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7-⑧

「言葉は出てきたんだけどまだ2語文だけなの。もう文章を喋れ初めてもいいのに……遅い、わよね?」

「まだ2歳になったばかりですし、言葉は個人差がありますからまだ心配しなくても大丈夫ですよ。ウチの子も昨日文章を喋り始めたばかりですし、興味の対象によっても変わるんだと思います。ちなみに、ウチは異様に人形好きになった影響がありますね」

「流石、愛菜ちゃんは成長が早いなぁ。でも、言われてみたら確かにまだ琴には好きなものがないかも。葉月のプリンセスグッズに興味を全然示さないのよね。……もしかして、男の子の玩具に興味があるのかしら?」

「車とかどうですか? 女の子でも遊びやすいのもありますし、あ、それかレゴとかどうでしょう。作るのが好きとかはないですか?」

「あ! そういえばつけたり外したりするの好きなのよ! コンセントは危ないから本当目が離せなくて……でも、もしかしたらそういうのが好きだったりするのかしら? 何か、オススメの玩具とかある?」

「でしたら、まだ綺麗で捨てるのが勿体ないなって置いていた信二のブロックのお古を……」


 子どものことについて話しながら、私は、折角思考を辞めたのに、また昨晩の出来事を思い出してしまっていました。無意識な走馬灯、とでもいうのでしょうか。震えて泣いてしまわないように、私は、キスでなんとか止まって終えた危険な夜を反芻してしまう自分を押し隠すように、笑顔を広げました。後頭部を抑えられ5分程口内を犯される時間は、夫婦なのだからと何度も頭で言い訳しながらも心臓の嫌な震えが止まりませんでした。それを気づかれないように甘えて身体を寄せる演技をし、すぐに『まだ、少し厳しいかも』と少し震える手で胸板を押し返したことは流石に楓さんには言えません。


 幸せに近づいていることだけを告げて。

 それが全て楓さんのおかげだと思ってもらえるように。

 でも、会話はそれだけにならないように。


 だから私は、子どもについてへと話題を変え、雑談に花を咲かせました。

 あまり忙しくない時間であったこともあり、30分ほどは子どもの話で盛り上がり、とても楽しい時間となっていました。お互い下の子が2歳になり、上の子は3年生で、子どもにも変化が大きくあり子育ての話は永遠に話していられます。時間を忘れてしまう、というのはまさにこの時のことを言うに違いありません。

 気付けば段々と忙しい時間帯となり、一つの会話をする暇もないほどお互いが忙しなく動くだけとなっていきました。それもそれで充実していて、生きている、働いている、と実感できる意味のある時間で、私は忙しい時間も嫌いではありませんでした。

 退勤時間まであと30分ほど、というところで漸く一段落したところで――「ねぇ、美愛ちゃん」と楓さんがレジの後ろに私をひっそりと呼びました。お客さんは数組だけなので確かに後は会計で終わるのですが、それだけじゃない何か理由がありそうな様子に、テーブルに汚れがないかの最終確認をしていた私は一旦それを中断し、呼ばれるままに楓さんの隣に移動しました。


「あれ……ずっと、いるよね」


 お客様のことを「あれ」などと滅多に言わない楓さんの言葉に驚きながらも指が示す方向を見ました。

 それは、一組の男女でした。

 そういえば、1時間以上前からおられるな、と私が思っていると女性側がこちらを見ました。楓さんは咄嗟にレジに視線を落として上手く逸らしましたが、私は不意を突かれてしまい咄嗟に逸らせず、バッチリ目が合ってしまいました。しまった、と背中に冷汗を伝わせる私にお客様の彼女は微笑むと、こっちにくるようハンドサインを出しました。もしかしたら追加注文かもしれない、と思った私は伝票を手に持ち、楓さんに「いってきます」と小声で告げてテーブルに近づきました。


「あら、ごめんなさい。注文じゃなかったの。ただ、今なら店員さんに時間がありそうだから話を聞いてほしくて」


 伝票を持ってきた私の手元を見て申し訳なさそうに女性はおっしゃられました。

 眉尻を下げ、口角を上げながら首を傾ける仕草は可愛らしいですが、お顔を拝見すると、化粧で肌をきれいに見せていますが、おでこにうっすらと残る皺や唇に塗られた濃い紅の艶の具合から楓さんより一回りお年を召した方と察せれました。遠目から見ると細身なので年が近いかと思いましたが、近くで見ると一目瞭然というほどよくわかるお顔でした。ならば猶更、私は不思議に思いました。


 楓さんは、年上の方を出来る限り尊重する方です。


 見た目で“きつい人”というイメージをどうしても持たれてしまうから、どんな人にも丁寧に接すると言っていた楓さん。中でも年上の方には口調を気を付けていると言っていたのに、先ほど楓さんはこの方を『あれ』と呼んだのです。


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