――玄関ドアを開けると、麦わら帽子をかぶった少女が立っていた。
「北村さん? 聞いてます?」
トントンと馴れ馴れしくヨルと名乗る少女に腕を叩かれ、僕ははっとして彼女を見つめ返す。
「あっ。大丈夫です。ちょっとぼうっとしていました」
頭を掻きながら、僕はヨルに頭を下げた。
「いきなり悪魔契約なんて言われても、驚きますよね」
やっぱり聞き間違いじゃなかったようだ。
「失礼ですが、クスリとかやっていませんよね?」
「本当に失礼な方ですね。信じるものは救われるというのに」
「そうなんですね」と、間の抜けた返事をしながら、どう追い返したものかと思案する。
「僕は無宗教なんです。帰ってもらえませんか」
きっと僕の顔は引き攣っていることだろう。
――ヨルは、北村さんの望みを叶えるためにやってきたのです。
――お友だちが欲しいんですよね?
さっき、彼女は間違いなくそう言った。まるで、ずっと僕の様子を観察していたような口ぶりだ。たとえ偶然だとしても、薄気味が悪い。
おそらくは、僕みたいに孤独を抱えた若者を狙う詐欺のようなものなんだろうけど、「友達」という言葉を使うのは悪質だ。
偽りの友情なんかに興味はないのに。
僕はこれ以上話をしたくなくて、「それじゃあ」と言いながら玄関ドアを閉じようとした。
「お待ち下さい!」
ヨルは素早くドアの隙間に爪先を挟んだ。彼女はひるんだ僕の隙を突いて、そのまま強引にドアをこじ開けると、体をねじ込むようにして部屋に入ってきてしまった。
「とりあえず、お話だけでも」
ヨルの後ろで、バタンと玄関ドアが閉まる。
いくらなんでも、ちょっと強引すぎやしないか。
相手が女の子だったから、ちょっと油断していた。
この子、異常だ。
「けっ、警察を呼ぶぞ」
「そう冷たいこと言わないでください。ヨルは北村太一さんと契約がしたいだけなんです」
「なんで下の名前まで知ってるんだよ」
「それくらいお見通しですよ。ヨルは悪魔なんですから」
彼女はにっこりと微笑むと、僕の脇をするりと抜けて部屋の奥へと進んでいく。
「ちょっと!」
「さきほど、自死されようとしていましたよね?」
きっぱりと言い切られて、口ごもる。ヨルの視線はキッチンに放置されたままの包丁へ向けられ、それから這いずるように僕へ移動する。
血のように赤い瞳に見つめられると、体中が粟立った。
何なんだ、この子。本当に悪魔なのか? いや、そんな馬鹿げた話があるわけない。
「まだ疑っているようですね。証拠をお見せしましょう」
ヨルはずかずかとキッチンに近づくと、包丁を手に取る。一瞬、刺されるかもしれないと身構えたが、彼女はそんな僕をせせら笑いながら自分の首に刃を当てた。
そして――躊躇うことなく刃をめり込ませていった。
「な」
おびただしい量の鮮血がヨルの首から迸り、立っていた僕にまでビシャビシャと降りかかった。シャツは血に染まり、むせかえるような血生臭さが鼻孔を突く。
あまりにも異常な光景に目眩を覚え、たまらずその場へ座り込んだ。
だが、目の前のヨルは左手で頭を固定しながら、なおも右手でギコギコと首を掻き切ろうとしている。
「うーん、切れ味は良くないですね。百均ですか?」
三分の一ほど首を切ったところで、彼女は眉根を下げて包丁から手を放す。刺さったままの包丁と生白いヨルの首があまりにもアンバランスで、陳腐なCGみたいだ。
なんで、平然と喋っていられるんだ?
「だ、大丈夫なの?」
我ながら、間抜けな質問だと思う。ヨルもそう感じたのだろう。血まみれの顔に、呆れたような表情が広がっていく。
「これでヨルが悪魔だと信じてくれましたか?」
僕はこくこくと何度も頷いた。
「そう。良かったです」
「救急車を呼んだほうがいいんじゃない」
「いいえ。ご心配なく」
ヨルは平然と首から包丁を引き抜き、乱暴にシンクの中へ放り出した。
彼女が指先を鳴らすと、部屋中に飛び散っていた血液が逆再生するようにヨルの体へと吸収……いや、戻っていく。
首の傷も見る間にふさがっていき、あっという間に痕跡すらなくなった。
赤い血が飛び散った僕のシャツはすっかり白くなり、血の匂いも消えている。床も天井も、何事もなかったように元通りになっていた。
……一体、僕は何を視たんだ?
腰を抜かして動けない僕に構わず、ヨルはテーブルの前に座った。
「とりあえず、お話をしましょう」
「ひっ」
本当は今すぐこの場から逃げ出したかった。
でも、ここで逆らったら何をされるかわからない。
叫び出したい衝動を抑え、四つん這いのままヨルに近づいていき、向かい合うようにして腰を下ろした。自分の体が震えている。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。ヨルは鬼じゃありません」
鬼と悪魔って、どっちが恐ろしいものなのかもわからない。
萎縮しきって声も発せない僕の前に、ヨルはどこから取り出したのか……一枚の紙を広げた。上から下まで、見たこともない異国の文字がびっしりと並んでいる。
ヨルに促され、僕は恐る恐る手にとって一番上に書かれた文字を眺めた。
「悪魔契約書?」
自分で言葉にしてから、はっと気づく。日本語ではないはずなのに読めてしまった。
再び恐怖が突き上げてくる。
「僕は悪魔契約なんかしない!」
「まあ、そう言わずに」
「悪魔と取引をしてまで、叶えたい願いなんてないよ」
「うそばっかり」
ヨルは、薄い唇を引き結ぶようにして笑う。
「お友だちがほしいと強く願いましたよね? 手に入らないなら、いっそ死んでしまいたいとさえ思いましたよね?」
「それは」
「わかります。わかりますよ、北村さん。人間にとって対人関係というものは、いつの時代も悩みの種ですから」
悪魔は、人間の心の隙間に入り込むという。
僕は、魅入られてしまったのだろうか。
「神があなたを見放したのなら、悪魔が救ってさしあげます」
ヨルは身を乗り出して、僕の頬を優しく撫でた。つららのように冷たく、血の気の失せた指先。
ああ、本当にこの子は人間ではないのだな、と痺れた頭で思う。
「僕と、どんな契約をするつもり?」
赤い瞳を真っ直ぐ見据えながら訊ねると、ヨルは嬉しそうに目を細めた。
「
「は?」
ジュウマンニン?
「さすがに日本国民全員となるとややこしいですし、それくらいがちょうどよくないですか?」
「本気で言ってる?」
「もちろんです。あ、でも期間限定ですよ」
ヨルは両の手の平を、パッと広げた。
「ヨルの魔力では、せいぜい十日間が限界です」
「期間限定じゃ意味がないよ。僕が欲しいのは、友達というより親友って呼べる人だから」
「そう言われましても。さすがにヨルも人間の心を永久的に操ることはできません。人類を創造するようなものですからね」
ヨルに反論されて、妙に納得する。
たしかに、悪魔に心を操られた人間なんて、プログラムされたアンドロイドと変わらない。
「でも、他人から親友になるのは難しくても、お友だちから親友になるのはそんなに難しいことではないと思いませんか?」
まるで自社の製品を売り込む営業マンみたいに、ヨルは饒舌に続けた。
「ヨルはあくまで、みなさんが北村さんを『友だち』だと認識する魔術をかけるだけです。あとは、北村さんが誰と仲を深めるかを選択すればいいのです」
「つまり……親友になれそうな人を十日間で探せってこと?」
「そのとおりです」
「代償は?」
ヨルの表情が引き締まる。
「悪魔が人間の願いを無条件で叶えるはずがないよね? あとで寿命とか魂をくれって言われたら……」
「まさか! ヨルがそんなゲスい悪魔だと思っているんですか?」
「しっ、知らないよ。悪魔と会ったのははじめてなんだから」
「ひどい偏見です。ヨルはこれまで、何人もの方と契約をしてきましたが、みなさん満足されていましたよ」
「他にも僕みたいな人がいたってこと?」
「人間の願いなんて、たいてい決まっていますからね。ご心配なら、一筆書きますよ」
ヨルは部屋に転がっていたボールペンを手に取ると、契約書に文字を書き綴る。そこには、
『北村太一の命や、身体に関わるような代償は求めない』と記されていた。
「これ、信用していいの?」
「そのための契約書です。他になにか、懸念はありますか?」
ヨルから差し出されたボールペンを握り、僕は起こりえそうな最低最悪の事象について考えを巡らせる。僕の大事な人……大事なもの……。
部屋をぐるりと見渡したが、どれも大して価値を感じることができないものばかりだ。
結局、『コパンには手を出さないこと』とだけ書き加え、ボールペンを置いた。
「コパン? 外国の方?」
「僕に懐いている野良猫」
「なるほど。猫ちゃんは可愛いですよね。では、この条件で契約をしていただけますか?」
「最後にひとつだけ。君はどうして僕と契約がしたいの?」
「人間が好きなんです」
「へ?」
「これじゃあ、理由になりませんか?」
意外な返答に、僕は唸る。
「いや、べつに」
趣味趣向は人それぞれだ。
僕は契約書を手に取り、最初からゆっくりと読み直した。
堅苦しい文章で書かれているが、大雑把に要約すれば以下のとおりだ。
①契約期間は、八月十一日から二十日までの十日間。
②契約期間中、このF
③契約終了時に、北村太一はヨルに代償を支払う。
④契約に関することは、口外してはならない。
⑤途中で契約を解除することはできない。
やはり、「代償」という文字を見ると、ボールペンを持つ手に力がこもる。
十万人の友達というのは、悪魔と契約を交わすリスクを負ってまで、叶えることなのだろうか。
あとからどんな代償を請求してくるかわかったものじゃない。
引き返せ。今すぐこいつを部屋から追い出すべきだ。
いや、でもこの孤独な人生を変えるチャンスなんだぞ、これは。
契約書を前に、僕の心の天秤はぐらぐらと揺れていた。
相手は得体の知れない悪魔だ。悪魔というのは、大抵人間を破滅に向かわせる。
人間が好きだなんて口ではのたまうが、本心かどうかもわからない。いや、嘘の可能性の方が高いだろう。
だけど……。
彼女は、こんな僕に手を差し伸べてくれた存在なのだ。
仕事も失い、身を案じてくれる家族も、声をかけてくれる友達もいない……ゼロの僕に。
そもそもヨルが訪ねてくる直前、僕は死のうとしていたじゃないか。
台所で握った包丁の柄の感触は、いまだ手のひらに残っている。
友達が欲しい。僕を友達だと言ってくれる人が欲しい。
そんな願いを、この悪魔は叶えてくれるというのだ。
この契約は、地獄に垂れた蜘蛛の糸なのかもしれない。
神様が僕を救ってくれないなら、悪魔に縋ってもいいじゃないか。
ゆらゆらと揺れていた心の天秤が、ガクンと傾いた。