最寄り駅の改札をくぐると、早朝の空には厚い雲がまだらに広がっていた。
かすかな雨の匂いと、まとわりつくような湿気で清々しい朝とは言い難い。
仕事終わりの気だるい体を引きずるように、小走りで自宅のアパートまで急ぐ。
僕が生まれ育ったこの藤島市は、人口十万人程度の中都市だ。大した伝統も歴史もないが、夏になると海水浴会場が開かれるため、観光客が大勢訪れる。
そのおかげで中心地はやや栄えているものの、観光スポットから外れたこの辺りは、ぽつぽつと古びた民家と、小さな畑が並ぶだけの寂しい土地だ。
子供の頃は都心に出て行きたいと思ったものだが、人間関係に臆病な僕は、新たな一歩を踏み出すのが恐ろしくて、ズルズルとこの地にかじりついている。
まあ、どこにいたって僕は爪弾きにされるのだが。
入り組んだ路地の間を縫うように歩きながら、息をつく。
今日はあまりいいことがなかった。いや……今日も、か。
幸い今夜は休みだが、明日からのことを考えると気が重たい。
鬱々とした気持ちを抱えたまま急な坂道をのぼっていると、やがて大きな家が見えてきた。
平均的な一戸建てがすっぽり三軒は入ってしまいそうなほどの広い敷地に、西洋風の屋敷がデンと建っている。まだ新築なのだろう。白い外壁が真新しい。
絵に描いたようなド田舎の風景に、どう見てもミスマッチな高級住宅。一体どんな酔狂な人が建てたのだろうかと、僕はこの家の前を通るたびに首をひねる。
おしゃれな表札には『浅利幸恵&冬花』と刻まれているので、母娘二人暮らしなのかもしれない。それを知ったところで、僕のような人間とは一生縁はないのだろうが。
通り過ぎざま、何気なくフェンス越しに家の中を覗く。すると、パジャマ姿の若い女性がジョウロを持って庭に立っているのが見えた。どうやら花壇に水やりをしている最中らしい。
顎のあたりで切り揃えられた黒髪のショートヘアから見える横顔は、化粧っ気もないのに遠目からでも美貌が際立っている。ファッション誌から切り取ってきたような、長身の美女だ。
自分の胸がドキッと高鳴るのを感じる。彼女を見かけたのは初めてではないが、その姿を見かけるたびに、心臓がきゅっと跳ねる。
いけないと思いつつも目が離すことができなくて、つい足を止めて見入ってしまった。
すると、僕の気配に気づいた彼女が、不意にこちらを振り返った。
しまった。目が合ってしまった。
じわじわと、彼女の顔が歪んでいく。まるで気持ちの悪いものでも目撃したかのように。
今にも叫ばれそうになって、逃げるように立ち去った。
アパートに駆け戻って部屋の玄関ドアを閉めると、ようやく一息つくことができた。
ゴミで溢れる狭いワンルームのなかを、服を脱ぎ散らかしながら進んでいく。そのまま倒れるように布団の上へ突っ伏すと、頭の中に宮越くんや主任、同僚たちの顔がぐるぐると巡ってきて、自己嫌悪に苛まれる。
今日は、本当にツイていなかった。
もうこのまま眠ってしまおうと、無理やり目を閉じる。
すると不意に、窓の外から「にゃあ」という鳴き声が聞こえてきた。顔をあげると、すりガラス越しに、白い影がぼんやりと浮かんでいるのが見える。
四つん這いのまま近づいて窓を開けてみると、ベランダに小さな三毛猫――コパンが座っていた。ここは二階だというのに、猫というのは器用によじ登ってくるものだ。
愛らしい来訪者によって、憂鬱な気持ちはいくらか紛らわせることができる。
「コパン、おはよう」
僕は勝手につけた名前を呼びながら、頭を撫でてやった。コパンはすぐにゴロゴロと喉を鳴らして、僕の膝にすり寄ってくる。
生後半年ほどのコパンは、この辺りで可愛がられている地域猫だ。餌をあげるわけでもないのに、コパンは毎日のように部屋へ遊びに来てくれる。
コパンからすれば、大勢いる遊び相手の一人なのだろうが、僕にとって、彼は唯一の家族のような存在だった。
いつかこの町を出ていくとき、コパンも一緒に連れていきたい。
コパンだけは僕の味方だから。
× × ×
派遣会社のエージェントから電話がかかってきたのは、正午を過ぎた頃だった。
「……今、なんて言いました?」
『ですから、先方から次回の更新はしないとのご連絡をいただきました』
電話の向こうで、エージェントは淡々と繰り返す。
「だって、半年……ちゃんとやってきましたよ? けっ、欠勤も遅刻もないはずです。ノルマだって、每日果たしていたのに」
『北村さん。職場の人たちと、なにかトラブルはありませんでしたか?』
僕は、あっと声を漏らす。
「もしかして、主任が……なっ、何か言ったんです、か?」
『協調性に欠ける、とだけ』
「なっ……なんですか、それ。僕の話も聞いてください」
『申し訳ありません。また新しいお仕事をご紹介させていただきますので』
エージェントはそれだけ言うと、そそくさと電話を切ってしまった。ツーツーと無慈悲な機械音だけが耳に響く。
来月でクビ。
どうやら、主任はよほど僕のことが気に食わなかったらしい。
僕は携帯電話を放り投げ、積みあがったゴミ袋に顔を埋めるようにして倒れこんだ。
人間関係で契約を打ち切られるのは、今回が初めてではない。
高校を卒業してから五年。新卒で入社した会社を一年も経たずクビになったあとは、転がるように落ちていった。何度転職を繰り返したか、もはや覚えていない。
またもや人間関係で打ち切られた僕を、あのエージェントはどう思っているのだろう。
果たして、本当に次はあるんだろうか。
仕事を変えるたびに、どんどん生活……いや、人生が悪化していく。
あがけばあがくほど、ぬかるみに嵌まり込んでいくみたいだ。
「あああああっ!」
近所迷惑も顧みず、ありったけの大声で叫んだ。
なんでいつも僕ばっかり。僕が一体何をしたっていうんだ。
僕より仕事をしていない連中なんて、たくさんいるじゃないか。
なんのために、大人しくサンドバッグになっていると思っているんだ。
あんまりだ。
どうして、どうして、どうして。
自然と涙が溢れてきて、年甲斐もなくわんわん泣いた。でも、そんな自分をどこか冷静に俯瞰している僕もいる。
汚いワンルームのなかで、二十三にもなる男が何をしているんだろう、と。
こういうとき、良好な人間関係を築ける人は、友達にでも相談するんだろうか。
――北村が悪いんじゃない。君は頑張っていたじゃないか。
慰めでもいい。誰かがそう言って寄り添ってくれさえすれば、僕はきっと救われる。
そうすれば、僕の人生だって大きく変わるんじゃないかと思う。
……でも、そんな人は一度も現れなかった。
そばに転がった携帯電話に入っている個人的な連絡先はゼロだ。
僕が生きようが死のうが、この世界の誰にも影響を及ぼさない。そんな惨めな存在が、僕。
もう嫌だ。
僕はのろのろと立ちあがって、キッチンに向かった。しまいこんでいた包丁を棚から取り出して握り込む。
一度も使ったことのない刃は、薄暗い部屋の中でぎらりと鈍く光った。
どうせ、このまま生きていたってろくなことがないはずだ。
笑われる回数を重ねるだけの人生なら、もうここで終わりにしたい。
首筋に包丁の刃を当てて目を瞑る。チクッとした痛みに、ぞくりと鳥肌が立った。
このまま手前に引けば、一気に逝けるだろうか。
包丁の柄を握る手に、力を込めた。
と、その時だった。
部屋のインターホンが、鳴った。