後退りをする。
「ごめん! ちょっと調子に乗りすぎた」
「いえいえ。北村さんが喜んでくれたのでしたら、ヨルも嬉しいです」
ヨルは屈託のない笑みを浮かべ、僕の手を両手で包み込んでくれた。
浮かれていたが、ヨルの指の冷たさに驚いて、僕は反射的に手を引っ込めた。そんな僕を、ヨルは少しだけ寂しそうに小首を傾げて見つめ返してくる。
感じ悪いことをしてしまったな。
「……っていうか、たかが飲みに誘われたくらいで喜ぶなんてどうかしてるよね」
気まずい空気を紛らわせたくて、自嘲気味に言うと、
「そんなことはありませんよ。前原さんが『本当のお友達』になってくれるといいですね」
「だけど上手に飲めるかな? 僕、プライベートで人と飲んだことなんて、ほとんどないし」
「飲みに上手いも下手もないと思いますよ。楽しめばいいのです」
「そういうもの?」
「はい。それに、まだ一人目です。ダメで元々ですよ」
諭すように、ヨルは僕の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
なんだか子供扱いされているようにも感じたが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「ありがとう。頑張ってくるよ」
「はいっ」
そのとき、携帯電話が震えた。画面を確認してみると、前原さんから『今日ここで!』というメッセージと一緒に、海岸近くの居酒屋の情報が送られてきた。
見覚えのあるお店だ。このアパートからも歩いていけるほど近い。
この程度のやり取りなんて、普通の人たちからすればただの日常なんだろう。
それでも、僕にとっては大きな変化だ。
前原さんは僕の人生を変えてくれる人かもしれない。
三十分もかかって、『こちらこそ、よろしくおねがいします』という、当たり障りのないメッセージを送信すると、どっと疲れが襲ってくる。
でも、きっと今夜は楽しい時間を過ごせるに違いない。