もう何年前になるか、それは夏の半ば、お盆を過ぎた頃だった。
毎年のお盆を、私は仕事を言い訳にして実家に帰らなかった。
理由は単純、母が苦手だからだ。
父が生きていた頃は、良かった。母の関心は半分以上父に向かい、私は父が母から一挙手一投足に口うるさく文句をつけられるのを 『よくこんな女と結婚したな』 と思いながら、眺めるだけで済んだから。
しかし、その攻撃は父の死後、私に向かった。
父が亡くなって、ひとりになった母をなるべく支えていこう…… そんな気概は、数回の帰省ですっかり失せた。
――― 何をしても 「こうしたらいいのに」 「これは違う」 と文句がつく。何もしなければ 「何もしない」 と不平を言われる。
かねてより気難しい女だと思っていたが、父の死後、母はまるで小さな家の中の暴君のようだった。
全てが母の思い通りでなければ、いけないのだ。
私の足は完全に実家から遠のいた。
毎日、安否確認のメールをする。
それでじゅうぶん、と自分に言い訳をしていた。
そして、その年の盆明け。
母と、2日続けて連絡が取れず、私は実家に帰るべきかどうかを迷っていた。
最近メールの調子が悪い、来てもわからないことがある、などと言っていたから、私からのメールに気づいていないだけかもしれない。
仕事をわざわざ休んで見に行かなければならないほどの、ことだろうか。
――― 結局、私は不安を呑み込んで仕事に行った。
その、翌日。
「お母様が昨日診察に来られなくて、留守電は入れたのですが、今日も来られていません」
知らない番号からの電話に散々迷って出たら、それは母のかかりつけの病院からだった。
気づけば私は、電話の相手をなじっていた。
「どうして昨日のうちに連絡くれなかったんですか!」
病院が悪いわけではない、私がもっと気にかけていれば良かったのだ。
母と連絡が取れなくなった時に、すぐにでも実家に向かえば良かったのだ。
――― 頭ではわかっているが、その責を全て負うには、私の心は弱すぎた。
「……取り乱してすみません、すぐ行ってみますので」
電話の向こうの女性に謝り、一方的に電話を切って、実家に向かう。
電車とバスを乗り継ぎ2時間。
途中、上司に連絡を入れて、仕事を休むことを告げた。……繁忙期でなかったことが幸いだ。
もしも繁忙期ならば、きっと私は、母に対して腹を立ててしまっただろうから。
「ただいま。母さん?」
声をかけながら実家の玄関を開けると、異臭が鼻をついた。
靴を脱ぐのもそこそこに上がりこむ。
……母は、台所で倒れていた。
ついた時間は昼前だったから、台所には窓からの光が差し込んでいたはずだ。
なのに今、何度思い返しても、あの場所は薄闇が集まったように、どこまでも暗いものとして私の記憶に残っている。
私は救急車を呼び、暗がりの中で母の息と意識を確認した。
熱中症だろうと思い、対処を確認したが、息があるならそのままでいいとのことだった…… 素人判断での対処は危険、ということだろうか。
失禁で汚れた下履きを脱がすことができず、ハサミで切ろうとすると、母の手が、意外な程の力強さで私の手を押し止めた。
「気持ち悪いでしょ。きれいにしてあげるからね」
平静を装って声をかけ、母の手を退けてドロドロになった下履きを切り、ウェットティッシュで汚れを拭く。
母の肌は老婆のように艶を失ってたるんでおり、私は一瞬驚いた後 『ああ母もそういう
会わなかった月日の分だけ母は年老いており、その月日を後悔はするものの、もしも頻繁に会ってなどいたら、間違いなく私は母を憎むようになっていただろう。
――― それでも、おそらくは、会っておいた方が良かったのだ。
『優しくいられる距離』 そんなものは、ひとりで倒れ助けも無かった3日間の母のつらさを思えば、まるっきりの幻想だったとわかる。
救急車がきて慌ただしく母を集中治療室に送り込み、医師や看護師が入れ替わり立ち替わり説明をしてくれるのを、ただうなずきながら聞く。
彼らの言うことは、とどのつまりは、ただひとつ。
『治療には最善を尽くすけど、症状が進んでるし持病もあるから、万一のことは覚悟しておいてください』
ああつまりは彼らにとってはすでにそれは、『万一』 よりももっと高い確率なのだ。
責任逃れか、モンスター家族とかいそうだもんな、と私は内心で彼らの保身を責めることで、母を見殺しにしかけていた自身から目をそらした。
2日目、とりあえずの危機は脱した、とやらで一般病棟に移る。
扉脇に掛けられた母の名前の横には赤い丸のシール。……その意味は容易に想像できた。
つまりは、ひとつひとつが覚悟を固めるための過程なのだ。
医師がやってきて、数値が良くなれば転院を考えましょう、と言う。
「お家の近くで通いやすい病院はありますか?」
私は2つ3つ候補を上げ、仕事もあるし、早く転院できるといいんですけど、と言ってみる。
そうですね、もう少し数値がよくなればね、と医師が調子を合わせる。
また別の時間帯には、医師がより詳しく病状の説明をしてくれる。
「あまり回復が見られないので、このままだと、万一の場合も……」
声を震わせて言葉を切り、涙を抑える医師を見て、私は演技だとしたら大したものだ、と性格の悪いことを考える。
何十人を見送ってきたに違いない医師でも、ひとりの老婆の死はまだ悲しいのだろうか。
そういう人間だから、医師という職業をやっているのだろうか。
――― 母の名前の横の赤いシールは、数日経っても、剥がれない。
上司に理由を説明し、一週間仕事を休むことにする。
母のそばをなるべく離れずに過ごし、母の意識がうっすら戻っている気配のある時には、ひたすら話しかける。
食べ物や旅行、写真を見せながら、また今度連れていってやるよ、という私の声は空々しい。
子供の頃の思い出を話せば、なんでもないことなのに泣けてくるのが困る。
――― 母が目を覚ます時間は、次第に短くなっていく。
一週間経っても病状に変化がなければどうしよう、と、心配する必要などなさそうだった。
血管が弱くなりすぎて刺さらなくなった点滴が、しょっちゅう鳴り響くようになった計器のアラームが、この生活の終わりが近いことを私に教える。
私はただ、母のそばでその時を待っている。
なるべくなら、苦しみも痛みもないように、と祈りながら、私の心は凪いでいる。
おそらく次の一週間は、上司に忌引きを申し出ることになるだろう、と計算している私は、もはや人ではないような気が、する。
――― その時がやってきたのは、真夜中だった。
はっ、と何かに驚いたように母の目が大きく開き、電灯の光を映し込んで、それから静かに閉じていった。
慌ただしく葬儀を終え、相続の手続きを済ませ、家を売る手配をする。
ややこしい親戚がいなかったのは、幸いだった。
その年の夏は、こうして、いつの間にか過ぎていった。
そして、あれから何年経っても、夏になると、私の心からは光が消え去ってしまう。
――― 夏が来る度に、強烈な眩しい日差しの中で、私が感じるのは、母が倒れていた台所の片隅の暗さだ。
先に
「ねえ、お盆休み、どこか行こうよ、どこ行きたい?」
「どこでもいいよ」
「何でそんな、いーかげんなの!?」
「結局は君の好きなところになるんだろ?」
「あなたがちゃんと考えてくれないからじゃない!」
ソファにゴロゴロと寝転がりながら、スマートフォンを弄っていた妻が、わざわざ半身を起こして責め口調を披露した。
――― 母のような口うるさい女はやめておこうと、そこだけは厳選したはずだったのに、結局は 『ややマイルド』 になっただけだった、という結果に苦笑が漏れる。
別に大恋愛ではない。
ただ、夏が来る度に心を浸す、暗く冷たい何かから脱却したくて、結婚しようかな、と思った時に、たまたまそこに居た女だ。
「ほんと、なんでアンタみたいなのと結婚しちゃったんだか」
「割れ鍋にとじ蓋、という言葉を知ってるか?」
「アタシは完璧よ! アンタがひび割れまくってるだけでしょ!?」
「はいはい」
適当に返事しながら、妻が好きそうなリゾートをピックアップしてチャットに送る。
「適当に選んで予約もとっといてくれよ」
「 さ い て い 」
言いながらも、リゾート地の情報を見る妻の目は、楽しそうな光を帯びはじめている。
「やっぱりプールがあるホテルがいいよね? 新しい水着買っていい?」
「腹の肉が見えないデザインがいいんじゃないか?」
「ばかーあほー自分の腹肉つまんでから言え! このデブが!」
「はいはいー、どーせデブですよ」
今年の夏、妻好みの小洒落たリゾートに行ったとしても、やはり私の心は暗く冷たい何かに浸されてしまうことだろう。
――― それでも、ゴロゴロ猫みたいに転がってる君を見る時。バイキングの料理を取りすぎて、君とフウフウ言いながら食べる時。君と、つまらない口論をする時。
きっと、そこに一瞬、夏の強い光が差し込んでくれるだろうと思う。
――― 君には、言わないけれど。