「かわいそうに…ラルフは何も覚えていないの?自分の名前さえ?」
「むしろその方がいいんじゃないか?あんな事があったんだ」
アイシャは夫であるロックランの言葉にうなずいた。
そうよね。
妹夫婦は金銭面で苦労する我が家以上の悲劇に見舞われたんだもの。
キーラ。ずっと妹に嫉妬してきた。
頭が良くて家族から尊敬されていた妹。
男爵家の名にふさわしい令嬢。強くて厳しい人。
そんな妹とは違い、要領の悪かった私は家族の中で疎外感を感じて、居心地が悪かった。
若い頃はそう思っていたけれど、今はみえていた世界がすべてではなかったんじゃないかとも思う。
キーラは姉妹として貴族令嬢のお手本を見せてくれたし、刃物のように鋭い言葉を投げかけてきた両親だったが、食事もドレスも良いものを揃えてくれていた。そのすべてがこの身に災難が降りかからないようにという願いからだったのかもしれない。自分がどれほど恵まれていたのか今は理解している。けれど、若いころは何も分かっていなかった。ただ、キーラよりも良い男と結婚して見返してやりたかった。その一心だけで伯爵家に嫁いだのだ。本当はリッチー家の妻に望まれたのはキーラの方だった。けれど、夫が選んだのは年上の私だった。
「君といると落ち着く」
頬を染めて小さく語った夫に胸をときめかせた。
嬉しかった。
だから、キーラが没落寸前の子爵家へと嫁ぐと聞いた時、優越感に浸ったのは否定しない。
でも、私達には子供が出来なかった。それなのに、妹は三人の子の親となった。悔しかった。
リッチー家の親族は私を不出来な嫁だとののしったけれど、夫だけはずっと味方してくれた。
それが唯一の救いで伯爵家にいる理由となった。
その時になって、ようやく気付いたのよ。
欲しかったのは肯定してくれる誰かだと…。
それでも妹家族を見ると胸がざわめいた。
だから、距離を取るしかできなかった。
それは正しかったんだと思う。
リッチー家の伯爵夫人になって数年は穏やかだった。
夫も常に優しかった。しかし、所有している鉱山事故がすべてを変えてしまった。賠償金にリッチー家が保有していた資金は使い果たされ、主な事業であった宝石類が取れなくなってしまったからだ。その時から夫はすべてを取り戻そうとおかしな事業に投資し、失敗を繰り返す日々が続き、結局、妹夫婦に頼るはめになったのだ。久しぶりに訪れたキーラの屋敷も寂れていた。
妹も苦労していると直感したけれど、リッチー家よりはマシだと言い聞かせたのだ。
それもすべては幻だ。
ずっと頭の隅にくすぶっていた妹の影すらもう、みえない。
すべては建国祭のせいよ。せめて、私も一緒についていけば、こんな事にはならなかったのかもしれない。もっと妹家族と懇意にして置けばよかった。
そうすれば、悲劇は防げたかもしれないと悔やんでも悔やみきれない。
もっと許せないのは皇宮での騒動をすべて姪のせいにされた事だ。
パーティーを穢した?
何があったかもろくに調べもせず!
冗談じゃない。
なぜいつも女のせいにされなければならないの?
キーラよりも私よりも花のあったルシア。彼女の華やかな噂は耳に入っていた。
自由で、若い時間を自由に謳歌しているものだと思っていたのに、あんまりだわ。
「旦那様。屋敷の方は?」
「すべて燃えていた」
「では生存者はラルフだけで?」
「おそらく…」
「そんな」
「だが、幸いなのは悲劇を引き起こした奴らは断罪された事だ」
「それだけが救いですわ。まさか、聖騎士達がこんな暴挙にでるなんて…。皇帝は一体何をしているのよ」
「アイシャ!口をつつしまないか」
「ここには私たちしかいませんわ。皇帝がしっかりしていないから部下も抑え込めないのよ。噂によればキーラは…妹は死ぬ前に尊厳を傷つけられたというじゃない!ルシアだって…」
ずっと嫉妬を抱えていた妹ではあったけれど、愛していたのだと亡くなった後に自覚するなんて。
私もとんだバカだわ。
しかも、引き起こしたのは寄りにもよってあの男だなんて…。
キーラの幼馴染。ずっと気持ち悪いと思っていた。
なめ回すようにキーラを眺めていたのは古い記憶だ。
忠告しておけばよかった。
バカな嫉妬に狂わずに…。
「それと不思議な事があってだな」
「なんです?マーシャン子爵家の墓なんだが、掘り起こされた後があった」
「まあ、墓泥棒が?」
アイシャの怒りにロックランは首を横に振った。
「うちの使用人に掘り返させたら、君の妹一家が静かに眠っていた。花も添えられていたし、誰かが葬ったんだろう」
「もしかして、ストレイト侯爵のご子息かしら?ラルフを連れてきたのもあの方だし…。見た目は地味だけれど気骨のある方のようね」
「そう言う事にしておこう。だが、上のお嬢さんは眠っていなかった。もしかしたら生きているのかも…」
「生きているならここに来るでしょう。ラルフをその身と引き換えに守ったという話ですもの…」
煤だらけで現れたストレイト小侯爵のご子息はもう一人の姪…シェリエルにラルフを我が家にと頼まれたのだと言っていた。
気が強そうなシェリエル。パーティの花ともてはやされるルシアとは対照的な姪で彼女の事はあまり知らないがキーラに一番似ているのはきっとあの子だろう。
つい先日訪ねた時の彼女にはそう感じた。
実はこの騒動で一番の被害者はあの子なのかもしれない。
姉妹の死を目撃しただけではなく、母親と父親、弟の悲劇を目の当たりにしたのだから。
何も悪くはないのに。
もし、生きていれば地獄は続いたはず。私なら耐えられない。
安らかに眠ってほしい。
だからこそ、ラルフだけは守らなければ。
妹の遺児。姪が命がけで守ったマーシャン家の血筋を…。
「旦那様。ラルフを…甥をこのまま私たちの元においてはおけませんか?あの子の記憶が戻り、成人したあかつきにはマーシャン子爵家を盛り返す事も出来るはず」
「お前の願いはかなえてやりたい。しかし、我が家にはその力がもうない。お金はつきたのだ」
「まだわずかに残っているはずです。一体何に使ったんです?」
「土地を買ったのだ。金が出る可能性のあるな」
「ですが、出なかったのですね」
肩を落とすロックランに嫁いできて初めて怒りを覚えた。頼りのない男。
私がお金を管理していれば、少しは違ったかもしれないのにと、もどかしさが募る。
「旦那様!良いお話です!」
飛び込んできたのは我が家に残った唯一の執事。
「例の土地にある山からダイヤモンドが掘り起こされたそうです。それも大量に!」
「何!」
天の恵みはこういうのをいのかしら。
夫は膝を落とし、ホッと息をついた。
「私達は助かった!助かったんだ!」
「では、ラルフを置いてもよろしいんですわね。あの子には治療と安心できる場所が必要なのですから」
「ああ、お前の好きにするといい」
大喜びで夫は部屋を出て行った。
残された甥に視線を移す。だが、その目は虚ろでどこか遠くを眺めている。
仕方がない。家族全員を失ったのだから。
「ラルフ。おば様がいるわ。ずっとね」
ラルフの体をそっと抱きしめた。
母親にはなれないけれど、姪が…シェリエルが繋いだこの子を見捨てたりはしないわ。