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第7話 噂

 高校生になってしばらくして、僕は里絵りえと付き合い始めた。


里絵りえは同じ高校でまた同じクラスになったのだ。なんとなく一緒に帰ることが多くなり、僕たちは自然に付き合い始めた。


 言い出したのは里絵りえからだったと思うが、後程それを言うと 「かえでからやって!」 と返される。そんな始まりだった。


 里絵りえとの付き合いは楽しかった。

 特に気を遣ったりせずに喋り、他愛のないことで笑い合う。


 並んで歩く。手をつなぐ。キスをする。

 付き合い始めた時と同じように、それらはごく自然の流れだった。


 女の子の柔らかさと温かさに、僕はすぐに夢中になった。



 氷芽ひめのことは確かにまだ好きだったが、全寮制のお嬢様学校に進学してしまった彼女は、当時の僕にはもう遠い存在だった。


 サラサラした髪、すんなり伸びた白い手足に、人形のような繊細な美貌。

 皆に見せる、穏やかで曖昧な微笑み。

 僕だけしか知らない、恥ずかしそうな表情や弾けるような笑顔。


 毎日毎日、好きやと思っていた。

 でも、恐くてこわくて、どうしても言えなかった。

 触れるだけでドキドキして、痛かった。


 忘れようがない、全部のこと。

 それらは美しい物語として、大事に僕の胸にしまわれている。

 そして、何かの拍子にそのページがはらりと開く ―― けど、その物語はもう、未来さきを持たない。



かえでってヒメちゃんと付き合ってた?」


 里絵りえにしては珍しい種類のことをかれたとき、ギクッとしたのは、たまたま、氷芽ひめとの物語の1ページが開いていたからだった。


 夏、遊園地の後で里絵りえを家まで送っている途中だ。

 水鉄砲で水をかけ合ってはしゃぎ疲れた帰り道には、どこかの家からカレーの匂いが漂ってきていた。


「いいや。なんでなん?」


「だって中学生の頃、めっちゃ2人仲良かったやん! 皆付き合ってると思ってたで!」


 初耳だった。


「で、なんで今さらそんなこと?」


「ママがね、ヘンな噂してて」


 里絵りえが顔をしかめる。


「あの子、小学生の時にお兄さんとデキてたとかなんとか」


「お兄さんって去年海に一緒に行ってくれてた人」


「うん」


「しょもない噂やな」


 一瞬、脳裏に浮かんだ氷芽ひめの複雑そうな表情を打ち消す。


「ありえへんやん、そんなん」


「けど言われてみたら、あの時、兄妹にしてもやたら距離が近いなぁ、そんなもんかなぁ、って思ってたんだ」


「ウソやろ」


「電車の中とか。普通にヒメちゃんの腰に手ぇ置いてたし」


「しょもないとこ見とんなぁ!」


「やねぇ」


 里絵りえは首をすくめて笑った。


「でも良かった。そんな子とかえでが付き合ってなくて」


「しょもないわぁ、ほんま!」


 急に汗がべとついたように感じて、僕はできるだけ自然に、里絵りえとつないでいた手を放す。


「だって気持ち悪いやん? 噂が立つだけでも」


「本当だね」


 背後から不意に、キレイな標準語で静かに言われて、僕と里絵りえは一瞬固まった。


「気持ち悪いよね、そんな子って」


 久々に見た氷芽ひめは、僕の記憶そのままの、穏やかで曖昧な微笑みを浮かべていた。


「えー!? ヒメちゃん! めっちゃ久しぶりー!」


 里絵りえがわざとらしく、はしゃいだ声を出す。


「なんていうん? キレイになった? さっすが都会の高校は違うねぇっ」


「たぶん気のせい」


 氷芽ひめはクスッと笑う。


「勉強ばかりしてたから」


「えーほんま? かわいそー」


「そうなの」


 如才ない感じの、軽い受け答え。


里絵りえちゃんとかえでくん、付き合ってるんだ」


「はーい、実はそうなんです! わかっちゃった?」


「電車も同じだったのに、全然気づいてない感じだったから」


 氷芽はまた、笑顔を作った。


「良かったね。お似合いカップル」


 僕の胸はツキン、と痛んだけれど、僕にはもうそんな資格はない。


 へへ、と里絵りえは笑い、氷芽ひめのスーツケースを指した。


「しばらくこっち?」


「うん。25日まで」


「じゃあまた、連絡するからさ、遊ぼねー!」


「うん、よろしく」


 それから里絵りえの家の前まで、僕たちは、ごく当たり障りのない話題 ―― 学校のことや、この夏の映画のことなどを話しながら歩いた。


 氷芽ひめのとんでもない噂が、どこまで本人に聞こえていたのか…… 聞こえていたら、傷ついたに違いない。

 すごく気になったけど、それを確かめる時間も勇気も、僕には無かった。


 けれど、その翌日。

 真相は、意外な形で明らかになった。

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