灰色の無機質な高層ビルが乱立するコンクリートジャングルにおいて、その建物は遠くからでも異彩を放っているのがよく解る。
決して派手な色遣いをしているのではなく、決して珍妙なオブジェが置いてあるのでもなく、けれどそのモダンで開放的なデザインは、さながら周囲のビル群の息苦しいせせこましさにやれやれと肩を竦めているようにも見えて、場違いと言うか、何故こんな場所に建てられたのかと言う違和感を余すところなく撒き散らしている――そんな感じだ。
とは言え、曲がりなりにも公共の、いや政府の機関として機能している以上、利便性とやらは整っているに超したことはない訳で、掃き溜めの中の鶴のごとく景観の中で浮いていようとも、それはやはりこの地になければならないものであった。
世界文化財保護局日本支部。
堅苦しい名前からはイメージし難いその建物を見上げて、
今日からここは彼女の職場になるのである。
例え見た目はそうでなくとも、官公庁特有の排他的と言うか、足を踏み入れにくい空気に圧倒されていたのだが、毎日こうやって頭上を拝む訳にも行かないから、一時的なノリと言うか何と言うか、そんな発破材は必要だった。
美術館や博物館よりはひっそりとした画廊を思わせるようなエントランスを潜ると、磨き上げられたホールが待ち構えている。無人の受付には、各階にどんな部署が入っているか記載された簡素な案内板と事務的な電話が置かれているのみだ。
柔らかな照明の当てられたそれを素通りして、ミツキは正面に備えつけられたエレベーターのボタンを押した。運良く一階に待機していたそれに乗り込み、事前に指定されていた七階を目指す。
音もなく鉄扉が閉まると同時、足下から僅かな浮遊感と共に緊張感が込み上げて来て、ミツキはふるりと小さく身体を震わせた。ドクン、ドクン、と大きく響く鼓動を深呼吸して懸命に宥め、瞬く間に上昇して行く階数を示すランプを不安と同じだけの期待を込めて見上げる。
――大丈夫……落ち着いてやれば、大丈夫!
文保局特務課に内定を貰った、と聞いた時は我が耳を疑った。文化研究科を卒業見込みだったとは言え、ミツキの在学中である大学は三流もいいところだったし、その中においてすら成績は真ん中よりやや下の辺りが定位置な自分が、国家機関の一員になれるなどとは夢にも思わなかったからだ(当たって砕けろで求人応募したものの)。
ぶっちゃけ他の採用試験は全部ダメだったこともあり、初日でクビになどなってしまったら目も当てられない。
――とにかく、一生懸命な姿勢が大事よミツキ!
ぎゅっと肩にかけた鞄の紐を握り締めたと同時、ポンと軽やかな音を立ててエレベーターは七階に到着した。
が、下り立ったフロアの左手に見えた磨り硝子の扉には『研究課』と刻まれているだけで、どこにも特務課の文字はない。
「あれ……おかしいな。電話では確かに七階って……」
念のため別途送ってくれたメールを確認するも、やはり特務課は七階にあることになっていた。どうやら大仰な名前の割に、あまり大きな部署ではないらしいと判断して、仕方なく続く廊下に沿って奥へと進む。
「えーっと、特務課、特務課……」
迷子でないと自分に言い聞かせるよう、頭上にプレートでも出ていないか確かめながら歩いて行く。ずっと続くクリーム色の壁の内部は、そのまま研究課の部屋なのだろう。フロアの殆んどが占められているようだ。
カツコツと無人の廊下に響く自身のヒールの足音がどことなく虚しい。
ふ、と壁が途切れたと思ったらそこは給湯室とトイレになっている。
――もしかして何かの間違い……? それともやっぱり手違い?
溜息をついて、もう帰ろうかと俯きかけた視線を上げた際、さらに向こう側――フロアの最奥に一つの扉が佇んでいることにミツキは気がついた。
そちらへ続く途中の廊下は明かりも切れて薄暗い有様で、倉庫かと見紛うほどの周辺はろくに掃除もされていないのか空気も埃っぽい。恐る恐る近づいてみれば、安っぽい扉に手書きで『特務課』と書かれたメモ用紙のようなものがぺたっと貼りつけてあったが、それも歪んで剥がれかけていた。
「……………………」
明らかにコレは左遷じゃないかと言う思いが脳裏をちらついたが、そもそもそれほど優秀でない自分が大抜擢されたのだから、文句を言っている場合でもないだろう。
よし、と気合を入れ直して、ミツキは扉をノックしてからがちゃりと開けた。
「失礼します!」
「お、良かった。ちゃんと辿り着いたみたいだね」
そう言って立ち上がったのは、奥の課長席である大きな執務机に座っていた男だった。
三十前後くらいだろうか、こんな政府機関で役職を預かるにしては随分と若い気がする。オシャレなスーツが嫌味にならないスマートな容貌、ノーフレームのメガネが知的な印象を増幅させる。背も高い。
「初めまして、私が課長の
「は、初めまして! 本日より特務課配属になりました鴉葉ミツキと申します! 不勉強な部分も多々あるかと思いますが、一生懸命頑張りますので、ご指導のほどよろしくお願いします!」
「うん、元気があって大変よろしい」
裏返りそうになる声でぺこりと頭を下げると、等々力は笑って小さく頷いてから何枚か書類の入ったファイルをミツキに差し出した。
「それじゃあ、早速で悪いが君には現場に向かってもらいたい。特務課は万年人員不足でね……新人だからまずは書類整理から、オリエンテーションから、なんて訳にはいかない」
「は、はい! でも、あの……」
「大丈夫だ、心配することはない。既に先行して向こうには別の局員が待機しているから、現場へ着いたら彼の指示に従ってくれたまえ。これがその資料と地図だよ」
戸惑うミツキに有無を言わさずファイルを押しつける等々力。そりゃあ小さな子供ではないのだから、地図があればそれなりにどこへでも行くことは難しくないが、それにしたって初めての業務の際は、もう少し詳しく仕事の流れや進め方を説明したりするものではないのか。少なくとも、それが社会と言うものだと何となくミツキは思っていた。
「あの、もうちょっとこう……具体的なご指示はないんでしょうか?」
「生憎とここにはマニュアルなんてものは存在しない。臨機応変な対応が求められる。現場現場で毎回仕事内容が違うから、悪いけど説明のしようがないのさ。誰だって最初から上手くやれる訳じゃないよ。出来るように指導して行くのが上司と先輩の役目だ」
「で、でも……」
急展開過ぎて躊躇の方が大きい。もし、知識もないまま業務に当たり、取り返しのつかない失敗をしてしまったら? その場で即座に正しい判断が出来る自信はまるでなかった。ミツキの眼差しが捨てられた仔犬の縋るように必死だったせいか、等々力は僅かに苦笑を浮かべたらしい。
「鴉葉くん、うちに入る決意をしたんだから、ここが日本政府の中でどう言う仕事をしているかくらいは解ってるだろう?」
「はい、今まで人類が築いて来た叡智の結晶である文化財を、引いては文化そのものを歴史を、全力で保護し、維持に勤め、未知なる部分を明らかにしていくことです」
「その通り」
等々力は背後にある重厚な造りのロッカー(と言うよりは寧ろ金庫だ)からアタッシュケースを取り出すと、ダイヤル式の鍵を開けながら言葉を続けた。
「我々特務課はその名の通り、通常とは異なる特殊ケースの任務に当たる。中心となるのは他課と同じ文化財の回収業務が殆どだが、発掘課や回収課と仕事内容を異にしているのにはちゃんと理由がある」
カシャン! と言う耳障りな音と共に固定錠の戒めから解き放たれたのは、八発込めの自動式――所謂オートマチックと一般的に呼ばれる新品の拳銃だった。
「な…………」
「我々が相手にするのは文化財をコレクターのために裏ルートで売買する犯罪シンジゲート、それを資金源とするテロリストたち……所謂第一級危険度を誇るものが対象となる。故に我々に求められるのは、どんな手段を用いても文化財を保護し回収する絶対的覚悟と、数多の死線を潜り抜ける度胸と腕だ」
等々力の表情は最初と同じ人当たりのいい柔らかな物腰なのに、優しげな笑みの中央でこちらを見据える眼差しはミツキを見定めようとする冷徹な指揮官そのものだった。
「今時直接取っ組み合って殴り合って確保、なんて泥臭いことをする必要はない。抵抗などさせないよう、先手を取って周辺を包囲し、ホールドアップさせるのが基本さ。一応本局入りの研修で射撃の訓練は受けただろう?」
「はあ、まあ…………」
一体何の必要があるのかと思った研修にも、ちゃんと意味があったらしい。
だからと言ってこんな乱暴極まりない説明で、理解や納得が出来る新人がどのくらいいるのかは甚だ疑問だったが、多分等々力自身も無茶振りしている自覚はあるのだろう。
「とは言え、心配しなくてもこれはただの麻酔銃さ。流石に文化財のために人命が失われてもいい、なんて言うつもりはないよ」
無造作な仕草で差し出されたそれを思わず勢いで受け取ってしまったものの、黒光りする凶器はずしりと重たい。その冷たさに思わず全身が総毛立った。
「だが、だからこそ我々は、そんなもののために失われようとする人命をも守らなきゃならない。それを心して、現場での業務に当たってくれたまえ」
* * *
人類の歴史は文化の積み重ねである。
生きるために必要不可欠な道具が生まれ、それらは時代を経てより便利で使い勝手がいいように少しずつ進化を遂げて来た。
やがてそのおかげで生存が困難でなくなると、人類は出来た余裕を楽しむために違うものを作り始める。それは己を飾るためのものであったり、心打たれた素晴らしい物事を表現したものであったり、多くの民を勇気づける話であったりと、様々な形を取って後世に残され伝えられた。
ヒトが他の生物とは決定的に違っている文明的理由を、生存とは全く関係のない独自の文化を築いた点だとしている学者は多い。
そして、それ故に同種族間での争いが絶えないのだ、と。
戦争では多くの命と共にそうした歴史も奪われる。古い建物が壊され、由緒ある器物が武器にするため徴収され、自国の戦に批判的だと本や絵画が焼かれる。
尊きものが過ちに寄って失われることは、多くの命が奪われるのと同じくらい深い罪だ。それまで歩み築いて来た全てを否定するに等しい、非人道的行為だ。
人類の文化を守ることが他国への敬意となり、敬意こそが争いをなくす最も理性的で平和的な術である。一歩間違えれば人類そのものが滅亡していたであろう先の世界規模の大戦において、己の誤りをそう定義した人類は、各々協力して平和を維持するためにその手を差し出した。
〈世界連邦〉の誕生である。
そこに属する国には、意義を同じくする各種機関が置かれることとなった。文化財保護局もその一つだ。
「『本日十三時、貴殿の所有する[[rb:魔晶石>ましょうせき]]『暁』の指輪をいただきに参上いたします。怪盗バレット』……今時こんな小説みたいに律儀に予告状送って来る泥棒なんて、いるんですね。化石みたいな存在だわ。この狼の紋章も」
「気障な奴だろう? だがそんなでもこの数年、解ってる限りでも両手足の指じゃ足りないくらいの獲物をやられてんのさ。〈魔晶石〉に関しちゃプロだ」
呆れて溜息をつきながら見せて貰ったA4の紙をミツキが返すと、先行している同局員であるところの
五十を回った、白髪交じりの骨太な印象が強い男性である。若干くたびれた感はあるものの、如何にも現場叩き上げ、と言った雰囲気で、眼差しと言い体格と言い文保局の人間と言うよりは、狡猾さを併せ持つ刑事のような容貌だ。
ミツキが型通りに名乗って挨拶をしようとすると、煩わしそうに片手を振られた。あまりに立場も世代も自分とかけ離れた若い女と言うこちらを持て余してのことかと思いきや、ただ単に時間が押しているらしい。合理的な男だ、と言うのが第一印象だった。
やり取りなどそこそこに、促されてミツキは彼の後に続いた。
→続く