永遠に続くかと思った責め苦が妊娠検査キットの陽性反応で終わりを告げたとき、恵美は心の底から安堵していた。
出産予定は5月。安定期に入るまでは本当に軟禁された。布団の上から動くなと言われ、あれだけ恵美を粗略に扱った誠司と義父が食事の支度から掃除洗濯まで全てのことをしてくれたのは、ほんの少しだけ恵美の気分を良くした。
11月には、2月に生まれる予定の滝中のこどもが女の子であることがわかり、恵美はずっと抱え続けていた重荷が軽くなるのを感じていた。
これで、万が一お腹の中のこどもが男でも、村人は恵美を責めはしまい。
将来の友姫をありがたがることはあっても、「村長の孫」にいちいち「男に生まれるなんて」と言うなどこの村の構図的にあり得ないのだから。
けれど、運命は恵美に残酷だった。そのまま安堵することなど許さないとあざ笑うかのように。
女の子を妊娠した滝中の由香里は切迫早産と診断され、このままでは危ないということで市部の総合病院に入院することになったのだ。
誠司と義父に頼み込み、決して無茶はしないという約束で一度見舞いに行ったが、ベッドの上の由香里は心労のせいでとてつもなくやつれていた。
彼女もまた、辰年に娘を産むためと物のように扱われていたのだ。妊娠し、それが女の子であるとわかったときはどれだけ救われる思いだっただろう。それが、一気にどん底に落ちてしまった。
体が小さい由香里の妊娠は重力自体が妊娠継続の敵というほどの危険さで、彼女は24時間足を吊り上げたままでウテメリンという切迫早産を防ぐ薬を点滴され続けていた。
友姫の条件は、「辰年に」「村で」生まれた娘。
由香里は村での出産は叶わない。そうなれば、その娘は友姫にはなり得ない。
ウテメリンは副作用がきついことでも有名な薬だ。恵美も一度切迫流産と診断されて服用したことがあるが、動悸が激しくなって呼吸することすら苦しく、早く薬が終わってくれないかとばかり思っていた。
由香里は、その薬を24時間点滴されている。それだけでも体はどれだけ辛いだろう。だが、由香里を一番苦しめているのは「この病院で出産しなければならない」という事実の方だった。せっかく女の子を妊娠したのに、最大の務めを果たせないのだから。
恵美に向かって泣いて謝る由香里は過呼吸を招き、駆けつけた看護師には面会の中断を指示された。
恵美もそこで由香里を責められるほど図太くなれなかった。むしろ、由香里が出産後に村に戻ってきたときに男衆に何を言われるかを思うと恐ろしい。
もしも、この子が男の子だったら――。
まだ目立たない腹をそっと押さえて、恐怖と戦いながら年を越した。
由香里が女の子を
動けない恵美は、出産おめでとうという手紙だけを由香里に送った。由香里がこの村に戻ってこない方が彼女にとっては幸せではないかとも思いつつ。
そんな中、東京に嫁いだ中竹内のまち子の娘が、3月出産予定で女の子を妊娠しているということがわかったのだ。
暗雲に閉ざされた自分の未来に、光が差し込んだような思いだった。
恵美がなにもしなくとも、義父を中心に「里帰り出産」の話が急に進められ、予定通りに村で数十年ぶりに女の子の産声が上がった。
「おれらの姫様じゃ! ついに友姫様がおいでなすった!」
まるで自分の孫のように「ひな」と勝手に名付けた女児を抱く義父の姿に、嫌悪感を抱きつつも安堵する。
ちょうどその頃、恵美のこどもは男だとわかったのだ。
義母はその時だけ恵美に自ら近寄り、恵美の膨らんだ腹を愛おしげに撫でながら「男の子で良かったなあ」と言った。
まるで、呪いの言葉のようだった。女の子ばかりを望まれ続けたのに、男の子で良かったとはどういう事なのか。
けれど、それは間もなく恵美にも理解出来るようになった。
陽菜と名付けられた赤ん坊は、まるで本物の姫であるかのように毎日毎日村人が顔を見に来る。
もしも、自分のお腹の子が女の子だったなら――恵美は想像し、恐ろしさに震えて自分の体を抱きしめた。
恵美の「娘」と陽菜は、友姫の座を巡って争うことになるだろう。ここ数十年成り手のいなかった姫役が、同時期にふたりとは皮肉にも程がある。
そして、「村長の孫」は「普段は東京にいる、村で生まれただけの陽菜」よりも立場が強い。
先に生まれ、村人の中で「次の友姫」と既に認知された陽菜と争う――それはあまりにも不毛で、不幸だった。
友姫はひとりでいいのだ。だから、恵美のこどもは男の子でよかった。
瑞樹が生まれたときにその元気な産声を聞き、産湯を使った息子を初めて腕に抱いたとき、自然と涙が流れた。
誰が望むとかは関係ない。友姫は陽菜がいるのだから。出産に至るまでは苦しみばかりだったけれど、生まれたこどもに乳を含ませながら、「ああ、私はこの子を愛せる」と恵美は確信した。
それが、恵美にもたらされた最大の救い。陽菜と瑞樹、どちらが欠けてもあり得なかった、最も良い未来。
友姫は生まれた。中村家には跡取りが生まれた。
それを見届けて安堵したように、義母は蝋燭の火が燃え尽きるかのように静かに死んでしまった。最期は恵美の手を握って「こんな家に嫁がせてごめんなあ」と謝りながら。
そして義母の納骨が済んだ頃、自分の村での役目は済んだとばかりに誠司は東京本社に栄転していった。――おそらくは、義父の持つ影響力などを駆使して、「こどもが生まれるまで」の条件でこちらで働いていたのだろう。
盆と正月しか帰ってこない夫は、東京で何をしているか分からない。おそらく浮気もしているだろう。だが、そんなことはどうでもいいし、むしろ誠司が自分に触れないでいてくれるなら、夫の「処理」をしてくれている女性に「いつもありがとう」と笑顔で言える自信もあった。
あれだけ口うるさかった義父も、「友姫」と「跡継ぎ」を同時に得たことで恵美に干渉してくることはなくなった。
「だから、陽菜さん、祭のために力を貸して。お願いします」
陽菜が絶句して途中から耳を塞ぎたいような事ばかりだった告白を終え、恵美は陽菜の前に座り直すとそれこそ畳に頭をこすりつけて頼み込んでくる。
「この村の女たちのため、瑞樹のため、そして、何より私の願いのために、祭は行わなければならないの。――その祭を最後の祭とするために、これ以上の悲劇を生まないために」
陽菜と瑞樹がいたから最良の未来を手に入れられたと自らの口で語ったはずの恵美は、怨念を凝り固まらせたような沼色の目で陽菜を見つめていた。