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第6-2話 中学3年生(2)

 中学3年生の夏の終わり ――

 クラスの皆で、海に行った。


 意外なことに、氷芽ひめも一緒だった。

 一昨年、去年とプールで着ていた華やかな水着の上に薄紫のラッシュガードを羽織っている氷芽の姿を確認して、僕はなんとなく、ほっとする。

 ―― 海は絶対に、反対されるだろうと思っていたから。


「お母さんには怒られへんかったん?」


 そっと訊くと、氷芽は恥ずかしそうな顔をした。


「実は、兄が一緒に来てます」


「え? ほんま? どこ?」


 氷芽が指す方向に目を向けて、了解した。

 海の中でふざけまくっている大学生たち ―― 彼らも、同じ駅から電車に乗って同じ駅で降りたのだ。なかのひとりが、お兄さんなのだろう。


「帰りに声かけてくれって」


「挨拶とか」


「要らんわ、俺らよりリア充な中坊どものことなんか知るか…… だそうです」


 お兄さんらしき人は、氷芽ひめとよく似た整った顔立ちだった。だが、氷芽ひめにつきまとっている冷ややかで静かな影は、全く感じられない。


「モテそうなタイプやのになぁ。優しそうなお兄さんやん」


「…… うん」


 僕は、はっとする。

 氷芽ひめの表情に、ほんの少しだけ複雑なものが横切った気がしたからだ。

 けれど、もう1度、見直したときには ―― 彼女の顔には、いつもの穏やかなスマイルしか浮かんでいなかった。


「遊ぼう?」


 日焼けしていない華奢きゃしゃな手に腕を引っ張られて、僕は止まった。


 波の音が急に大きく聞こえて、潮風がひときわ強くかおる。


 僕の中から、自然に、言葉があふれてこぼれ落ちる。


「好きや」


 ―― それはいつも、僕の心にあったけれど、表に出すことを抑えていた気持ちだった。


 氷芽の表情に、僕にしか見せない種類のものが増えていくにつれ、失うことが恐くなり、ますます、知られてはならない、と思うようになった気持ちだった。


 ―― どうして、それがこのとき出てきたのか、理由は僕にも分からない。

 このときの、僕の戸惑いも。

 しまった、と後悔しているのか。

 聞こえていますように、と願っているのか。

 それとも ―― その反対であるように、祈っているのか。

 僕の想いはそれらの全てであり、また、そのどれもが違ような気がした。


「え?」


 氷芽ひめが、怪訝けげんそうに首をかしげて僕を見る。

 ―― 僕の声は、届いていなかったのだ。

 なら、もう一度。

 今度は、うっかり出てしまった、とかではなく、覚悟を決めて ――


 今度はこそ、誤魔化さずに、きちんと言おう。

 もしダメでも、きっと、このほうがいい。

 黙ったまま、来年、別々の高校に行って、そのままになってしまうよりは ――


 僕が息を吸い込んだとき。

 向こうのほうから、明るい声が大きく僕たちに呼び掛けてきた。


「おおーい! ヒメちゃん、楓くん! こっち、こっちー!」


 波打ち際で、里絵りえが長い足でピョンピョンと跳びはねつつ、やっぱり長い手をいっぱいに振っている。


「はーい、今いくよー!」


 氷芽ひめは細い声をいっぱいに張り上げて、里絵たちに手を振り返し、僕の腕を引っ張った。


「行こう、楓くん」


 花が開くような笑顔は、うぬぼれかもしれにいけれど、僕だけが知っているものだと、やっぱり思う。


 ―― その日は、たった1つの言葉を喉の奥に引っ掛けたまま、僕は仲間と目一杯はしゃいだ。



 ―― あのとき言えなかった言葉と気持ちは、それからずっと、僕の中にしまいこまれたままになった。


 お兄さんが傍にいるため、僕が氷芽ひめをガードする必要がなかった帰りの電車でも。


 2学期を迎えて、久々に学校で顔を合わせた日も。


 約束通り、美術の先生に相談するのに途中までついてきてもらった、その時も。


 冬休み、受験、合格発表、卒業式、そして春休み ――


 あの言葉が貼り付いたままになっている喉の奥が、ときどき、ひりひりと痛むように思えても。

 僕にはどうしても、それを再び吐き出す勇気が持てなかった。


 ―― 大人になっても僕は、夏になるとよく、あのときのことを思い出す。


 ―― もし、あのとき。

 潮の薫りの中で、僕の気持ちが氷芽ひめに届いていたなら。


 僕がずっと、彼女の傍にいることを許されていたなら。


 氷芽ひめは、今でも、生きていただろうか。

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