祖母が持ってきたのは、真っ赤な口紅だった。
普段の陽菜なら絶対にセレクトしない色。けれど、祖母の指で唇に塗られた赤は、ハッとするほど陽菜を美しく見せた。
目は大きいけれど歳上に見られがちな顔が、艶やかな紅で更に大人びている。
鏡の前に立っていたのは、16歳の高校生ではなく、嫁入りを控えたひとりの女性だった。
「……びっくりするほど綺麗だなあ」
「本当に。じいさんにも見せてやりたかったわ」
祖父は陽菜が幼い頃に亡くなっている。うっすらとしか記憶はないが、随分と可愛がってもらっていたから、確かに祖父がこの姿を見れば喜んだだろう。
「おばあちゃん、お仏壇のところに行って見せてくる」
「そうだね、そうしてあげな」
打掛を引きずりながら、陽菜は仏間へと進んだ。祖父、曾祖父、曾祖母――数々の遺影が飾られた部屋は、昔は恐ろしく感じたが今はそうは思わない。
祖母の日課なのだろう、先祖代々の位牌と祖父の位牌が並べて置かれた仏壇には、花と水が供えられていた。
備え付けられていたマッチで蝋燭に火を灯し、蝋燭の火で線香に火を付ける。線香から火が上がってしまったので手で仰いで消し、陽菜はそれを線香立てに立てた。
懐かしい香りが漂って、急にしんみりとした気持ちになる。
「おじいちゃん、見て、花嫁衣装着たよ。凄く綺麗だっておばあちゃんも村長さんも褒めてくれたの。……お祭りが無事に終わるまで見守っててね」
風もないのに、線香の煙が揺らいだ気がした。
元の部屋へ戻ると、テーブルの上に一枚の紙が置かれていた。
「重いでしょ、打掛脱ぎなさい」
「うん、本番は気合いで着るけど、確かに重いね」
祖母が打掛を脱がせてくれたので、掛下だけになってほっと一息吐く。
ついでにテーブルの上の髪を覗き込んでみると、村長がそれを陽菜の方に向けた。
「友姫は龍神様の花嫁だから、清らかじゃないといけなくてねえ。祭までに決まり事があるんだよ。面倒だろうけどこれ、頑張ってな」
・毎日泉で禊ぎをしなければならない。
・肉魚卵など、命を奪うものを食べてはならない。
・日が落ちたら家の外を歩いてはならない。
・祭が終わるまで村から出てはならない。
書かれている項目に、陽菜はぎょっとした。
肉食禁止とか聞いていない。野菜だけで半月と考えるとめげそうだった。
「禊ぎって……」
「うちの側に神社があるんだけども、そこに湧き水があるからそこでするんだよ。この村は龍神様のおかげで湧き水が多いから、写真でも撮って回ったら暇つぶしになるかもなあ」
「いや、そうじゃなくて、禊ぎって何をするんですか?」
陽菜の質問に、村長は「ああ」と笑って頭を掻く。
「白い着物に着替えて泉に入って、肩まで浸かるんだ。それだけだよ。ただ、雨の日もやらないといけないんだけどね」
「ええー、雨の日も?」
「それと、村の全部の家を回ってお祭りに使うお札を集める仕事があるんだ。禊ぎもお札集めも明日から頼むよ。――なに、終わったら結婚式も真っ青のご馳走出してやっから」
「うう……頑張ります」
「禊ぎは午前中にな。うちに来てくれれば着物とかは用意してあるから、明日はばあちゃんと一緒においで」
「わかりました」
それじゃあ用は済んだから、と村長は立ち上がって帰って行った。祖母はそれを見送らず、勝手に上がって勝手に帰るようなスタイルがいかにも田舎だなあと、玄関まで見送りに行った陽菜は祖母の態度について考えていた。
「……じいさんにも、見せてやりたかったわ。あの狸、顔色ひとつ変えやしねえ」
打掛の飾られた部屋に陽菜が戻ろうとしたとき、打掛の前で祖母が小さな声で呟いていた。
陽菜が近くにいることには気づいていないらしい。
村長に対してニコニコとしていた祖母だが、胸の中には含むところがあるのかもしれないと、陽菜はぼんやりと思った。