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第18話

 陽菜が目を覚ましたとき、隣の布団は空だった。おばあちゃんはやっぱり朝が早いなあとぼんやり思い、陽菜はもそもそと朝の支度を始める。

 なんとなく今朝は薄暗い。陽菜が顔を洗って部屋に戻ろうとしたとき、「ただいま」という声と共に戸が開いた。


「おばあちゃん! どこ行ってたの?」

「村長さんとこさ行ってた。ゆうべの山の怪の事話して、お寺さんでもなんでもいいから、あんなのがうちさ来ないようにしろって怒鳴りつけてきたわ」

「わざわざ? 電話でも良かったんじゃ……」

「電話で怒鳴ったら陽菜が起きんべ? ゆうべもなかなか寝付けんかったのに」

「ま、まあね」


 さすがに昨日は陽菜は怯えてなかなか寝付けなかった。玄関に置いた物以外にも包丁を枕元に置いて寝たほどだ。今朝は目覚ましは掛けなくてもいいと言われたので、時刻は既に8時に近い。


「さて、朝ご飯作っからな。ああ、そういや雨降りだしそうだわ。洗濯物は今日は家の中だなあ」

「えー、雨? 雨の日でも禊ぎするんだよね?」

「そうだな、雨の日でも関係ねえらしいな」


 雨の中禊ぎをしたくはないが、禊ぎをしないと体の怠さが抜けない。そう言いかけて陽菜は慌てて口をつぐんだ。

 祖母は村の人間だ。陽菜にはお札集めの意味はわからないが、陽菜の中でもあのお札集めが理不尽な疲労の原因ではないかと薄々気づいている。お札集めが気持ち悪い、嫌だと祖母に泣きつくのは禁忌の気がした。


 お札集めもいつまでも続くものではない。30戸の家々を3軒ずつ回っているのだから、10日目には終わる。それが終われば体も楽になるだろう。

 陽菜はそう考えることで自分を無理矢理に納得させた。友姫に憧れ、今まで村長を始め村人にも期待されてきたのだから、今ここで投げ出すことはできない。


 無性に卵かけご飯が食べたかったが、精進潔斎のためにぐっとこらえる。あまり食欲はないが昨夜よりはマシなので、味噌汁をご飯に掛けて一欠片のバターを落として半ば無理矢理に胃に流し込んだ。


 禊ぎのために家を出ようとすると、祖母の言うとおりに雨が降り始めていた。一気に気が重くなるのを感じながら、陽菜は家の傘立てからビニール傘を取り出して開く。パソコンは濡れないようにバッグに入れて持った。


「おはようございます、陽菜です。禊ぎに来ました」


 中村家に着いていつものようにインターフォンに告げると、恵美の声で「どうぞ、上がってください」と応答があった。おそるおそる玄関の戸を開くと、ちょうど恵美がそこへやってくる。


「雨なのにご苦労様ね。泉のところで着替えると濡れちゃうから、こっちで着替えて、バスタオル羽織って行ったらどうかしら? ビニール袋も渡しておくから、禊ぎの間はそこにバスタオル入れて置いて、帰りもそれを羽織ってくる感じ」

「あー、そうですね。それしかないですよね。それじゃあ、お邪魔します」

「落ち着かないと思うけど、禊ぎが終わるまで瑞樹には部屋から出るなって言っておくから」


 恵美は居間に陽菜を通すと、悪戯っぽく笑って去って行った。

 無駄に大きいテーブルにノートパソコンを置き、無言で着替えをする。その間に陽菜が考えていたのは恵美のことだった。


 陽菜が見てきた恵美は、暗い顔をしている事が多かったが、今朝はそうでもなかった。むしろ、東京にいる陽菜の母に似て、明るく茶目っ気がある印象だった。どちらかというと、それが本来の恵美なのだろう。

 考え込みながら着替えを済ませ、タオルを肩に羽織ってビニール袋を持つ。


「禊ぎしてきます」


 一言断ってからビニール傘を差して泉に行き、バスタオルが濡れないように袋に入れてから地面に置く。傘も閉じて隣に置き、雨に打たれながら陽菜は泉で禊ぎをした。冷たい泉の水は、それだけがいつもと同じで何故か陽菜はそれに安堵した。



 禊ぎが終わるとびしょ濡れの白装束にバスタオルを巻き付け、陽菜は小走りに中村家に戻った。


「ああ、髪の毛まで濡れちゃったわね……大変」


 玄関で更にタオルを用意して待っていてくれた恵美は、陽菜の頭にタオルを被せ、押さえて水気を吸ってくれた。

 足を拭いて居間で着替えると、やっと一息つくことができてほっとする。余分に渡されたタオルで髪を拭きながらダイニングに向かうと、既に瑞樹がそこにいた。タオルを片付けているのか、恵美はいない。


「お疲れ様」

「あ、ありがと」


 まだ陽菜が何も言っていないのに、瑞樹はホットココアの入ったカップを渡してくる。それを受け取って椅子に座ると、彼は陽菜の頭に目を向けていた。


「髪の毛長いと、濡れたとき大変そうだね」

「マジ大変だよー。お風呂の後とか乾かすのに20分とか掛かるんだから」

「え……そんなに掛かるの……友姫のためにそこまでしてるんだ。しかも雨の日まで禊ぎまでしてさ。まあ、禊ぎすると楽になるからちょっとはわかるけど」


 瑞樹は目を見開いて陽菜の苦労に驚いたようだった。それに同調の言葉が続いたため、陽菜は何度も頷きながら拳を握ってつい言葉を漏らしてしまった。


「ホント、禊ぎすると楽になるよね。背負い込んだものが消えていくっていうか、『目と鼻から神様産めそう』って思ったもん」

「へえ……」


 それまでテーブルに向いて座っていた瑞樹が、体ごと陽菜に向かい合うように立ち上がった。

 陽菜の顔を覗き込んでくる瑞樹の目は、陽菜が一歩下がるほど真剣だった。


「お気楽って初対面の時に言ったけど、撤回するよ。君、意外に鋭い」

「な、何が?」


 今までは冷たく見える表情の多かった瑞樹が、僅かに口の端を上げていた。そこには陽菜に対する興味の色が窺える。


「気づいてるんでしょ? 禊ぎの意味。陽菜さんは『穢れたから祓ってる』って理解してるよね。だって、黄泉の国での穢れを祓うために禊ぎをしたイザナギが、『目と鼻から』三貴子を生んだんだから」

「あ――」


 陽菜は思わず唇を噛みしめた。

 穢れたから清めている。言葉にしてしまえばシンプルな事実だが、陽菜が気づいていながらも頑なに認めたくなくて、自分の中で目を逸らしていた事だった。


 お札集めが穢れを集める儀式なら、自分が穢れを背負わされているのなら、友姫とはただの祭の象徴の姫君役ではなくなってしまうから――。


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