「君では、
僕はなるべく穏やかに、娘が連れてきた男に言ったつもりだった。
1週間前に娘から、会ってもらいたい人がいる、と言われた時には、(とうとうその時がきたか)と覚悟した。
―――物わかりの良い親父になろうとは思わない。娘を幸せにできる相手かを見極めるのが、僕の仕事だろう。
それでも、娘が決めたのだから、多少のことには目をつぶらなければ―――
そんなことを考えていたが、結果は大ハズレだった。
その男は、悪い意味で規格外だったのだ。
バツイチ、外国人、音楽家。
『差別はしたくない』などという考えは、現実の前には霧散してしまった。
他に仕事は?―――ない。
収入のために生徒をとっているようだが、その人数、たったの5人。
娘は「聴いたら絶対惚れるから」と言わんばかりに彼に演奏を披露させた。
確かに、素晴らしい超絶技巧。
凡人にはできない、と思う。
―――だが、それだけだ。
驚きはするが、感動はない。
先日たまたま聞いた、無名のヴァイオリニストの演奏の方がよほど、曲に対する愛やこだわり、ひいては演奏者の心が感じられた。
だがこの男の演奏は、技術を自慢したいだけの子供のようだ。
娘よりも一回りも年上なのに、彼の人生には何もなかったのだろうか?
将来性などとても感じられないのだが。
もちろん、今の世において、そんな考えが流行らないのは重々承知している。
「君は料理や家事がちゃんとできるのか?子供が産まれたら、面倒を見られるんだろうな」
男の澄んだ青い目が力無く下を向き、首が横に振られる。
すると何か。
娘は働いてこの男を養うばかりか、面倒まで見てやらなければいけない、ということか。
ダメだ。
疲れてボロボロになった娘の姿が、今から見えるようだ。
「君が日本で暮らすために
僕は男に封筒を渡す。
中に入っているのは、30枚の一万円札だ。
「もっと欲しいなら、また後で届けてあげよう。とにかく、
もう2度とウチに来るな。
そう怒鳴りつけたい気持ちを抑えて、穏やかに頼んだ。
男は頷き、封筒を持って立ち上がる。
玄関まで見送り、土産代わりにスポーツ飲料のペットボトルを持たせる。
「今後の活躍を、お祈りしていますよ。さようなら」
ジ、ジ、と寝ぼけたような蝉の声を背に、丸まった男の背中を見送った。
完璧な対応だった、と思う。
家の中に戻ると、娘はもう自室に籠もっていた。
恨まれているのだろう。
だが、どんなに恨まれても、あんな男はダメだ。
「カヨさんなら、どう言う?」
クーラーの効いた部屋。
ベッドの横の仏壇に線香を上げて、呟いてみる。
あんな方はもちろんダメですよ、と言ってもらえたらどんなにか気が休まるだろう。
いや、あなたがもう少し考えられたら良かったのに、でもいい。
写真の中の微笑みを浮かべた顔から何か聞こえてこないか、と耳を澄ませる―――何も、聞こえない。
―――ひとり、というのは迷っていることすら分からず、間違えても止めてくれる人がいないことだ―――
そんなことを考えつつ、ベッドに横になって目を閉じる。
線香の香りと、時折聞こえる蝉の声。
―――目が醒めると、僕は10歳だった。もちろん、夢だ。
夏になると必ず行っていた、母の実家。
その仏間で、10歳の僕は寝転びつつ、古い本をパラパラとめくっている。
線香の香り。
開け放たれた縁側を吹き抜ける、草の匂いを含む風。
新しい畳の、いぐさの香り。
古い本の、茶色のシミのついた薄く柔らかい紙から放たれるほの甘い匂い。
時折、眠そうな蝉の声が、突き刺すように響く。
(またここに帰ってこられたのか)
そんな感慨に浸りつつ、なるべく長く味わおうと僕は眠りに身を沈める。
現実には無くなって久しいその場所は、夢の中ではますます鮮やかだ。
特別なものは何も無い、何も為さない。
こよなく美しい、夏の長閑。
娘が生まれた日。
祖父母が亡くなった日。
父の病気を聞いた日も、ひたすら明るく振る舞った見舞いの後も、父が亡くなった日も。
そして、同じく、母を、妻を見送った日も。
疲れ切って、そのまま死んでしまいたくなった日も。
嬉しい日も悲しい日も、いつも。
ふっと僕の心は、あの場所に帰る。
ただひとり生き残ってしまっても、まぁいいかと思えてくる場所は、いつでも夏で、いつでも同じ匂いがする―――
目が醒めてみると、線香は燃え尽きて辺りは暗く、娘の姿はどこにも見えなかった。
携帯の新着メールには、これまで育てて貰った礼と、男と暮らす旨が簡潔に残されていた。
娘はそれきり、帰ってこない。
―――探すべきだろうか。探して連れ戻す?
しかし沙耶花はもう、子供ではない―――
何度も繰り返す問いに、どこからも誰からも答が返ってこないままに日が過ぎる。
娘からは時折、元気だというメールが入る。こちらからのメールに、返信はこない。
こちらを気遣っているようでいて、拒絶しているのは間違いがないだろう。
どこかに逃れたい、と強烈に思う。
でも、どこにも行く場所がない。
どこに行っても、迷いと後悔と孤独が襲ってくる。
子供の頃の夏に過ごした仏間を思い出そうとしても、その線香と草と畳と古い本の匂いは、もう蘇ってはこないのだ―――
ひとりの年末と正月を3回迎えて、次の春。
肝臓にガンが見つかった。
影が内臓全体に散らばる画像を眺めつつ、後1年生きられるかどうか、という宣告を聞く。
(ああそんなものか)
何人もの人を見送ると死というものが特別ではないことが嫌というほど分かる。
順番がもうすぐ来るんだな。
その程度の感慨しかない。
唯一気になるといえば、娘のことだが……
(死んで霊になった方が、近くで見ていてやれるんじゃないかな)
そんなふざけた考えが、瞬間的に浮かんで苦笑する。
生きていても死んでいても、僕ができることなどたかが知れているのだ。
迷いながら、報告のメールを娘に送った。
『……末期になれば、市民病院の緩和ケア病棟に入院予定。葬儀不要。家は好きに処分せよ。通帳、ハンコの在処は別にメモしておく。以上』
幸せになれよ、というひとことは、文面のどこに入れていいか迷って結局、どこにも入れられない。
意外なことに、娘から返信があった。
夫と子供を連れて帰るから、一緒に暮らそう、とある。
僕はまだひとりではなかったのか。
有難さに曇りがちになる目をこすりつつ、断りのメールを入れる。
再度、返信があった。
一緒に暮らせば家賃と食費が助かる。
一軒家なら、夫が練習をしやすい。
子供が小さいのでたまに一緒に留守番をしてくれれば、夫と出掛けやすい。
そんな勝手な理由ばかりが並べ立てられたメールだ。
―――昔から人に優しい子だった。優しくされた人の負担まで思い遣れる、そんな子だった。
今でもまだ、そうなのか―――
泣きながらメールを何度も読み直し、また断りの返信を入れる。
こうしたやりとりが繰り返され、結局は梅雨明けに娘家族が引っ越してくることに決まった。
空いている部屋を、娘たちのために改装する。仏壇をそこに移し、新しい畳と小さな書棚を入れる。
窓のそばにいちじくの木を植える。
昔ある街に旅行した時、空気の中に漂うそのふんわりとした匂いを娘が喜んだのだ。
新しい和室は、線香といぐさの匂い、そして窓を開ければ、いちじくの優しい匂いがそこに混じる。
僕が娘たちにしてやれることなど、もうほとんどない。
けれど、ここが、娘たちが将来どこにいて何があっても、心が帰ってこられる場所になれば良い、と願う。
抗がん剤治療にある程度慣れた頃、夏が来て、娘たちが引っ越してきた。
かつて追い払った男と同じ屋根の下で暮らすのは最初は気詰まりだったが、やがて慣れた。
料理も育児も自信が無さげだった彼は今や立派な主夫になり、働く娘を支えてくれていた。
抗がん剤の副作用で身体がつらい日は、ベッドでウトウトしつつ男が子供と遊ぶ声を聞く。
1歳半の孫は、時々僕のところに来ては何が面白いのかペタペタと額を叩いていく。
身体がラクな日は、孫を遊ばせつつヴァイオリンの音を聞く。
勢いの良い超絶技巧がひと渡り演奏されたかと思えば、全く難しいところなどなさそうなゆったりとしたフレーズが何度も繰り返されたりする。
聞きながら、以前『将来性が無い』などと断じてしまったことを恥じる。
その後悔を、線香といぐさといちじくの匂いが優しく包み込み、孫の粗相のニオイがあっという間に打ち消す。
そして、次の夏が来る前。
僕は緩和ケア病棟に入院することになった。
僕の命はもうすぐ、消える。
苦痛を軽減するために段階的に意識レベルを落とす、との説明に同意する。
もうすぐ2歳半になる孫の頭をなでながら「じいちゃんはこれからずっと、ねんねだよ」と話し掛けると「イヤ、あそぶ!」と返された。
ああ、そうだなぁ。
もうちょっと、娘夫婦を助けてやりたかったなぁ。
言うことを聞かなくなってきた孫に、多分これから苦労するんだろう。あと1年でも、良かったんだけどなぁ。
孫が、幼稚園の制服を着るのを見たかったなぁ。
死にたくないなぁ。
これまで、生きてこれて、良かったなぁ。
1日のほとんどを、ウトウトと眠って過ごしながら夏を迎える。
ジ、ジ、眠たげな蝉の声。
僕の意識は、この世のどこにももう無いはずの、祖父母の家へと帰っている。
線香の香り。
開け放たれた縁側を吹き抜ける、草の匂いを含む風に、優しいいちじくの匂いが混じる。
新しい畳の、いぐさの香り。
古い本の、茶色のシミのついた薄く柔らかい紙から放たれるほの甘い匂い。
どこからかヴァイオリンの音が聞こえて、孫の粗相の強烈なニオイが鼻をつく。
お尻を丸出しにして駆け回る子供が、ぶつかったのは僕の両親だ。
口々に誉めながら、ひ孫を奪い合って目を細めている。
田から帰ってきた祖父が縁側に腰掛けて楽しそうに笑う。
台所から、祖母が作る夕食の匂いが漂う。
美しく
※※※※※
線香と、いぐさの香り。
開け放した窓から漂う、ふんわりと優しい、いちじくの匂い。
それらの匂いが混じり合う部屋に敷かれた布団の上に、静かに眠る父の側に
「じいちゃ、おきて。あそぼ」
子供がペタペタとその冷たい額を叩くと、真っ直ぐに結ばれた唇が少しほころんだ気がした。
「ほんとにねぇ。そろそろ起きてくれても、いいのにね」
もう1回起こしてごらん、と子供に言えば、素直にまたペタペタと額を叩き始める。
1年以上も前から知らされていたのに、その死はまだ受け入れ難い。
ひょっとしてもう一度、目を開けることだってあるかもしれない、とつい、その顔に見入ってしまう。
記憶の中の父はいつも若々しいのに、こうして見ると随分老いたものだ。
「この度は誠に……」夫の案内で入ってきた葬儀屋に黙って頭を下げる。
死に水を取り、経帷子を着せ……通夜の準備は丁寧にスマートに始められる。
棺に納められた父の胸元に、生前愛読していた詩集を置こうとして、
ページを開くと、古い本の独特の香りが漂う。
挟まれた栞の表には、弱く乱れがちな字でこう書かれていた。
『心の奥底にいつも、美しく優しく大切なものがありますように。それが、人生を幸福に導きますように』