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第8-4話 カレー(4)

「ヒメちゃんがモチーフや」


 言ってしまうと、描きたいものがとたんに、はっきりと形を取り始める。


 ―― やはり、2種類の構図で描こう。

 まっすぐ前を見つめた胸像と、窓の外を眺める少女の後ろ姿と。

 胸像は、その眼差しが観る者の内面をえぐり出すように。

 そして、後ろ姿の少女がいる部屋には、暗く淀む闇をひそませよう。

 けれど、窓は開きかけ、その外は眩しい日差しで溢れた夏の空だ。


 タイトルは 『祈り』 ―― どんな暗闇のなかにいる者も、ただ耐え、潰されるだけではない。

 意志を持つことができる。たたかうこともできる。そして、そのたたかいの先には、必ず、光にあふれた未来が待っていますように。

 これは、僕の祈りだ。

 僕はいま、氷芽になにをしてあげればいいか、わからない。

 どう振る舞えばいいかさえも。

 だからこそ、せめて。

 そういう絵にしよう ――


 こんな考えに夢中になっていたために、僕は、下を向いた氷芽ひめの複雑な表情を、軽くスルーしてしまった。


 氷芽は、うつむいたまま、まだ半分ほどしか減っていないカレーをスプーンの先でつついた。


「わたしがモチーフなんて、やめた方がいいんじゃない?」


「なんでやねん」


「だって恥ずかしい。言ったでしょ、わたし、汚いんだよ」


「アホか。なに、言うてんねん」


 ひやりとした何かが、僕の腹の底でうごめいた。

 なにが 『祈り』 だ、と僕は先ほどまでの自分に毒づく。

 そんなもの、伝わらない。

 氷芽の魂はいつも、僕の手の届かない深淵にいるようだ。


「本当は悪い子だから、家族からも友達からも嫌われてるし」


 ―― でも、どれだけ無駄に思えても、伝え続けないと。

 一生懸命、手を伸ばさないと。

 氷芽は、ほんとうに、遠くに行ってしまうだろう。

 そんな気がする。

 こみあげてくる虚しさをおさえて、僕は強めのことばを選ぶ。


違うちゃうで! そんなん誰も思うてへんで! ヒメちゃんくらい良い子なんて、そう居てへんで!」


「そういうフリをしてるから」


「そんなん、フリできるだけ立派なもんやろ!」


 足りないなあ。

 どんなに言っても、届かない。


 ―― もし、僕が氷芽といま、付き合っていたら。

 問答無用で抱きしめて、納得するまで 『きれいや。世界一いい子や。間違いない』 と言ってあげられるのに。

 でも僕にはそんな勇気は、これまでずっとなくて、今もまだ、ない。


 氷芽が人に嫌われるのを怖がるのと同じように、僕だって、氷芽から汚いと思われるのは怖いのだ。

 ずるくて臆病者なのは、僕も一緒で。

 そのために、ほんとうの気持ちを隠してしまうのだって…… そうか。


 ―― 僕も、一緒だ。


 やっと、言うべきことが見つかった。


「僕なんてな、嫌いなやつは地獄に3万回堕ちろ、って思ってんねんで!」


「ウソ。かえでくんが?」


「うん、まずはヒメちゃんの兄ちゃんな。地獄に1万回堕ちろや」


 氷芽の家族の悪口なんて言ったら、嫌われるかもしれない。

 だけど、それでもかまわないと思ったし、そうならない確信も、あった。

 僕が怒ることは、氷芽ひめだって怒っていいのだ。家族がなんだ。

 悪気なく傷つけ、支配しようとしてくるやつらに、遠慮する必要なんかない。

 そんなやつらのせいで、犯してもいない罪に傷つきながら生きていく必要もない。


 誰にだって、前を向いて生きる権利があるんだ。


「あと、ヒメちゃんのお母さんもな。もっとヒメちゃんのこと分かったれやタコ、って僕は思うから、悪いけど地獄に1万回や!」


「…………」


 氷芽ひめの、めちゃくちゃビックリした顔。

 怒られなかったことで、僕は調子に乗った。


「あとなー、中1んときのチカン男や! あいつはもう絶対許せん! 地獄に百万回やー!」


「足したら、102万回になるね」


「あれっほんまや! 3万回より大幅オーバーしてもたな」


 珍しい氷芽のツッコミに、僕のテンションは、ますます上がる。


「まだまだ足りんでえ!?」


「そう?」


「そうや! これからはな、ヒメちゃんをいじめるやつは全員、地獄に10万回ずつ堕ちるんやー!」


「…………!」


 氷芽ひめが、テーブルに突っ伏した。肩が、小刻みに震えている。

 氷芽ひめはなんと、息も絶え絶え、といった感じで大爆笑しはじめたのだ。


「ふっ……ふふふふふっ……かえでくん、面白い……ふふふっ……ふふっ」


「なんやねんな、ひとが真剣に言ってんのに」


 ぼやくと、ますます笑いが大きくなる。


「ヒメちゃんのツボの所在がわからへんわ」


 ヒメちゃんもおもろいな、と僕も笑った。


 それから。

 僕たちは、なにがおかしかったのかさえ忘れるほど、思い切り笑いまくったのだった。

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