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第3-2話 プール(2)

 広い市民プールをなんど、氷芽ひめの姿は無かった。


「ヒメちゃんどこ行ったか知らん?」


 ビニールボートを口で膨らませろとムチャ振りを平気でしてくる女子たちに尋ねるが、皆「さぁ?」と首をかしげる。


「トイレちゃう?」


「僕、ちょっと探してくるわ」


 皆が不思議そうな顔をする中、翔樹とぶきだけがまたニヤリとし、僕に向かって 『ムッツリ』 と口を動かしてみせた。うっさいわ。

 もし、タチの悪い男どもにからまれてたりしたら、どうする。


 ―― 探すなら、上からだ。

 閲覧席に向かう階段を早足で上る。

 踊り場まで駆けたとき。

 反対側から急に、華やかなピンクの水着がぶつかってきた。

 お互いに慌てて避けようとして、うまくいかずに同時に尻もちをついてしまう。


「ヒメちゃん?」


「ごめんなさい…… 急いでたから」


 条件反射的なスピードで詫びられて、なんだか悲しくなった。


「いや、いいけどな。急にいなくなるから、心配したんやで」


「ごめんなさい」


「いいけどな…… だから、謝らんでいいって、ほんと」


 乱れたピンクの裾からのぞく白い短パンと日焼けしていない太腿ふとももからできるだけ目をそらして、立ち上がる。 

 氷芽はまだ座ったままだ。


「ほら」


「あの、怪我してないから、大丈夫……」


 特に意識せず差し出した手が、断られて宙に浮く。


「あっ、そうやんな。いや、ごめん」


 慌てて引っ込めようとした僕の手に、氷芽ひめの指先が触れた。


「ご、ごめんね。やっぱり、お借りします」


「あ、ああ、と…… 無理せんでも、いいんやで」


「いえ、ぜひ、貸して下さい」


 なんてことを言うんやヒメちゃん!

 ―― 夏の空に飛んでいきそうになった心臓を、僕は力一杯ねじ伏せた。

 勘違いなんかしない。

 彼女は、変に気を遣ってくれてるだけなのだから。


「ほれ」


 僕はもう一度、手を差し出した。

 意識もしてないし、勘違いもしてない…… そういうふうに、見えますように。


「…… 失礼します」


 氷芽ひめ華奢きゃしゃな手が、僕の手にそっとふれた。

 氷芽が立ち上がるのを待って、並んで階段を降りる。

 手はまだつないだまま…… うっかり握らないよう注意して、できるだけ、ゆっくりと歩く。


「ほいで、なんでヒメちゃん上行ってたん?」


「事務室の人に空気入れ貸してもらえないか、聞いてたの」


「それで貸してもらえるん?」


「うん」


 うなずく氷芽ひめの顔は珍しくハッキリと嬉しそうだ。

 合わせて、僕のテンションもめちゃくちゃ上がる。


「おおグッジョブやな! ありがとう!」


「ううん。空気入れ、持ってくるの忘れてて、ごめんね」


「大丈夫やまだビーチボールしか膨らませてへんから!」


 僕たちはゆっくり歩いてプールサイドに戻り、皆と手分けしてビニールボートや浮き輪を事務室まで運んだ。

 そして、それから何時間もクタクタに疲れるまで、はしゃぎまくったのだった。


 ―― けれど、何年も経ってこの日を振り返るとき。

 僕が思い出すのは、プールの匂いのする湿った階段での出来事と、氷芽ひめが居なくなった時の締め付けられるような不安だけ、だったりするのだ ――


※※※※※


 プールからの帰りは、ラッシュアワーに差し掛かっていた。

 夏の長い日もさすがに落ちかけ、薄闇のなかホームに滑りこんできた電車は、かなり混雑している。

 僕たちは皆で乗車したものの、そのあとはもう、固まって立つことはできなかった。それぞれバラバラに、わずかな隙間を見つけて散っていく。

 氷芽ひめは偶然、僕の隣になった。

 会社員らしき男が、押されるようにして氷芽の後ろに立つ。

 ふっと氷芽に緊張が走った。 

 ―― そうか。あの映画の日、氷芽はやっぱり、平気なわけじゃなかったんや…… って、あたりまえか。


「扉際に立ちや……って、空いてないな」


 僕は軽く舌打ちをした。

 氷芽ひめを不安がらせたくない…… 

 こんなこと考えてるのが、ナニサマやねん、と自分にツッコみたくなるけど…… 僕はこの子を、守ってあげたいんだ。


「僕が後ろでガードしよか? ヒメちゃんさえ、よかったらやけど……」


 自分のことばが言い訳じみて聞こえて、なんだか焦る。


「ほら、この前みたいに、チカン出たらイヤやろ」


「え……」


 びっくりした顔で見られて、びびった。


「下心なんか、ないで! いや、ほんまに!」


「うん……」


 氷芽はちょっと考えてから、うなずいてくれた。


「お願いします…… ありがとう」


「よっしゃ、まかしとき」


 僕は氷芽の背後に立ち、からだが当たらないように気をつけながら、薄い肩に両手をかける。間に誰かが入ってこないように、するためだ。

 だが、氷芽は背筋をこわばらせている。

 固まった背中…… 氷芽の緊張が、伝わってくるみたいだ。


「ありがとう」


 小さな声での御礼は、たぶん本心なんかじゃない。

 ―― 無念無想や、と僕は自分に言い聞かせた。

 氷芽に触れて、本当は、やたらドキドキしてるとか、気付かれたら、たぶん終わる。氷芽は2度と、僕を信用してくれなくなる気がする…… なんでだかは、わからないけど。

 駅につくまで、僕と氷芽はその姿勢のまま、ボソボソとおしゃべりを続けた。

 僕も氷芽も、ずっと緊張しっぱなしだった。

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