ボールペンを握りしめ、契約書に『北村太一』とサインをする。
書き終えた途端、契約書の隅から黒煙があがり、またたく間にオレンジ色の炎に包まれた。最後にボッと火花を散らすと、灰も残さず燃え尽きてしまった。
ヨルはパチパチと小さな拍手をし、上機嫌に微笑む。
「これで契約完了です」
「は、はあ」
思っていたよりも、呆気ない。
契約の証に、刻印などが浮き出ているんじゃないかと体をまさぐってみたが、なんの変化もなかった。
今更ながら、騙されているんじゃないかという疑念が湧いてくる。こんなに必死で思案したのに、実はドッキリでした! なんてオチだったら、それこそ舌を噛んで死にたくなりそうだ。
けれど、戸惑う僕とは対照的に、ヨルは楽しそうに微笑を浮かべている。
「あの、これから僕はどうすれば」
「契約開始日は明日からですので、それまでは自由にしていてください」
「そう」
「ヨルは荷物を取ってきます」
彼女はすっくと立ち上がり、玄関に向かった。黙って見守っていると、ドアを開けて外に置いてあったのだろう、白いキャリーケースを室内に運び入れる。
「なにしてるの?」
「これからお世話になるので、その準備をしようかと」
平然と言ってのけるヨルを、ぽかんと見つめ返す。
「まさかとは思うけど、この部屋で生活するつもり?」
「えっ! だめなんですか?」
ヨルは驚いたように目を丸くする。
「当たり前だよ! 僕は、その、男だし!」
「ヨルはこんなに可愛いのに?」
「可愛いから余計問題が……って、そういうことじゃなくて」
動揺で、僕の声は上ずっていた。
「まさか断られるなんて思ってもいませんでした。今までの契約者さんは、すんなり部屋に住まわせてくれたのに」
「日本人の心理を突かないで」
特に僕はそういう言葉に弱いのだ。
「お金くらい悪魔の力で出せるんじゃないの?」
「ニセ札を刷るような大罪を犯したくはありません」
「悪魔の倫理観がわからないよ」
「北村さんに追い出されたら、ヨルは宿無しになってしまうんです。それでもだめですか?」
ヨルは赤い瞳を潤ませて、僕をじっと見つめてくる。この様子では本当に行き場がないのかもしれない。悪魔の懐事情に詳しくはないが、契約を結んだ以上、見て見ぬふりは出来ない。
「うちは汚いけど、それでもいいの?」
「はい! 我慢します」
一言余計だ。
「じゃあ、好きにどうぞ……」
「ありがとうございます。北村さんはお優しいですね」
ヨルは大して意識せず口にしたのだろうが、滅多に他人から褒められたり、感謝されることがない僕にとっては、たまらなく嬉しい言葉だ。
自然とにやける口元を手のひらで隠し、誤魔化すように咳払いをした。
「ちょっと換気させてもらいますね。さっきから鼻がムズムズするんです」
「ああ、うん」
ヨルは立ち上がると、カラリと窓を開けた。「わあ、いい天気になってきましたね」と無邪気に喜ぶ彼女は、こうしてみると普通の女の子にしか見えない。
ワンピースの裾から伸びる生白い足に、つい目がいってしまう。
十日間もこの部屋で一緒に過ごすなんて、やっぱり軽薄じゃなかっただろうか。友達はもちろん、彼女いない歴イコール年齢の僕にとって、同棲なんて刺激が強すぎるかもしれない。
って、何を考えてるんだ僕は。相手は悪魔なんだぞ。
さっきまで恐怖していた相手に、やましい思いを抱くなんて。自分の頭をゴツンと小突く。
それより、女の子と一緒に暮らすなら部屋を掃除しなければ。さすがにこんなところで生活をさせるわけにはいかない。
僕はのっそりと立ち上がる。と、その直後、心臓に突き刺すような痛みが走った。
激痛に呻き、胸を抑えたままうずくまる。
なんだこれ?
「北村さん、大丈夫ですか!?」
ヨルが駆け寄ってきたが、彼女に返事をする余裕もない。床に体を打ち付けるようにして倒れたのが自分でもわかった。
僕の意識は、そこでぷっつりと途切れた。