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第2話 君には、言わないけれど

 もう何年前になるか、それは夏の半ば、お盆を過ぎた頃だった。


 毎年のお盆を、私は仕事を言い訳にして実家に帰らなかった。

 理由は単純、母が苦手だからだ。


 父が生きていた頃は、良かった。母の関心は半分以上父に向かい、私は父が母から一挙手一投足に口うるさく文句をつけられるのを 『よくこんな女と結婚したな』 と思いながら、眺めるだけで済んだから。


 しかし、その攻撃は父の死後、私に向かった。

 父が亡くなって、ひとりになった母をなるべく支えていこう…… そんな気概は、数回の帰省ですっかり失せた。


 ――― 何をしても 「こうしたらいいのに」 「これは違う」 と文句がつく。何もしなければ 「何もしない」 と不平を言われる。

 かねてより気難しい女だと思っていたが、父の死後、母はまるで小さな家の中の暴君のようだった。

 全てが母の思い通りでなければ、いけないのだ。


 私の足は完全に実家から遠のいた。

 毎日、安否確認のメールをする。

 それでじゅうぶん、と自分に言い訳をしていた。



 そして、その年の盆明け。

 母と、2日続けて連絡が取れず、私は実家に帰るべきかどうかを迷っていた。


 最近メールの調子が悪い、来てもわからないことがある、などと言っていたから、私からのメールに気づいていないだけかもしれない。


 仕事をわざわざ休んで見に行かなければならないほどの、ことだろうか。


 ――― 結局、私は不安を呑み込んで仕事に行った。


 その、翌日。


「お母様が昨日診察に来られなくて、留守電は入れたのですが、今日も来られていません」


 知らない番号からの電話に散々迷って出たら、それは母のかかりつけの病院からだった。


 気づけば私は、電話の相手をなじっていた。


「どうして昨日のうちに連絡くれなかったんですか!」


 病院が悪いわけではない、私がもっと気にかけていれば良かったのだ。

 母と連絡が取れなくなった時に、すぐにでも実家に向かえば良かったのだ。


 ――― 頭ではわかっているが、その責を全て負うには、私の心は弱すぎた。


「……取り乱してすみません、すぐ行ってみますので」


 電話の向こうの女性に謝り、一方的に電話を切って、実家に向かう。

 電車とバスを乗り継ぎ2時間。


 途中、上司に連絡を入れて、仕事を休むことを告げた。……繁忙期でなかったことが幸いだ。

 もしも繁忙期ならば、きっと私は、母に対して腹を立ててしまっただろうから。


「ただいま。母さん?」


 声をかけながら実家の玄関を開けると、異臭が鼻をついた。

 靴を脱ぐのもそこそこに上がりこむ。


 ……母は、台所で倒れていた。


 ついた時間は昼前だったから、台所には窓からの光が差し込んでいたはずだ。


 なのに今、何度思い返しても、あの場所は薄闇が集まったように、どこまでも暗いものとして私の記憶に残っている。


 私は救急車を呼び、暗がりの中で母の息と意識を確認した。

 熱中症だろうと思い、対処を確認したが、息があるならそのままでいいとのことだった…… 素人判断での対処は危険、ということだろうか。


 失禁で汚れた下履きを脱がすことができず、ハサミで切ろうとすると、母の手が、意外な程の力強さで私の手を押し止めた。


「気持ち悪いでしょ。きれいにしてあげるからね」


 平静を装って声をかけ、母の手を退けてドロドロになった下履きを切り、ウェットティッシュで汚れを拭く。

 母の肌は老婆のように艶を失ってたるんでおり、私は一瞬驚いた後 『ああ母もそういう年齢トシだったか』 と気づいた。


 会わなかった月日の分だけ母は年老いており、その月日を後悔はするものの、もしも頻繁に会ってなどいたら、間違いなく私は母を憎むようになっていただろう。


 ――― それでも、おそらくは、会っておいた方が良かったのだ。

 『優しくいられる距離』 そんなものは、ひとりで倒れ助けも無かった3日間の母のつらさを思えば、まるっきりの幻想だったとわかる。


 救急車がきて慌ただしく母を集中治療室に送り込み、医師や看護師が入れ替わり立ち替わり説明をしてくれるのを、ただうなずきながら聞く。


 彼らの言うことは、とどのつまりは、ただひとつ。


『治療には最善を尽くすけど、症状が進んでるし持病もあるから、万一のことは覚悟しておいてください』


 ああつまりは彼らにとってはすでにそれは、『万一』 よりももっと高い確率なのだ。

 責任逃れか、モンスター家族とかいそうだもんな、と私は内心で彼らの保身を責めることで、母を見殺しにしかけていた自身から目をそらした。



 2日目、とりあえずの危機は脱した、とやらで一般病棟に移る。

 扉脇に掛けられた母の名前の横には赤い丸のシール。……その意味は容易に想像できた。

 つまりは、ひとつひとつが覚悟を固めるための過程なのだ。


 医師がやってきて、数値が良くなれば転院を考えましょう、と言う。


「お家の近くで通いやすい病院はありますか?」


 私は2つ3つ候補を上げ、仕事もあるし、早く転院できるといいんですけど、と言ってみる。

 そうですね、もう少し数値がよくなればね、と医師が調子を合わせる。


 また別の時間帯には、医師がより詳しく病状の説明をしてくれる。


「あまり回復が見られないので、このままだと、万一の場合も……」


 声を震わせて言葉を切り、涙を抑える医師を見て、私は演技だとしたら大したものだ、と性格の悪いことを考える。


 何十人を見送ってきたに違いない医師でも、ひとりの老婆の死はまだ悲しいのだろうか。

 そういう人間だから、医師という職業をやっているのだろうか。


 ――― 母の名前の横の赤いシールは、数日経っても、剥がれない。



 上司に理由を説明し、一週間仕事を休むことにする。


 母のそばをなるべく離れずに過ごし、母の意識がうっすら戻っている気配のある時には、ひたすら話しかける。


 食べ物や旅行、写真を見せながら、また今度連れていってやるよ、という私の声は空々しい。

 子供の頃の思い出を話せば、なんでもないことなのに泣けてくるのが困る。


 ――― 母が目を覚ます時間は、次第に短くなっていく。


 一週間経っても病状に変化がなければどうしよう、と、心配する必要などなさそうだった。


 血管が弱くなりすぎて刺さらなくなった点滴が、しょっちゅう鳴り響くようになった計器のアラームが、この生活の終わりが近いことを私に教える。


 私はただ、母のそばでその時を待っている。


 なるべくなら、苦しみも痛みもないように、と祈りながら、私の心は凪いでいる。

 おそらく次の一週間は、上司に忌引きを申し出ることになるだろう、と計算している私は、もはや人ではないような気が、する。


 ――― その時がやってきたのは、真夜中だった。


 はっ、と何かに驚いたように母の目が大きく開き、電灯の光を映し込んで、それから静かに閉じていった。




 慌ただしく葬儀を終え、相続の手続きを済ませ、家を売る手配をする。

 ややこしい親戚がいなかったのは、幸いだった。


 その年の夏は、こうして、いつの間にか過ぎていった。


 そして、あれから何年経っても、夏になると、私の心からは光が消え去ってしまう。


 ――― 夏が来る度に、強烈な眩しい日差しの中で、私が感じるのは、母が倒れていた台所の片隅の暗さだ。

 先に希望ひかりがあると信じるふりをしながら生活していた病室のほの暗さであり、最後に母の目に一瞬映り込んだ電灯の光の暗さだ。 ―――





「ねえ、お盆休み、どこか行こうよ、どこ行きたい?」


「どこでもいいよ」


「何でそんな、いーかげんなの!?」


「結局は君の好きなところになるんだろ?」


「あなたがちゃんと考えてくれないからじゃない!」


 ソファにゴロゴロと寝転がりながら、スマートフォンを弄っていた妻が、わざわざ半身を起こして責め口調を披露した。


 ――― 母のような口うるさい女はやめておこうと、そこだけは厳選したはずだったのに、結局は 『ややマイルド』 になっただけだった、という結果に苦笑が漏れる。


 別に大恋愛ではない。


 ただ、夏が来る度に心を浸す、暗く冷たい何かから脱却したくて、結婚しようかな、と思った時に、たまたまそこに居た女だ。


「ほんと、なんでアンタみたいなのと結婚しちゃったんだか」


「割れ鍋にとじ蓋、という言葉を知ってるか?」


「アタシは完璧よ! アンタがひび割れまくってるだけでしょ!?」


「はいはい」


 適当に返事しながら、妻が好きそうなリゾートをピックアップしてチャットに送る。


「適当に選んで予約もとっといてくれよ」


「 さ い て い 」


 言いながらも、リゾート地の情報を見る妻の目は、楽しそうな光を帯びはじめている。


「やっぱりプールがあるホテルがいいよね? 新しい水着買っていい?」


「腹の肉が見えないデザインがいいんじゃないか?」


「ばかーあほー自分の腹肉つまんでから言え! このデブが!」


「はいはいー、どーせデブですよ」



 今年の夏、妻好みの小洒落たリゾートに行ったとしても、やはり私の心は暗く冷たい何かに浸されてしまうことだろう。


 ――― それでも、ゴロゴロ猫みたいに転がってる君を見る時。バイキングの料理を取りすぎて、君とフウフウ言いながら食べる時。君と、つまらない口論をする時。


 きっと、そこに一瞬、夏の強い光が差し込んでくれるだろうと思う。



 ――― 君には、言わないけれど。



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