午後、8時半。
ベージュの扉が一定間隔で並ぶ、無機質なコンクリートの廊下は、昼間の名残の熱がうっすらと残っている。
じっとりと気持ち悪い汗を早く流したくて急ぎ足になる僕の鼻に、スパイシーな香りが届く。
ウチのカレーだ。
昆布と鶏でダシを取り、トマトジュースを大量に注いだスープに、ローリエと炒めた肉・野菜、隠し味のきび砂糖を入れて煮込む。
あくを丁寧にとって、市販のルゥを二種類、割り入れて溶かし、またコトコトと煮込む。
仕上げに、ナツメグやシナモン、ターメリックなどの入った魔法のスパイスを適当に振って、よりスパイシーに。
僕と妻の
食欲の出ない暑い日にこの匂いを嗅ぐのは嬉しい。
そして、僕にとって、ある少女との遠い日の想い出を蘇らせるものでもある。
心の奥にしまわれている物語は、夏のカレーの匂いでぱらりと紐解かれる。小さな喜びと痛み、そして小さな後悔とともに。
―――もし、僕が君に想いを伝えていたならば、今もまだ、君はこの世界にいただろうか―――
それは中学1年生の夏。
林間学校でのことだった。
「蝉とりなんかどこでもできるやろ!川いこうぜ、川!」
「林の探検!肝試しの下見いるやん!」
「下見なんかしたら面白ないやろがっ」
「いやいるいる!」
「怖いんか」
「怖くて悪いか!後でお前ら怖がったら絶対、笑ってやるからなっ!」
自由時間をどう過ごすか。
僕らのグループは好き放題にワイワイ言い合い、結局はこんな風に落ち着いた。
「ささっと林行ってから、川行こうやぁ」
さぁ出発、という段になってふと気付いたように、女子の1人が言った。
「ヒメちゃんは?それでいい?」
ヒメちゃんと呼ばれた彼女・
「でもホラ、カレーの下準備があるから、私は後で行くね?」
きれいな標準語。
小首をかしげると、肩で切り揃えた真っ黒な髪がサラリと揺れる。
白い頬に、影を落とす長い睫毛。
黒目がちな目の虹彩は、スタンダードな日本人のそれであるはずなのに、どこか、引きずり込まれるような深い色を湛えている。
通ってはいるが主張がない鼻筋と、淡い珊瑚色の薄く形の良い唇。
真面目で誰にでも優しい彼女は、超がつくほどの美少女でもあった。
が、性格の方は、これまた超がつくほど控えめ。
無愛想ではないが、自分の意見というものを全く言わない。
皆からそれなりに好かれているが、特に仲が良い友達となると誰もが「さぁ?」と首をひねる。
そんな彼女の立ち位置は『推薦された副委員長』だ。
「そんなのさぁ後で皆でちゃっちゃっとやっちゃえば、早いやん」
「ほかの班の子だって当番サボってるって絶対!」
「ヒメちゃん副委員長だからって真面目すぎとちゃう?」
口々に言われる乱暴なお誘いに、彼女はまた人当たり良く微笑む。
「大丈夫だよ、すぐに終わるし」
「そう?じゃあ後でねー」
「早くおいでよ!」
皆が口々に言いながら手を振るのに、彼女もニコニコと手を振り返して、儀式終了。
(今、たぶん少しほっとした顔をしているんだろうな)
僕はそんなことを思いながら皆に混じって
『手伝うよ』 なんてことを言う勇気は、僕には無い。
きっと、彼女をよく見ているほかの何人かにも、そんな勇気は、無いに違いない。
真面目で誰にでも優しく、人当たりの良い彼女は―――おそらく、人が、苦手だ。
理由は分からなくても、それに気付いていれば『儀式』以外で話し掛けよう、という気には到底、なれないだろう。
(もし、手伝っていたら、少しは違う顔を見たり、できたかな)
心の片隅でちらりと考えつつ、僕は短い自由時間をグループの仲間とはしゃいで過ごし、結局、彼女は1度も姿を見せなかった。