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第9-1話 別れ(1)

 夏の午後4時は、アスファルトにたまった熱気がゆらゆらと立ち登る上に強い西日がさして、ねっとりと絡み付くような暑さだった。


「なんやこの暑さ溶けるわ」

「本当に。すごく暑いね」

「またプールとか行きたいな」

「今年も皆、集まれるかなぁ」


 氷芽ひめを家まで送る途中の会話はこんなことばかりだったが、その間に、昨晩お兄さんが部屋に入ってきたことが、ぽつぽつと語られた。

 氷芽が寝たふりをしていると、身体に触られたのだという。

 そこで起きて、お兄さんが諦めて寝てしまうまでトイレにこもっていた。

 母が、お腹の風邪かって心配するんだよ、と氷芽は笑った。


「しばらく離れてるとね、今度こそ反省してくれてるんじゃないか、元通り、何もなかった頃に戻れるんじゃないかって。勝手に期待しちゃってたんだけど……そうは、なかなか」


「僕んに泊まるか? 妹もヒメちゃんやったら同じ部屋でOKやと思うけど」


 お兄さんのいる家に送っていくのに罪悪感を覚えて、僕は提案してみる。

 だが案の定、氷芽ひめは首を横に振った。


かえでくんのご家族に迷惑かけるし、里絵りえちゃんも気にするだろうから」


「やなぁ……」


「それに自分でなんとかしないと、しようがないし」


「うーん……」


 僕は何か良い解決策がないかと頭を巡らせる。

 腹立つくらい、なにも、全く、浮かんでこない。

 仕方なく、ありきたりのことを言った。


「どうしてもアカンかったら、うちの妹の部屋とかに泊まればいいからな。それか、ほかの女の子の家とか」


「そうだね。ありがとう」


 うなずいて微笑む氷芽ひめを見ながら、僕は中学校の3年間を後悔した。

 仲良くなって 『僕だけが特別』 と自惚れて、浮かれていたけど ―― それは彼女を救うためには、なんの意味も持たないのだ。


 別れ際に 「また遊ぼうな。皆で海行こ」 と約束した。

 けれど、翌日に氷芽ひめから 『寮に戻ることになりました。昨日はありがとう』 とのメールが入って、それきりになった。


―― 翌年も、その翌年も、そのまた次も。

 ずっと、氷芽ひめは戻って来なかった。

 果たされることのない僕たちの約束は、今でも夏になると、カレーの匂いとともに、胸の奥を引っ掻いている ――



※※※※※



 氷芽ひめがこの世界からいなくなったのは、偶然にも、僕が最後に彼女に会った日からぴったり8年後だった。


 24歳になった僕は中堅のゲーム制作会社で、CGデザイナーとして忙しい生活を送っていた。

 年収は中の下、仕事量はたぶん上の中、といったところで、その日も絶賛・残業中だった。

 そこへ、里絵りえ翔樹とぶきから立て続けにラインが入ってきたのだ。


 慌てた文面と共に貼り付けられたリンクの先は、小さな報道記事だった。

 ひとりの男が、好きだった女の首を絞めた。

 ただそれだけの、単純な殺人。犯人がすぐに自首したことから、事件性もない。

 普段なら、毎日並ぶ痛ましいニュースの1つとして、素通りしてしまう記事が世界を変えることもあるのだ、と初めて知る。


 記事の中の氷芽ひめの名を何度も見直して手の甲に爪を立てる…… かすかな痛みとにじむ血が、夢ではないと教えてくれる。


 ラ◯ンのグループチャットが、葬儀についての知らせとその返事で埋まる。

 日時は翌日、土曜日の2時。

 場所は地元の会館。

 知らせと共に、翔樹とぶきは地図も添えてくれていた。


 具体的な情報がいっそう、非現実感を掻き立てる。

 氷芽ひめとは、つい1週間ほど前にラ◯ンでやりとりしたばかりだ。


 可愛らしいスタンプと共にグループラ◯ンに上げられていた、夏の帰郷予定にびっくりして、僕から連絡をした。


 『今年は帰るん?』 『うん、会えるといいね』 『無理やな~盆2日しか休めん』 『ワーカホリックですな』


 他愛ないやりとりを、スクショする。

 昔、氷芽からもらったメールを探し出して保護しておく。氷芽がうつっている写真も。

 別れというものは、わざとらしい行為のひとつひとつで、認識されていくのだろうか。


『葬儀行くか?』 翔樹からの個人ラ◯ンに 『無理やな~仕事』と打ち込むと 『そっか。しゃあないな』 と即返された。



 翌日は土曜出勤だった。

 僕は普通に仕事をしながらふと 『今頃、氷芽ひめのお母さんが最後に彼女を飾り立てているところだろうな』 と思った。


 早めに仕事を切り上げて外に出ると、夕暮れだった。

 雲が燃えるようなあかねに染まり、紫がかった空にまだらに浮いている。

 またふと 『この空に、彼女を焼いた煙が溶けているんだな』 と思った。


 しかし、それらは僕にとってはリアリティーのない、空想でしかない。


 だって氷芽は、いつも、怒りと憎悪を内に抱えて、そんな自分にも周囲にも怯えていて、だからこそ、静かで穏やかで ――

 いつも、誰からも見えないところで、生きようともがいている。

 そんな子だったじゃないか。

 死んだなんて、もうこの世界のどこにもいないないんて、認められるわけがない。


 氷芽ひめに、死は、相応しくないのだ。

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