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第26話

 おぞましい。

 恵美の話を聞き終え、陽菜は胃の奥からせり上がってくるような吐き気を感じて口を覆った。


 この村に来た最初の日、瑞樹に向かって陽菜は嫌味のつもりで「友姫は私がやるんだから」と言った。

 けれど、60年ぶりという祭に対してそんなに気楽でいられた過去の自分が、今ではあり得ないほど「お気楽」だったと思う。


 祭の何が大事か、陽菜にはわからない。誰も教えてくれないからだ。おそらく恵美も村で育った人間ではないから知らないだろう。


「……この村の女は、多かれ少なかれ恵美さんと同じさ。祭のため、祭のため、龍神様の嫁がいないと始まらない。そう、言い聞かされて育ってきたんだ。だから、この村の女たちはこどもを村の外に逃がすんだ。自分と同じ目に遭わせないためにな」


 恵美が語り終えたのに気づいたのだろう。まち子がやってきていつになく暗い表情で恵美の隣に座った。


「そして、何も知らない外の女を騙して連れてくるの。こどもを産ませるためだけに。私も由香里さんも、そうだった」


 恵美の声はタールのようにどろりとして黒い。陽菜の足を捉えてその場に留めようとしているかのように。

 恵美の話を聞き、陽菜にはもうこの村に残る理由など見いだせなくなっていた。


 憧れていたのはきらびやかな花嫁衣装と華やかな祭であり、田舎独特の閉塞感が可視化されたような闇なんて見たくはなかった。


「恵美さんは……」


 妙に喉が渇いているのを感じつつ、陽菜は必死に声を絞り出す。


「離婚しようって思わなかったんですか? 東京に帰れば良かったのに」

「私は要領がいい方じゃないの。両親は夫に言いくるめられるだろうし、実家の場所が知られている以上私が逃げてもすぐに連れ戻されるわ。それに、瑞樹が生まれてからは逆に夫がこの村からいなくなったから、私としてはこっちの方がまだましだった。――陽菜さん」


 名を呼ばれ、陽菜はびくりと肩を跳ねさせた。恵美は口元にいつものような笑みを貼り付けているけれど、目は一切笑っていない。

 そして彼女が告げた一言は、陽菜を無理矢理抱きしめて自分の沈む沼に引きずり込もうとしているかのようだった。


「逃げられないわよ」


 たった一言。いっそ穏やかといえる恵美の声が、陽菜を絶望に突き落とす。


「あなたは60年ぶりの友姫だもの。私たちが逃がしてあげたくても、義父たちがあなたを逃がさない。でもね、祭ができるまで友姫を務めてくれればいいの。そうしてくれるなら、私たちはあなたを全力で守るわ」


 助けを求めるように祖母に視線を向ければ、まち子は仏間の方に目を向けていた。


「じいちゃんはな、反対してたんだ。加奈子のお腹の子が女だってわかったときに、里帰り出産させるのを。……ばあちゃんはな、前に祭があったときのことはほとんど覚えてねえ。小さかったからな。花嫁様が綺麗だったことは覚えてるんだ。それしか、覚えてねえ」


 まち子は立ち上がると、陽菜のために作られた打掛の前まで歩いて行った。宝物に触れるように、そっと指先で美しい生地を摘まみ上げている。


「60年前の友姫は、じいちゃんの姉さんだったんだと。その人は祭の後に死んじまったってじいちゃんから聞いた。じいちゃんは祭に反対してた。だから、ばあちゃんだけは、この村の女の中で酷い目には遭わなかったんだ。だからこそ、禊ぎをしなきゃなんねえ」


 まち子は打掛から手を離すと陽菜に振り向いた。皺が刻まれたその顔には、固い決意が感じられた。


「自分だけのうのうと生きてきたと知ったときに、他の女衆に会わせる顔がねえと思ったんだ。だから、加奈子の子を――陽菜をこの村で産ませた。もうこれ以上女が苦しめられねえようにな」


 この人は何を言っているんだろう――そんな疑問が陽菜の頭をよぎる。村の女性たちが長年に渡って性的暴行を受けていたという話は恐ろしいが、陽菜には直接関係がないはずだ。


 なのに、恵美もまち子も「村の女たちのために、祭をするために友姫をやれ」と陽菜に強要してくる。


「私は……何をしたらいいの?」


 思考がまとまらずに途方に暮れて陽菜が呟くと、恵美が幼いこどもに言い含めるように目線を合わせて語りかけてきた。


「今まで通り、友姫の役目と言われてる日課をこなせばいいだけよ。祭が、行われさえすればいいの。もうこの集落は若い人もいないから、次の祭はあり得ない。義父がどう思ってるかはわからないけどね。あなたが役目を果たすために、いくらでも力を貸すわ」


 たった数日前には浮かれきっていた心が、灰色に塗りつぶされていく。

 恵美の言うとおり、逃げることはできないだろう。村と市部の交通手段は限られているから、バスに乗ることができなければそもそも村を出られない。


 ――祭が終わるまで、村から出てはならない。


 それは、しきたりなどではなく実質的な檻だった。

 友姫を逃がさないための。


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