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第16話

「はーい」


 濡れた手を備え付けられたタオルで拭き、陽菜は玄関に向かう。祖母は今薬を探しているから、陽菜が出た方が早いと考えたのだ。


「こんばんはぁ……」


 どんどん、と戸を叩く音は依然響いている。その合間に聞こえた不気味な声に陽菜は思わず鍵を開けようとしていた手を止めた。


「こんばんはぁ……」


 男の物とも女の物ともつかない声だ。張りもなく、ただ若者の声でない事くらいしかわからない。


「出ちゃなんね! 陽菜、離れろ!」


 玄関に向かって祖母が駆けてくる。陽菜はまち子の鬼気迫る声に弾かれたように、戸から離れた。


「こんばんはぁ……」


 声は尚も続く。どんどんと戸を叩かれる音も続いている。古びた家に響く、拳で戸を叩くような音がこれ程までに暴力的だとは陽菜は初めて知った。


「お、おばあちゃん、なにこれ」


 震えながらまち子の後ろに回り、陽菜は祖母に取り縋った。祖母は険しい顔で戸を睨んでいる。


「村の人間じゃねえ事は確かだ。大体の家は鍵は掛けねえし、鍵が掛かってたら『まち子さんいるか』とか訊いてくんべ」


 祖母の返事に陽菜はハッとした。昨日と今日、お札集めで回った家々はどこも確かに鍵など掛けておらず、村人は名前で呼び合っていた。


「……ひとつのことしか言えねえのは、ここら辺りじゃ人間じゃなくて山のって言われてる。放っておきゃ朝にはいなくなんだろうが……」

「嘘でしょ!? 夜中ずっとこうなの!?」

「ばあちゃんもこんなんで眠れるわけがねえ。はて、どうすべなあ……」


 まち子は台所から塩を持ってくると戸に大量に掛けた。けれど直接怪異に掛けた訳ではないからか、効果がない。


「お兄ちゃん!? 陽菜だけど! 助けて、変なのが家の外にいるの!」


 陽菜が思いついたのは、オカルト好きの兄に助けを求めることだった。妹からの切羽詰まった救援要請に、兄のこうはすぐ反応してくれた。


『人間だったら俺の管轄外だぞ! 警察呼べ!』

「おばあちゃんが『少なくとも村の人じゃない』って言ってる! さっきから『こんばんはぁ』って同じ事ばかり繰り返し言いながら、玄関叩いてるの!」

『うわ、キモい。てか、ドンドン聞こえるのそれか?』

「それだよ! なんとかして!」


 電話の向こうでは、兄がしばらく黙り込んでいた。こういう時には彼の頭がフル回転しているのだと経験上陽菜は知っている。


『……よし、とりあえず脅せ』

「はぁ?」


 待ちわびた兄の回答に、思わず陽菜の口から冷たい声が出る。例えば何かのお経が効くとかそういったことを期待していたのに、こんな怪異相手に「脅せ」とは。


『包丁持ってこい。で、心の底からぶっ殺すって気合いを入れながら「うるせえ!」とか「殺すぞ!」とか脅せ』

「ちょ、ちょっと……化け物っぽい物相手に『殺すぞ』はないでしょ……」

「いや、今はそれしかねえべな。よし、やんか」


 兄の提案に陽菜はがっくりとしていたが、祖母は台所から包丁を持ってきてまっすぐに刃先を戸に向けた。


「ガタガタうっせえわ! ぶっ殺すぞこんにゃろう! 山さけえれ!」


 そして包丁を振り上げ、ドアに触れないすれすれのところに振り下ろす。

 陽菜は息を詰めて祖母の行動を見ていたが、祖母の聞いたことのないような恐ろしい声が響いた後には、繰り返される声も戸を叩く音も止んでいた。


「音、しなくなったぁ……」


 陽菜はへなへなと座り込みながら、兄に向かってとりあえず怪異が終息したことを告げる。電話の向こうの兄もほっとしたようにため息をついていた。


『念のため、その包丁は刃を外側に向けて玄関に置いといた方がいいと思う。で、多分村の中でこれが初めてって事はないだろうから、神社や寺の人がいたら聞いてみた方がいいぞ』

「わかった……ありがとう」

『俺も何か他に対処法がないか調べておく。……ああ、お姫様役はどうだ? 楽しいか?』


 ついでのように尋ねてきた紘に、陽菜は泣きつきたくなった。けれど、今心配を掛けたばかりなのだ、他のことまで話して兄を心配させたくはない。


「大変だよ。花嫁衣装は綺麗だけどね、毎朝禊ぎで水風呂」

『面白そうだなあ、俺も一緒に行きたかったよ』

「お気楽だなあ、もう! とりあえずありがと! また何かあったら連絡する!」


 無理矢理通話を終わらせると、どっと汗が噴き出してきた。祖母は玄関の戸締まりを再度確かめており、家中の窓の鍵を閉めに向かったようだ。

 陽菜も慌ててそれに加わり、家中がきっちりと施錠されているのを確認してやっと一息確認することができた。


 そこへ、兄からメッセージが届いた。スマホをタップしてみると、「今思い出したんだけど」という書き出しで大事なことが書かれている。


「勝手に押し入ってくる化け物もいるにはいるけど、大体は家の人間に招かれないと家には入れないんだ。だから、基本的には無視を通して対応するな。ひとつのことしか繰り返し言えない化け物の話は割と多い」


 招かれないと家には入れないという一文には陽菜も僅かに安心した。


「ねえおばあちゃん、この辺に伝わってる山の怪の話ってどんなの?」

「そうだなあ……山の中で死んだモンが化けて出てくるって言われてる。仲間を探して、声を掛けんだと。山の怪はひとつのことしか言えねえから、山の中で人に話し掛けるときは『もしもし』とか繰り返す言葉を使えって伝わってるわ」

「もしさ……あれに捕まっちゃったらどうなるの?」

「連れてかれて山の怪の仲間になんだろうな……いや、陽菜、勘違いしちゃなんねえぞ、あんなのはばあちゃんも初めてのことで、話は伝わってたが実際に見たなんて話は聞いたことねえ」

「あ……そうだよね。そっか、おばあちゃんもこんなことは初めてか」


 戸の外にいる怪異に向かって包丁を振り上げた祖母の声は、思えば微かに震えていなかっただろうか。

 とりあえず、明日禊ぎに行ったら恵美と瑞樹にこのことは相談してみようと陽菜は心に決めた。


「陽菜、今日は布団くっつけて寝んべ」

「うん、そうするよー。あ、その前にもう一回お風呂入ってくる。変な汗掻いちゃった」


 祖母の言葉は、やはり彼女自身も恐ろしかったのだと陽菜に伝えてくる。不可解なことが多いとはいえ、こんなことが日常茶飯事な訳ではないと知って、陽菜は軽く安堵していた。

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