「消えて……」
消えうるような彼女の声。一瞬聞き間違いかと思った。
「な、何を言って……!?」
「私の前に二度と現れないで! トルマリン!」
彼女の傍でそれまで静観していた黒猫の瞳が突如淡い翠色の輝きを放つ。黒猫と彼女が漆黒の靄に包まれたかと思うと、そのまま彼女は忽然と姿を消してしまう。
「待って! 芽衣! まだ俺の気持ちを伝え……」
これでは何のために此処までやって来たのか分からない。誰も居なくなった場所をただただ呆然と見つめる。
『次もし私の前へ現れたのなら、それは
どこからか彼女の声が聞こえたような気がして、俺は虚空を見上げるのだった――――
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話は少し前に遡る。ウエストルク宿場町での事件の後、俺とガーネット、そしてパテギア王女は、国境の関所を越え、三日間かけてようやくアルシューン公国の王都アルシューネへと辿り着いた。
今回姫様も同行しており、なるべく目立つ行動は避けたかったため、俺もガーネットもそれぞれ茶色と白のフードを被るようにした。
レザージャケットにズボン、黒髪のかつらに眼鏡をかけたパテギア王女様は、
「うわぁああああ! これがアルシューン公国の王都、アルシューネなんですね。私初めて来ました」
「え? そうなんですか?」
眼鏡の奥に忍ばせた瞳を爛々に輝かせた王女様へ俺は疑問を投げ掛ける。隣国だけあって、アルシューン公国ではトルクメニアの王族を招いて貴族達との晩餐会が定期的に開催されているのだ。第一王子にあたる兄が居るとはいえ、パテギア王女は第一王女。彼女が初訪という点に疑問符が浮かんだのである。
「あら、ハルキは知らなかったのね。パテギア王女が国民から何て言われているのか?」
「ん? どういう事?」
俺の守護者であるガーネットは何か知っているらしい。
「
「つまりは国から外へ出た事がないって事?」
よくよく考えるとパテギア王女様って、国事の際、国民の前に姿を現した時や、書物でしか見た事がない気がする。
「正確には城から出た事がない……という事になっていますね」
「え? でも姫……じゃなくて、パフェ。こないだ俺の仕事振りを影からいつも見ていた発言していなかったっけ?」
いつも見てました発言を思い出し思わず身震いする俺。
「あれは、ある時いつも引き篭もっていた私を心配して、
「あはは、そう言う事ね……」
あはは……と苦笑しつつ反応する俺。脳裏にムキムキのスーパーお爺ちゃんの姿が浮かぶ。一度その爺やに会ってみたいものだ。
「でも国の外まで出たのは今回が初めてです! 何もかもが初めてみる風景で……私、興奮して来ちゃいます」
「まだ日没まで時間があるし、宿屋へチェックインした後、少し街を散策しましょう」
ガーネットの提案に俺と王女が同意し、手頃な宿屋を探す。さすがに上級貴族もたくさん住んでいるだけあって、高級そうなお店が多い。比較的冒険者に優しそうな宿屋へチェックインし、俺達はメインストリートを散策する事にした。
「見て下さい! お店の中のドレスが見えますよ! こちらは素敵な装飾品。あっちは
所謂ショーウインドウ。この世界の文明で全面硝子張りの窓があるお店がここまで並ぶ都市は少ないのではないだろうか? しかも、高級な宝飾を取り扱う店の窓は、どうやら魔法でコーティングされているらしく、防犯対策までしっかりしていると言える。
「俺達の稼ぎじゃあどれも手が出ないな、ガーネット」
「ええ、ここで生活するなら毎日パフェからの依頼を受ける他ないわね」
ウインドウに並ぶドレスのラピス金貨三枚の値札を確認し、俺は華麗にスルーする事にした。尚、パフェさんが店内へ吸い込まれそうになった事は言うまでもない。
あくまでメインストリートは城に近くなるほど高級店が並ぶだけで、やがて奥へ進むに連れ、冒険者向けの武器、防具屋、服飾、日用品を取り扱う店も見えて来た。
「お嬢ちゃん、こいつ食べていかないかい?」
くりっとした瞳、犬頭のコボルトが耳をピクピクさせて露店のような店で何かを売っている。この甘い香りは……まさか!?
「クレープだとっ!?」
「お、兄ちゃん、よく知ってるね! 通常は銅貨五枚だけど、お嬢ちゃんとそこのお姉さんも可愛いから、三個銀貨一枚にまけとくよ!」
薄く広げた生地に生クリームとベリージャムを塗ったシンプルなものではあったが、向こうの世界に酷似したデザートに思わず驚嘆する俺。尚、パフェはコボルトの店主に褒められて頬を赤らめている。
「あら、お上手ね、コボルトさん。買ったわ」
「毎度あり!」
ガーネットが店主へお金を支払い、眼前で店主が職人技を披露する。生地を焼く香ばしい香りと、甘い香りが食欲を
「ナ、ナイフとフォークはないのですか?」
「お嬢さん。これはそのまま被りつくのが乙ですぜ」
お姫様はナイフとフォークで食べるようなデザートしか恐らく食べた事がないのだろう。眼前に手渡された未知の食物を不思議そうに眺め、その小さな口でひと口齧る。
「んんんっ!?」
暫く、黙って堪能していた彼女だったが、やがてもうひと口食べた後、眼鏡の奥の瞳を輝かせた。
「んんん~~!? 生地の自然な味と生クリームの甘さ、そしてベリーの甘味と程よい酸味が見事な三重奏を~~はぁ~~幸せすぎて私……天へも昇る気持ちです~~」
至福の表情をしたお姫様を見ていると、こちらも幸せな気持ちになって来る。
「それにしても、まさかクレープに出逢う事になるとは」
「私達も食べましょう、ハルキ」
この際、この世界の文明レベルに関して追究する事は止めにしよう。今は目の前の感動を堪能すべきだ。シンプルだが素材の味を生かした味は見事だった。お菓子で隣国の文明レベルの高さを知る事になるとは思わなかったな。
(ハルキの住んでいた世界のデザートと変わらない味ね)
(嗚呼、俺もびっくりしたよ)
クレープの味を存分に堪能した後、数日後開店するパンケーキの店まで案内された。チラシを配っている子供が居たのである。もう少し向こうで西洋のお菓子の歴史でも勉強しておけばよかったな。
「アルシューン公国。素晴らしいですね。トルクメニアでも取り入れる事が出来ないか、今度爺やに相談してみます」
「
存分に王都アルシューネを堪能しつつ、本来の目的も忘れ散策する俺達。いや、俺自身忘れている訳ではないんだが。目的地がないなら、冒険者ギルドかメインストリートから少し離れた場所にあるラピス教会セントレア支部にでも行ってみようかと考えていた時、俺の鼻腔を馴染みある薫りが誘った。
「なっ、この薫りは……!?」
「いい薫りがしますね」
メインストリートの外れ、煉瓦調の他店とは異彩を放つお店。焙煎した豆の芳しい香り。
間違いない、これは……!?
「喫茶店じゃないか!?」
そう、俺が探し求めていたのはコレだ。打ち震える感動を押さえつつ、店へ入ろうと二人へ促すと、ガーネットが俺へ警鐘を鳴らした。
「待って、ハルキ。匂うわ」
「え、嗚呼、珈琲の香りだろ?」
芳香の魔術師、ガーネットは俺の耳元でこう囁いた。
「いえ、
「なっ!?」
この喫茶店への訪問が、思わぬ邂逅へと繋がるとは、この