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第8-1話 カレー(1)

 開け放った窓から、ゴーヤのカーテンと屋根のひさしを通して少し涼しくなった風が入ってくる。


 夏の朝 ―― 外はすでに暑いだろうが、家の中はまだ爽やかだ。


 母と妹が早くから出かけ、僕はひとり解放感に浸って自室のベッドに寝転がていた。


 手にしているのは、翔樹とぶき師匠から借りた写真集。


 彼ら兄弟は相変わらずナッちゃんのファンで、より大胆になった 『な・つ・視・線! 19歳ナインティーン』 を 「リア充に見せるナッちゃんはない!」 などと惜しみつつ、しぶしぶ貸してくれたのだった。


 とはいっても、単にきわどい水着写真を楽しんでいるわけではない。

 これでも真面目に、絵の構図を考えているのだ。


 ―― 高校で美術部に入った僕は、秋の学祭で2点出品する予定だった。

 同じ構図を油彩で1点、CGを使ってイラスト風に仕上げて1点。


 里絵りえが 「モデルやってあげよっか?」 と申し出てくれたのだが、なんだか気恥ずかしく、結局は写真集に頼っている次第である。


 ナッちゃんが凄いのか、それともカメラマンが天才なのか。

 ただ歩いているだけ。そんな構図にさえ詩情が溢れている。

 媚びのない自然な表情の中に、大人になりきらない女の子の透明感あるエロスが漂う。


 そんな写真を眺めつつ、僕は、頭の中で別の少女を描いている。

 ―― 風になびくサラサラの髪に、憂いを含んだ表情。その目線に、できれば、心の奥底に潜む何かを抉り出してくるような怖さを持たせたい。

 …… とすると、胸像や、半身像にするべきか。

 しかし、また同時に、伸びやかな肢体も描きたい。後ろ姿で。夏の星座が映る窓辺で。


 ―― 振り返らせようか。

 それとも、半身と全身、両方描いてみるか。


 頭の中で何度も消したり描き直したりしているうちに、その少女はいつの間にか氷芽ひめになっていた。

 ―― 顔とか姿ではなく、心の奥底に潜む、冷たくて寂しくて、どこか怖い、なにか。

 氷芽が持っていたそれは、決して良いものではあり得ない。

 できれば、そんなもの知らずに生きていられたほうが、幸せに違いない。

 だけど僕は、どうしても、そこから目が離せないんだ。


 ―― いや、ヒメちゃんをそのまま描くのは、あかん。


 考えなおそうと頭を横に振ったとき、ケータイが鳴った。

 昔に彼女から教えてもらった曲は、タイトル作者ともに忘れたが、美しいミュージカルナンバーだ。

 実際には、着メロとして聞くことはないと思っていたんだが……

 僕は少し驚きつつ、電話を取った。


「ヒメちゃん? どないしたん?」


「楓くん? 今、いいかな?」


 いつもどおりの、落ち着いた声。

 一瞬、不安そうだと思ったのは、たぶん気のせいだろう。


「別にかまへんで」


 僕は、片手で写真集をかばんにしまった。


「んで? どないしたん?」


「今から、かえでくんの家に行っていい? もちろん里絵りえちゃんも誘うから」


「はぁ!?」


「あ、ごめん」


 びっくりして上げた声にすぐに反応して、ビクビクと謝るところが氷芽ひめらしい。


「やっぱり、急だよね……」


「いや、ええで。ええけどやな…… 里絵りえは、おらへんで。今日からおばーちゃんや」


「ふぅん……」


「それにやな、ウチも今、僕しかおらへんで。ウチくるか?それか、きてもろても水しか出せへんから、外で会おか?」


「じゃあかえでくんのおうちに行くね」


 予想外の答えに、口のなかがカラカラに乾いたような気がした。


 ―― どないしょー! なんで? なんで、あんな普通に 『家来る』 とか言うのん!?


 内心で叫んでいるうち、氷芽ひめの高校は女子校だったな、と思い当たった。

 たぶん、氷芽ひめにとって僕は、まだ中学生の時の純情少年のままなんだ。


 ―― とりあえず、何でもなさそうなフリをしよう。


「え、外の方がええんちゃう?」


「実はカレーの材料を買ってしまいまして」


「なんで急にカレーやねん!」


「皆で食べたいな、って思って」


「なんで僕んやねん!」


「ごめん、やっぱり、急にとか迷惑だよね…… やっぱりやめるから。ヘンなこと言って、本当にごめんね」


 いつも皆に向けられる、落ち着いて笑みさえ含んだ声だった。

 ―― こういう時の氷芽ひめは、じつは凹んでいることが、しばしばあるんだ。


 僕は、できる限り普通に答えようと呼吸を整えた。

 ―― 昔、彼女の傍にできるだけ長く居るために、ただの友達を気取っていた時のように。

 なんでもなさを装う。


「いや、別に来てもええで。皆で食べたいなら、里絵りえはいーへんけど、ほかの子ら呼んでみるか?」


「うん、ごめんね、よろしくお願いします…… 皆、来てくれると良いね」


「そやな」


 僕は電話を切って軽く掃除をし、中学生の時の仲間に連絡を入れた。


 氷芽が僕の家に来たのは、それから20分後のことだった。

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