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第2-2話 映画(2)

 電車が映画館のある町に着く。

 夏休みの昼間、大半の人が用事があるのはこの町らしい。

 電車の扉が開き、駅のホームに吐き出される人の波に僕と氷芽ひめも混じる。


「映画の前にマクドやろ」


「行ったことない」


「うそ」


「まじ」


 どんだけお嬢様やねん、と驚く僕に、無理した感のある言葉が返される。


「じゃあ、ほかのんにしよっか。知ってる店ある?」


「ううん、マクドでいいよ」


「行きたいとこでええねんで」


「行きたいとこ……」

 氷芽ひめはしばらく考えて 「じゃあマクド」と言った。


「ほな行こ」 と、僕らが改札を通った時。


「ちょっとあなた」

 知らないおばちゃんが、声を掛けてきた。


「スカート、切れてるわ」


「「えっ」」

 氷芽ひめと僕は驚いて、おばちゃんの指が示す先を見る……本当だ。


 電車に乗る前にはふわりと広がっていたスカートの後ろ部分が、ざっくりと裂かれている。

 そして、裂け目の脇には、ヌルッとした感じの半透明の液体が付着していた。

 独特のニオイが鼻を刺す。


 おばちゃんは顔をしかめてティッシュを出し、それを拭ってくれた。


「どう見てもチカンやな。気付かなかったの?」


 おばちゃんの問いに、氷芽ひめは力無く首を横に振る。


「どうりで人の視線が痛いと思った……」


 呆然と呟く彼女の横で、僕はめちゃくちゃに情けない思いを噛みしめていた。

 隣にいたのに、気付かなかった。守ろうなどとは全く、思っていなかった。


 いくら美少女でも身体はどちらかといえば、まだ子供っぽい。

 友達とこっそり交換している写真集や雑誌とは全然違う彼女を、心配するという発想がまず、無かった。


 ――― 僕と同じ年の女の子が、大人の男の欲望の対象になるなんて、考えてもいなかったのだ ―――



 おばちゃんは、精液のついたティッシュを指先でまるめ、もう1枚ティッシュを取り出して外から覆った。


「これ、イヤやけど証拠品やからな」

 氷芽ひめに渡そうとするのを、とっさに手を伸ばして受け取る。


「そっちに警察があるから。一緒に行ってあげよか?」


「いえ、大丈夫です」


「あと、安全ピンな」

 おばちゃんは大きなバッグからピンを取り出して、さくさくと裂けたスカートを止めてくれた。


「目立つけど、破れてるよりマシやろ」


「ありがとうございます」


 氷芽ひめは深々とおばちゃんにお辞儀した。僕も一緒に頭を下げる。


「ほんまに警察、一緒に行かんでいいか?」


「大丈夫です」


 先程と似たやりとりが繰り返され、氷芽ひめはもう1度お礼を言ってお辞儀した。

 その口許に浮かぶ愛想笑いを見て、僕は理由もわからないのに恐くなる。


「じゃあ行こか」


 僕は、警察の方に向かって歩き出す…… けれど、すぐに 「どうしたの?」 という彼女の声に引き止められた。怪訝そうだ。


「警察行かな」


「そんな所行ってたら、映画、間に合わないよ」


「そんな所ってなんやねん。被害届けなあかんやろ」


「別にこんなの、どうでもいいよ」


 そう言った氷芽ひめの声は、林間学校でカレーの準備をしていた時と同じだった。

 穏やかで笑みさえ含んでいて、その陰に隠した真意の底が知れない。


「ていってもな。悪い奴そのままにしといてええんか」


 その時の僕はまだまだ子供で、警察に言えば悪者はやっつけてもらえる、と考えていたのだ。


「言ったって、どうにもならないよ」


 ―― 静かだけど、なかに固い氷がある。そんな、口調。


「それに、母に知られたら、すごく怒られそうだし」


「えー! そんなん! ヒメちゃんが怒られること、ちゃうやん」


 悪いのはどう考えてもチカンの方じゃないか。

 こんな線の細い子供のスカート切って精液かけるなど、紛れもなく死んでいいレベルの変態だ。


 口を尖らせる僕に、氷芽ひめは首を横に振った。


「ううん、私がいけないの。隙があったから、こんなことされるんだもの」


「いや普通そんなことされる思わへんから!」


 きっと氷芽ひめだって、思っていなかったはずだ。

 けれど僕の主張は、彼女には響かなかった。

 普段の人当たりが良い女の子には信じられない程の頑固さで、彼女はまた首を振る。


「もし母が知ったら、きっと、すごく傷ついて泣いて怒るから。どうして私みたいな出来の悪い子を持っちゃったんだろう、って、きっとすごく後悔するから」


 どうやら氷芽ひめはお母さんに知られるのがよほど、恐いらしい。


(傷ついて泣いて怒りたいのはアンタの方やろ)


 僕は口には出せないツッコミを入れつつ、妥協案を出す。


「ほなら、連絡先言わなければ何とかなるやん。とりあえず、警察にはいこ」


「いいの」


 氷芽ひめは変わらず、頑固だった。


「警察って男の人ばっかりじゃない。皆同じだよ。男の人に向かってこんなことされました、とか言いたくない」


「同じやないって」


「行きたくない」


 僕に対して初めての主張をする彼女の声はやっぱり静かで笑みさえ含んでいて、その表情も同じだった。


 だけど、沼の底のようなその瞳が、夏の始めキャンプファイヤーの炎の色を映し込んでいたことを、僕は不意に思い出したのだった。

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