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第3話 君にはもう、言えないけれど

 しゅるしゅると小さな火の珠が昇る。

 パチパチ、チリチリと、あちらこちらに朱金の光が散り、やがて、ジ、ジ…… と1つ2つ、丸い糸屑のような爆発を最後に、ポトリと落ちる。


 草いきれ。

 りりりりり、と鳴く虫。

 ムッとするような夏の夜。





 ――― 病気がわかったのは、ダンナが亡くなって2年後だった。


 ダンナと同じく末期の肝臓癌で、これはもう、明らかに不摂生の結果だ。


 医師からの説明を聞きながら、息子には言えないな、と思った。


 きっとあの子は 「だから、あれほど酒を控えろって言っただろ! 煙草も!」 と鬼みたいな顔で罵ってくるだろうから。


 …… まったく誰が育てたのか、クソ真面目で面白味のない男に育ったもんだわ。


 考えたことがないのかねえ?

 酒も煙草もなしに長生きして、何が楽しいのか、とか。


 考えないのかねえ?

 両親ともが酒と煙草で早死にしたからって、それは、息子よ。アンタのせいなんかじゃないんだ。

 アンタが責任を持つ必要は、一切ないんだよ。



 ――― そして、1週間前。

 医師からなされた、事実上の宣告。


「抗癌剤が効いてないんで、もうやめましょう。

 緩和ケア病棟に空きができ次第、入院してもらいますので、準備しておいてください」


 別にすぐにどうこうなるワケじゃないからね、痛みをなるべく抑えながら、より良い生活を送れるように頑張っていきましょう……


 等という医師の話を、信じられる程にあたしが素直だったらな、と、一瞬だけ、しても詮方ない後悔をした。


「ご家族にも、説明したいのですが、息子さんはまだお忙しいんでしょうか」


 病気が分かってから言われ続けた台詞に 「はい。すみませんねえ。仕事がどうしても休めないのでねえ。メールで伝えときますよ」 と返す。



 ――― 実際のところ、息子からは嫌われている。最後に会ったのは、ダンナの葬式の後の正月だった。


 その後、メールでの簡単なやりとりはあるものの、顔はずっと見ていない。


「帰ってみたら母さんが腐ってたら最悪だからな。生存報告は毎日くれよ」


 キツい物言いは、あたしに似たんだろう。損するから治すよう、何回言ってもダメだった。


 冷めた目で 「無い物ねだり、って言葉、知ってるか?」 と言われて 「悪い所ばかり、あたしに似たんで心配でしょうがないわ」 と応えたのはいつだったか。





「忙しいのは分かりますが、重要なことですからね。なるべく、都合をつけて貰ってください」


 医師の言を適当に受け流しながら、ああ家で死にたかったなぁ、と、ふと思った。


 そんな思いを知られたら、息子がまた白目を剥いて 「迷惑だからやめてくれ」 と言うに違いないが。


 育ててもらった分際で何を偉そうに、と内心で舌を出してみる。


 …… もっと素直で優しい母親だったら、1も2もなく子供に泣きつくところだろうが、生憎あたしは我が儘で頑固で意地っ張り。


 息子から五月蝿く言われるのは真っ平御免だし、必要以上に心配を掛けるのも無駄に足を引っ張るのも、金輪際したくない。


 …… 後で息子はまた怒るんだろうが、ま、あたしの子に生まれちまったんだから、諦めてもらおう。


 病院から帰って、煙草を一服しつつ 「毎日暑い。水分と栄養とるように。熱中症に気を付けよ」 と息子にメールを送る。


 返事はごく短いのが来たり来なかったり、来ないときは仕事が忙しすぎるのかと心配になるが、「心配」 と送れば 「便りがないのが良い便り」 と返事が来ることもわかっていた。



 紫煙を天井に向かって吐き、手帳に 『することリスト』 を書いてみる。



『・故郷に行く

 ・クロちゃんのお参り

 ・息子の誕生日プレゼント

 ・花火

 ・(入院したら) 息子に知らせる

 ・息子の結婚式に出る

 ・孫を抱っこする』



 最後の2つを、黒いマジックで塗り潰す。


 …… あたしが死んだ後も、息子が寂しくないように、そう願ってやまないけれど。


 息子があたしを避けるようになってから、あたしも少しは賢くなって、やっと分かってきたんだよ。


 『あの子の人生は、あの子自身が何とかするしかないんだ』 ってね。




 ――― 6日前は、身体が言うことを聞かなかった。

 1日寝込んで、5日前に故郷に行った。


 タクシーに乗り 「市民公園まで」 と告げる。



 故郷といっても、地震で全て無くなった後に作られた、新しい街だ。


 住んでいた家はない。

 友達の家もない。

 遊んだ狭い路地も、カブトエビをつかみ取りした田んぼもない。


 夜泣きする息子をおんぶして、あやしながら歩いた道は広くなって、きれいに舗装されている。


 …… あたしは何をしに、何を見にこの街に来たんだろう。

 居れば居るほど、あたしの中で何かが崩れていくような思いに駆られながら、タクシーの中から街を眺める。



 公園に着いた。


 昔、木登りをした樹があった。


 ちょうど良い位置に太い枝がついた、ブナの樹。


 近づいて、ザラっとした幹を撫でる。


 …… 兄ちゃんに教えてもらって、登った。近くの枝を掴んで、でっぱりに足をかけて。


 …… 息子には、あたしが登り方を教えた。




 上を見上げると、硬い葉っぱに夏の陽射しが反射して、チラチラ光っている。


 その中に、幼かった息子の得意そうな笑顔が見えた気がした。




 ――― 3日前。遠くに海が見える寺に行った。


 ここには、もうひとりの息子が眠っている。


 流産し、名前もつけられず、墓もないその子を、あたしはクロちゃんと呼んでいた。


 目鼻がぼんやりとなり、所々にコケが生えた水子地蔵に菓子を供え、水を掛けて手を合わせ、心の中でクロちゃんに話し掛ける。


 待たせたね。

 もうすぐ、そっちに行くよ。

 アンタにとっちゃ、あたしみたいな親は迷惑かもしれないが、まぁ仕方ないってもんだ。



 …… 昔いちど、ここに息子を連れてきて、ウッカリ言ったことがあった。


「アンタはクロちゃんの生まれ代わりなんだから、絶対に勝手に死んじゃダメなのよ」


 あの時の、あの子の 「……うん」 という無表情な返事を、今でも思い出す。


 記憶は、時が経てば様々なものに埋もれていくけれど、取り出せば、何十年経っていてもまた傷口を開いて、血を流し始める。


 悲しい時、寂しい時、あたしはここに来て、その痛みに身を浸していたのだ。


 もうすぐ死ぬはずの今でさえ、こんなにも痛い。



 遠目にもキラキラと煌めく海の波を眺めながら、ゆっくりゆっくり階段を下りた。




 ――― 昨日は、買い物に行った。


 息子の誕生日プレゼントと、花火を買いに。


 いつ頃からか、息子の誕生日はお金になっていたから、こうして物を買うのは久しぶりだ。


 手渡せば、いつぞやのように白目を剥いて 「要らん」 と言われるかな、とニンマリする。


 最後なんだから有り難く貰っときなさい、とでも言ってやろうか。

 そしたら、きっと、物凄い勢いで嫌悪感を露にしてくるだろうな、などと妄想する。



 実際には、後で見つけやすいように、遺書と一緒にテーブルの上に置くだけだが。



 メッセージカードを書く。



『誕生日おめでとう


 これからも健やかに。

 メタボになったり頭がハゲたりする前に、誰でも良いから、さっさとお嫁さん見つけなさいよ。

 ひねくれた事言い過ぎて、お嫁さんに愛想尽かされないように。アンタは変な所が母似だから気を付けてね。

 後はトイレ掃除と汚れものの洗濯は必ず自分ですること。そうそう、あと、子供ができたらお嫁さん任せにしないで。

 母はこれで何度お父さんと離婚してやろうと思ったか知れません。


 とにかく、アンタみたいな子と結婚してくれる娘さんなんて、そうはいないんだから大事にしなさいよ』



 きっと、あたしが居なくなった後に息子は見つけて 「けっ」 とでも言うんだろうな、とニンマリ思う。





 ――― そして、今日。


 草いきれ。

 りりりりり、と鳴く虫。

 ムッとするような夏の夜。


 花火セットの、最後の1本は、線香花火。


 しゅるしゅると小さな火の珠が昇る。

 パチパチ、チリチリと、あちらこちらに朱金の光が散り、やがて、ジ、ジ…… と1つ2つ、丸い糸屑のような爆発を最後に、ポトリと落ちる。



「もし小人さんになったら、これきっと、打ち上げ花火に見えるね」



 息子がそういうことを言うようになった年の夏は、やたらと花火セットを買った。

 3日に1度はねだられて、最後はダンナと 「もういいわー……」 と言いながら花火に火をつけたものだ。


 …… あの子は今でも、線香花火が好きだろうか。



 手帳を取り出し、リストの中の 『花火』 に線を引く。




 残された項目は1つだけ。


『(入院したら) 息子に知らせる』


 とにかくも合わない母子おやこだったが、知らせれば、1度くらいは見舞いに来てくれるだろうか。


 …… ふと浮かんだ考えを、頭を振って追い払う。


 こういう未練は好きじゃない。


 弱気になるな、と自身を叱咤する。


 あたしはあたし、ダンナに呆れられても息子に嫌われても、最後まであたしでいる以外にはないのだから。




 入院はもう、明日に迫っていた。

 歯ブラシ、櫛、タオル、着替え、化粧水…… 大きなバッグに必要なものを詰めて、テーブルの上、息子への誕生日プレゼントの隣に置く。



 この家も今夜限り。もう、帰ってくることはないだろう……




 その時、急に、ぐらりと天井が揺れた。

 手足から、力が抜ける。


 …… ついに、限界がきてしまったのだ。


 息子の 「帰ってみたら母さんが腐ってたら最悪だからな」 という台詞を思い出し、せめて息子が帰ってくるまでは生きていて、と自分の身体に祈った。





「母さん、母さん、わかる?」


 息子の声が聞こえて、うっすら目を開けると、緊迫した表情と一緒に、白く強い光が飛び込んできた。


 …… ガラス越しでさえ、眩い上にも眩い、夏の日差し。


 ああ良かった、間に合ったのだ、とほっとして、また目を閉じる。



 下履きを脱がされそうになって、初めて自分が失禁しているのに気づいた。


 ちょっとやめなさい、と息子を止めようとする。なぜか声は出ないのに、手は動いた。


「気持ち悪いでしょ。きれいにしてあげるからね」


 落ち着き払ってあたしの手を避け、下履きを切っているらしい息子に、言いたいことは、ただひとつ。


 ちょっとデリカシーの無いことすんじゃないよ、だ。

 死にかけの婆にだって人間の尊厳はあるのだということを、この子は絶対に分かっていない。


 しかし、躊躇なくウェットティッシュで脚や股を拭いてくれる様子には、優しい子に育ったものだと親バカ心も頭をもたげてくる。


 …… 説教してやりたいことも誉めてやりたいことも山ほどあるのに、声が出ない。




 再びウトウトしているうちに、病院に運び込まれたらしい。


 点滴が繋がれ、息子が顔を覗き込んで 「母さん」 と声を掛けてくる。


 なんとか動く手でピースサインを作ってやると、心配そうな顔がやっと少し、緩んだ。




 それから、点滴に繋がれて、日がなウトウトと眠り続ける毎日が始まった。


 ふと目を覚ますと息子はいつもそばにいて、スマートフォンで食べ物やら景色やらの写真を見せてくる。


「今度連れてってやるよ。楽しみにしてて」


 快活さすら装おうとする物言いに、涙が出そうになって、あわてて寝たフリをする。


 …… 声が出れば、心配ないから仕事に行け、と追い払ってやれるのに、いまいましい。


 …… もっといまいましいのは、息子の優しさを喜ぶ、あたし自身だ。


 逝くときは、誰にも心配や苦労を掛けずカッコよく、と決めていたのに、思い通りにはいかないものである。



 また幾日かが経った。

 目が覚める時間が、次第に短くなっていくのが自分でもわかる。


 もう、最後が近いのだ。



 目覚めている時、息子の思い出話を聞きながら、あたしも心の中で、息子に話しかけている。



 ――― 息子よ。

 あたしが、アンタを、生んで育てて守ってやってると、ずっと思っていたが、本当は違ったんだねぇ。


 アンタがいるから、何があっても絶望せずにやってこれた。アンタがいるから、日々を無意味だと思わずに生きてこれた。


 アンタのおかげで、あたしは生きてこれたんだと、最近になって、やっと、わかったんだよ。



 声が出ないので、息子の手をしっかりと握る。


 息子は 「どうした、何か不安なのか?」 なんて見当違いのことを言いながら、あたしが眠るまで手を握っていてくれる。



 …… 済まないねえ、アンタに対しては、たくさん間違えたんだね。


 …… 済まないねえ、どうせ心配も苦労も掛けるんだったら、もっと優しくしてやれば良かったね。

(あたしの性格じゃあ無理だろうが)


 …… そして。



 あ り が と う 。



 今さらだけど、何回も何回も、思っているよ。




 ここにいてくれて、ありがとう。


 生きていてくれて、ありがとう。




 生まれてきてくれて、ありがとう。




 ――― 君にはもう、言えないけれど。



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