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44 悪魔のひとみ

 モブメイドが両手を掲げ、紅く瞳を光らせた瞬間、冷たく背筋から凍えるような空気が周囲を支配する。彼女が一歩一歩階段を降りる度、おぞましい瘴気しょうきが迫って来るかのように、重く圧し掛かって来た。聖女の力を受け継いでいなければ、この時点で正気を保てて居られなかったかもしれない。そして、気づく。皆、時が止まったかのようにその場で静止しているのだ。


「ローザ、グロッサ、ブルーム! みんな!」


 その場でローザの肩を揺さぶっても、既に瞳の色を失っており、誰も動かない。階段の踊り場上に居るグランツ侯爵も、真っ赤な瞳のまま止まっている。この場で動いている者は、この世界のモブメイドとヴァイオレッタ、二人だけだった。


「このまま全員を操ってもよかったんだけど、ちょっと直接お話がしたかったのよね、ヴァイオレッタ。いや……序列88番目のモブメイドちゃん」

「何を言っているのかしら? モブメイドはあなた・・・でしょう?」


「ふふふ。大丈夫よ。此処に居る誰も、既に悪魔のひとみに魅了されており、意識はないわ。正体を明かしてしまっても、誰も聞いていないわよ」

「そう。でしたら、あなたもそろそろ、モブメイドの皮を被っていないで正体を明かしてくれないかしら? ミランダ・・・・・ショーン伯爵令嬢」


 最後の一段を降りたモブメイドとワタクシが、距離を保ったままロビーで対峙する。ヴァイオレッタ様の中身はモブメイド。そして、ミランダ・ショーンの中身はヴァイオレッタ様。今迄起きた事象を振り返っても、モブメイドの中身は彼女、ミランダしか考えられないのだ。


 ミランダの名前を告げた瞬間、彼女はゆっくりと息を吐き、やがて、肩を震わせながら屈々と嗤い始める。


「モブメイド。あんたには感謝しているわ。あんたほんっと目立たないんだもの。裏で色々動いていても誰にも怪しまれない。お陰様でうまく立ち回れたわ」

「最初からワタクシがモブメイドだって分かっていたなら、もっと早くに殺せばよかったじゃない?」


「それがそうもいかなかったのよね。あんたがモブメイドって分かったのは、この世界の私を助けた時だったし、あんた、この身体に魔力を持っていないんだもの。此処まで来るのに結構苦労したのよ?」

「へぇ~。悪魔の力も完璧じゃないって事?」


 どうやら、この世界のミランダ伯爵令嬢、つまりヴァイオレッタ様が入ったミランダを救ったアイゼン王子の誕生日パーティ。あそこでヴァイオレッタ様もミランダもヴァイオレッタ様の中身がモブメイドであると気づいたらしい。うまく演技をしていたつもりだったんだけど仕方ない。


 モブメイドの身体は魔力がゼロである。これはミランダにとって盲点だったようだ。闇の魔力を取り込むために王宮の図書館から禁断の魔導書を使い、体内へ魔力を取り込み、生前も利用していた闇商人より悪魔の力を封じた魔法具を取り寄せる。そうやって少しずつ、王宮の者を操り、陰で色々準備をしていたらしい。社交界でのヴァイオレッタ暗殺も、ようやく準備が整ったタイミングで、騎士団員を操って実行したようだ。


「それにしてもあんた、モブメイドの癖に此処までお見事だったわよ。前世ではこの時点で後はヴァイオレッタを追放するだけだったもの。少しは愉しませて貰ったわ」

「どうして……どうしてあなたはそこまでヴァイオレッタ様にこだわるの?」


「そうね……あのとき私を追放した恨み……まぁ、今はそんなこと、どうでもよくなったわ」

「だったらどうして?」

「あんたはいいわよね! 前世でも王宮で自由気ままに生活出来て、今回なんて勝ち組の侯爵令嬢になれたんだもの。あんたには、毎日泥水を啜ってこの世界に絶望した私の気持ちなんて一生わからないわ」

「ミランダ……あなた……」


 ワタクシ……いや、モブメイドであるわたしなら、この人の気持ち……分かるかもしれない。世界の脚光を浴びるような物語の主人公なんて一握り。それ以外は脇役。そして、脇役にもなれない・・・・・・・・モブという存在。わたしはこの世界でそんな存在でしかなかった。


 血の繋がっていない母親と姉から虐められる日々。それでも毎日懸命に生きて来た女性は、ヴァイオレッタ様のひと言で、表舞台から姿を消した。表舞台から追放された彼女は、きっとヴァイオレッタ様を恨んだだろう。もしかしたら、彼女は何処かで誰かが救いの手を差し伸べてくれる事を待っていたのかもしれない。


「ふふふ。モブメイド、この世界の私に手を差し伸べたあんたは救ってあげてもいいわよ? 欲望に身を任せる楽しい余生が送れるわよ? さぁ、私の手を取って」 

「お断りするわ。ワタクシはヴァイオレッタとして皆を救うと決めたの。あなたの野望は此処で終わりよ、ミランダ」

「そう、残念だわ。じゃあ、お望み通り、私の操り人形になりなさい!」


 彼女がワタクシへ向けて右手を翳した瞬間、冷たい風がワタクシの身体を通り抜ける。




 刹那、見ていた景気が変わる。そこはワタクシの部屋。いつも見ているベッドの天蓋。


 え? どういう事? ワタクシは夢を見ていたの?


『どうしたんだヴァイオレッタ。ひどくうなされていたみたいだが』

『え? クラウン王子? どうして?』


『どうしてって……お前が昨日誘ったんだろう、ヴァイオレッタ』

『待って、ちょっと王子……近い……』


 王子の顔が近い……シーツの中、肌と肌が密着している。王子の温もりを肌で感じる距離。待って、おかしい。この状況……頭がついていかない。さっきまでのワタクシは……確かカインズベリー侯爵家へ向かって、誰かと話していた筈……あれ? 誰と話していたんだっけ? 必死に考えを巡らせていると、王子が自身の額とワタクシへ額をくっつけて来る。


『ほら、やはり熱があるんじゃないか?』

『それは……王子が近いから』


 この状況おかしいから……だってワタクシの中身はモブメイド……モブメイドには使命が……あれ? でも王子とヴァイオレッタ様が結婚するのなら、このまま王子の温もりに身を任せてもいいんだっけ?


『ヴァイオレッタ、昨日の続き……するか?』

『いや……それは…………はい』


 嗚呼、王子の柔らかい部分がだんだん近づいて来る。そうね、ワタクシはヴァイオレッタ。身を任せてもいいんだわ。このまま王子と幸せな王宮生活を送るのね。そう、ヴァイオレッタだもの。もう、ワタクシはモブメイドじゃないんだわ……モブメイド……ワタクシは……。


『どうした? ヴァイオレッタ』

『王子、残念ですがワタクシは、幻想ではなく現実の・・・ 王子と愛を育みたいですわ』


『何を言っているんだ?』

『悪しき者は還るべき場所へ、正しき者は導かれん。人の子の魂よ、いつの日も清らかであれ。女神ミューズよ、今こそ我に力を! エンゲリオン=キュアノス』


 王子の身体を離し、ワタクシが言葉を紡いだ瞬間、王子の口元が歪み、世界がぐにゃりと回転する。そのまま眩暈がするかのように世界は反転し、元の場所、カインズベリー侯爵家のロビーにワタクシは立っていた。


「はぁ……はぁ……」

「そう……やはり聖女の力を受け継いだのね……モブメイド」


 聖女の力を受け継いだワタクシと悪魔の力を継承した魔女。蒼い瞳と紅い瞳がその場に対峙した。


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