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第6話 26年間 ~夢に、溺れる~

 1月17日、早朝。


 ――― ああ今週がまた始まる…… 起きて娘と夫の弁当を詰め、朝食の準備。どうせ夫は眠そうな顔でボソボソと食べ、娘は残すのだろうけど。


 眠りから浮上しながらそんなことを考えていた私の耳に、ゴーッという不思議な音が聞こえた。


 なんとなく嫌な気がして、隣で眠る5歳の娘の頭に布団を掛けた途端に…… 世界が、揺れ、崩れた。





 少しの間、私は気を失っていたらしい。


 気がついた時には、毛布の上に寝かされていた。空と、崩れた家が見えて、地面に直接毛布が敷かれているのだと理解した。


「…… 美生みうは?」


 問うた瞬間に、隣で夫が必死の形相でうつむいているのが見えた。


 夫の下には、横たわる娘。


 …… 手の甲で5回、胸の中央を押しては、身を屈めて口に息を吹き込む。


 それが、心臓マッサージと人工呼吸だということに気づき、はっとした。


美生みう! 美生みう!」


 娘の柔らかい髪を撫で、呼び掛ける。


 夫と交代し、小さな胸を押しては息を吹き込む。


「地震だ。家が潰れて、下敷きになったんだ。救助は早めに来た、外傷はないが救急搬送はどこもいっぱいらしくて、なかなか」


 夫が手短に状況を説明するのを聞きながら、私は娘の胸に力を加え続け、小さな口に口をつけて息を入れた。


 ――― 大丈夫、まだ温かい。ケガもない。普通に眠ってるみたいだ。

 そうだ、さっきまで、すうすうと健康そのものの寝息を立てていたんだもの。

 きっと、もうすぐ心臓が動き出す。目を開ける。

 そして 『ママ、チューやめて』 と言って笑ってくれる……。




 信じていれば救われるだなんて、誰が言ったんだろう。

 あの、長い長い数十分の間、信じ続けたことは、何一つ叶わなかった。


 考えたこともなかった未来が、私たちを襲う。

 娘は、いつの間にか手元から取り上げられた。うろ覚えの記憶では、私はその時取り乱し 『美生みうを連れていかないで』 と抵抗したような気もするが、どうにもならなかった。


 娘には、葬儀を行ってあげることもできなかった。

 数週間経って火葬が行われたが、その前、最後に娘の顔を見ることも叶わなかった。

 会わせて、と頼み込む私に、スタッフは静かに 「お元気な頃のお顔のままでいると、思ってあげてください」 と言った。



 3月に合同慰霊祭があった。

 夫と一緒に参加した会場は、黒い服の人でいっぱいだった。

 誰もが突然の喪失を抱え、言葉を失い、ただうつむく。泣いている人はいなかったように思う。

 失ったものが大きすぎて、誰も、泣けないのだ。


 帰り道、夫がぽつり、と言った。


「これだけ沢山の人が、同じ思いをしてるんだ。悲しんでばかりは、いられないな。美生みうのためにも頑張って、前を向いて生きなきゃな」


 信じられなかった。

 なんてことを言い出すのだろう、と、瞬間的に夫を憎んだ。

 ――― おそらく、夫には夫の思いがあったのだろう。けれどもその時、夫が宇宙人かロボットであるかのように、私には見えたのだ。


 だって、沢山の人が同じ思いをしてようが何だろうが、関係ないもの。


 ――― 美生みうがいない。どこを探してもいない。ふとした瞬間に、呼んでくれたように感じて振り向いても、その姿は見えない。


 この悪夢を、夫以外の誰と分かち合え、というのだろう。なのに、夫は、それを拒絶してきたのだ。


 悲しみを乗り越え、前を向いて生きる。

 世間的にはそれが都合良く、正しいのだろう。


 私たちが前を向けば、美生みうが帰ってくるのなら。元通りの日が送れるというのなら、もちろん、そうしよう…… だけど。


 ――― そんなことをしても、私の頭の中には、迷子になったまま忘れられた我が子が、暗い場所でひとり泣いている姿しか、浮かんでこない。


 あの子をひとりぼっちになど、できるわけがない。



 ――― あの子がお腹に宿ったと知った時の、不思議な感覚。初めてお腹を蹴った日。

 つわりで苦労し、つわりが抜けた時のご飯の美味しさに感動した。

 何日も何日も、夫とああでもないこうでもないと相談して名前を考えた。


 妊婦健診で首にへその緒が巻き付いてしまっていることが偶然わかり、すぐに手術をして生むことが決まった時の焦りと心配。

 無事に取り出され、産声が聞こえた時の感動。この世にこんな可愛い音は2つとない、とそう思った。


 乳を飲ますのに苦労して、夜泣きにこっちが泣きたい気持ちになって、そのうち一緒にお昼寝する幸せを覚えた。


 立った、歩いた、しゃべった。

 繋いだ小さな手の、力強さ。

 駆けていく小さい後ろ姿。

 悪魔のようなイヤイヤ泣き。

 幼稚園に通うようになって覚えた、こまっしゃくれた口調。


 喜びも、驚きも、苦労も、自己嫌悪も…… ダメダメなママなのに愛され信頼されることの重さと有り難さも。

 愛しくて大切で仕方ないものは全部、娘がくれた。



 ――― 忘れるくらいなら、前なんか、向けなくたっていい。

 どんな悪夢の中に居続けても、かまわない。


 私はただ、ずっと、美生みうのママでいたかったのだ。



 震災後、何年もかけて、街は生まれかわった。

 前よりいっそう美しい街並、どこでも緊急車両の入れるよう整備された広い道路に、大きなショッピングモール。

 人々の顔には笑顔が戻り、夫も私も日常を取り戻した…… 表面上は。


 朝起きておはようと言い、朝食を摂り、それぞれの仕事に向かい、帰って夕食を胃に送り家事をこなして眠りにつくまで…… 一緒にいるときには普通に話して同じものを食べ、同じテレビを見るけれど、夫と私が見ているものは全く違うようだった。

 夫は悲しみを乗り越えた先にある未来を望んでいたが、私は、美生みうの不在ばかりを見つめて暮らした。


 何を見ても娘を思い出さない日はない。生きていたら今頃は……、と思わない日はない。


 ピルを飲み続け、ゴムをつけないセックスを拒む私に、夫が 「僕だって悲しいんだ。だけどそれだけじゃ……」 と怒ったこともあったが、その先の台詞を私は聞きたくなかった。聞かなかった。


 悲しいのならばなぜ、夫は私と同じ場所に留まってくれないのだろう。なぜ、美生みうを裏切るようなことができるのだろう。

 美生みうはひとり死んでいったのに、なぜ、次の家族を作って笑顔で暮らすような真似ができるのだろう。

 なぜ、それがいかにも正義であるかのように、しばしば押しつけようとしてくるのだろう。


 夫と私の間は緩やかに冷えていっていた。

 それでも私たちが離婚に至らなかったのは、おそらくは、お互いの悲しみと孤独を少しでも知る近しい存在が、たまたま、お互いしかいなかったからだろう。


 見ている方向が全く違う私たち夫婦だが、それでも、1月17日の慰霊祭には二人で参加し、娘の墓を回って帰るのだ。

 毎年の娘の誕生日には、私はケーキを作り夫は花を買って帰ってくるのだ。


 ――― お互いに何も言わずとも、当然のようにそうしている。

 それだけのことが、私たちを夫婦でいさせてくれていた。



 最近、私は夫の寝顔にごめんね、と謝ることが多い。

 頑固といえば、頑固な26年間だった。夫は私に寄り添ってくれなかったが、私も夫に寄り添うことはなかった。

 ――― もし、夫の言う通りに、悲しみを乗り越えて前を向いて進めていれば。

 きっと今頃は、普通に子供を育てあげて、もしかしたら、孫だって生まれていたかもしれない…… その孫に、美生みうを重ねて心慰められる瞬間をいくつも持てたかもしれないのに。


 一緒にいても寂しいことの方が多い夫婦だったが…… 今さらながら、夫に申し訳ないとも思い、連れ添ってくれたことに感謝もしているのだ。


(そうだ、今度の結婚記念日には旅行でも提案してみようか)








 1月17日、早朝。


 ハッと目を覚ました私の傍らでは、5歳の娘がすうすうと健康そのものの寝息を立てて眠っている。


 ――― なんだ、夢だったのか。


 ずいぶんと、長くて嫌な夢を見ていたものだ。

 大きな地震で、娘がいなくなる夢。

 その後の長い人生を、ずっとずっと、嘆きと後悔の中で過ごす夢。


(そんなはず、ないのにね)


 日常がそんなに簡単に、崩れるはずがない。

 今日も娘は元気に野菜を嫌がり、幼稚園に行くのが寒いとダダを捏ねるだろうし、夫は何も考えずに、会社の新年会の予定を急に入れてきたりするのだろう。早く帰ってきて、娘をお風呂に入れてくれたら助かるのに!


(…… ま、その程度、あの夢と比べたらマシか)


 悪夢から醒められて、本当に良かった。


 私は機嫌良く起き上がり、娘と夫の弁当を詰めて朝食の準備にかかる。


 変な夢のせいか、日頃なら面倒だとしか思えない作業が、なんだか今日は涙が出そうなほどに嬉しい ―――




 ◆◇◆◇◆




「もう、美生みうったら、また、ごはん残して!」


 妻が怒ったような口調で、しかしどこか嬉しそうに、誰もいない小さな椅子の前に置かれた、小さな皿の上の小さなお握りをつまんだ。


「本当だ、もっと食べないとダメだぞ、美生みう


 僕が妻に調子を合わせると、妻は、いいのよ、と笑った…… はるか昔、僕たちが明日は必ず今日と同じように続くと信じていた頃によく見せていた、幸せそうな笑顔だ。


「まぁ、元気なんだから、それでいいよ。…… ちゃんと食べてくれたら、もっといいけどね」


「それはそうだな」


 僕は妻が視線を外した隙に、素早く美生みうの皿から、お握りをつまんで口に放り込む。


「あっ、食べたね。偉い!」


 嬉しそうな妻の声。

 そういえば、と、今さらながら思い出す。


 ――― あの地震の前の晩に、娘が夕食のおかずを残したのを、妻は厳しく叱っていた……。

 それも愛情ゆえだと僕は思い、娘が嫌がるにんじんを細かく刻んで、宥めすかしながら口に運んでやったりしたのだが…… もし、あれが最後だと知っていたら。


 ――― 小さなことで叱らなければ良かった。もっと、好きなものをたくさん食べさせてやって、もっと笑顔でいさせてやれば良かった。


 きっと妻は、26年間ずっと後悔してきたのだ。

 だからこそ今、妻にしかえていない幻の娘に対しては、食事のことで厳しくしたりしないのだろう…… その代わり、娘の分まで食べる僕たちは少しふくよかになり、血糖値が心配になってきたわけだが。




「今日は美生みうの幼稚園への送迎は、僕がするよ」


「ありがとう、助かる…… はい、じゃあ美生みうちゃん、ごちそうさまね。よく食べました!」


 食事を終えたらしい娘の身支度を整えに、鏡台へと向かっていた妻が、ふと、振り返った。



「そうそう。今度の美生みうの誕生日、お休みでしょ。お祝いに、どこか旅行にでも連れて行かない? 遊園地とか」


 そうだな、と僕は答える。


「今のご時世なら遠出は無理だな、近場で1泊、のんびり過ごすか」


「いいね。久しぶり」


「ああ、美生みうが生まれて、それどころじゃなかったもんな」


「…… 何年ぶりだったっけ?」


「さぁね」


 いいじゃないか、そんなこと、と僕は笑って、幻の娘と手を繋ぐ。


「さぁ、今日はパパと幼稚園だよ…… ママがいい? ワガママ言わない」





 いってきます、いってらっしゃい。




 いつもの挨拶を交わし、玄関を出る…… このまま少し散歩して、そっと家に帰るのが最近のパターンになっていた。


 実は昨今、世界中を荒れ狂ったウィルスのせいで、仕事は自宅でのリモートワークに切り替わっているのだ。

 ウィルスなど流行らないに越したことはないものの、時間の融通がきく分、妻の介護のためには助かっているのも事実である。


「………………」


 空を仰いで、深呼吸する。


 ――― あれから、26年。

 あの日、赤い炎と黒い煙に彩られていた瀬戸内の空は、今日は穏やかに澄んでいた。


 ごめん、後で墓参りにはいくから…… と、心の中で娘に話しかける。


 ――― 今年は慰霊祭に行けなかった。娘が亡くなったあの時間に、僕たちは、幻に向かって笑いかけていた…… でも。


「あと少しの間、美生みうが本当にこっちに来てくれてるんだと思っても、いいかい?」


 僕は、妻のようには強くはなかったから、娘の不在も妻が沈み込んでいるのも、寂しくて辛くて、ずっと逃げたくて仕方なかった……


 今も、妻が幻を見ているのだと思うより、本当に娘が帰ってきてくれているのだと、信じた方がずっとラクなのだ。


 ――― だって、今が。

 26年の間、悲しみと後悔から逃れられなかった僕たちが、やっと得た幸せなのだと思うから。


 たとえこれが、妻の認知症がさらに進行してしまうまでの、束の間の幻だとしても…… この、夢のような時間を、どうして否定できるだろうか。



『ねぇ、パパ。旅行、プールがあるところがいい!』


『そうだな、大きなプールがついた遊園地にしようか』


『やったぁ……!』



 はるかな昔、娘と話したのを、不意に思い出す。

 娘が喜んでジャンプしながら先に進む…… そんな光景が、脳裏に浮かんだ。



「そうだよ、約束したでしょ。パパとママと、さんにんで行こうって」



 この声が、僕の願いが作り出した空耳だということはわかっている。


 わかってはいるが、こう答えずにはいられない。



「そうだな。一緒に、行こうな」




 僕は、幻の娘の足取りを追うように、歩き出す。

 整備されて、昔とはすっかり変わってしまった道だが、美生みうは確かにここを、駆けていたのだ…… 辛くて辛くて、忘れてしまえれば、と願ったこともあったが、忘れることなど、できなかった。

 忘れなくて良かったと、今、思う。


「ちょっと、急ごうか」


 妻を家に置いて外出できる時間は、少ない。


 これから急いでスーパーに行き、娘の服をいくつか買って帰宅することにしよう。


 そして、あの地震でも壊れずに残っていた小さなチェストにこっそりしまって、昔のように、タンスの横に置いておこう。


 妻がいつでも、張り切って旅行の準備を始められるように。



――― 今しばらく、夢に、溺れる。


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