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7-②

 慌てる楓さんに私は首を横に振り、カバンから取り出したハンドタオルで涙を拭って口元にぐっと押し当てて深呼吸をし、なんとか涙を落ち着かせた後「大丈夫です」と涙に濡れた声を発しました。


「と、とにかく、男性に対する拒否反応を緩和したいんだよね。そういえば、旦那さんに対しては……どうなの?」

「……そう、ですね。あまり……触れ合えていません」


 楓さんの質問に答えながら、私は最近の旦那との会話を思い出しました。

 私が職場を辞めさせられて以降、私と旦那の関係は急激に冷えました。というよりも、旦那が目の前に立った瞬間、私が吐き気を催し蹲ってしまうからです。最初は演技でやりましたが、最近は横を通られるだけで身体がびくついてしまい、旦那が「なんなんだよ!」と声を荒げるほど、私は恐怖の表情を浮かべているのだそうです。一度、あまりにもお預けを食らって苦しいからと旦那が私の寝込みを襲ってきましたが、ひたすらに痛くて泣きじゃくる私に苦痛を感じて中途半端で止めるということもありました。


 そもそも、行為って、気持ちいいものだったのでしょうか。


 若い頃に旦那と愛し合っていた時は神聖な触れ合いに感じていた筈のものも、今の私にとっては嫌悪でしかありません。私の身体は本当に可笑しくなってしまったのかもしれないと、私は内心自嘲しました。


「離婚……しちゃうの?」


 悲し気なトーンで言われ、私はハッと顔を上げました。


「それは、しないつもりです。……だって、家族が大好きですから」


 これは私の本心でした。むしろ、そのためにたくさん行動しているのです。

 その気持ちは伝わったのか、楓さんがホッと胸を撫でおろしていました。

 私は、楓さんを悲しませたくありませんでした。だから、旦那とのメッセージのやりとりを見せるためにスマホを渡しました。


「直接の言葉を交わせませんが、顔を見なければ話せるんです。だから、買い物とか、予定の話はこうやって話していて……こっちなら日常以上に話せるので」

「なるほど……わぁ、すごい。結構こまめにやりとりしてるのね」

「はい。こんなことになった私でも、旦那は、ちゃんと私を愛してくれているみたいです」


 少し自虐気味な言葉になりましたが、楓さんは気にならなかったようで「素敵ね」と微笑みました。


「あ、じゃあ、大智ともやりとりは出来るかな?」

「あ、そうですね。それなら」


 本当は嫌だけど。

 その言葉はぐっと喉奥に閉じ込めて、私は微笑みを返しました。すると早速楓さんは大智君に連絡したようです。


「あ、既読つい――」

 ポコン


 楓さんの言葉と同じタイミングで、私のスマホにメッセージの通知が鳴りました。でも、スマホは私の手元ではなく、楓さんの手元にあります。私のスマホに目をやり、大きく見開く楓さんを見ながら私は嫌な予感が過っていました。心臓が、物凄く嫌な音を立てて気持ち悪かったです。


「……ウチの旦那は……行動が、早いのね」


 上手く笑えていない表情で、楓さんは、画面が光っているままの私のスマホをスライドさせました。

 見るのが凄く嫌だ、と思いましたが、差し出されれば仕方がありません。こちらにスライドされたスマホに私は手を置きました。するとまた、ポコン、と通知の音が鳴りました。私の指の隙間から、大智君、という名前が見えました。それは、楓さんにもしっかり見えていました。


「……かなり、マメだったんだ。大智。……本当に、よき、友人同士だったのね」


 苦しそうな楓さんの言葉を聞きながら、私はスマホから顔を上げることが出来ませんでした。でも、このまま固まっていたら余計に不審です。だから私は、スマホを机の真ん中に移動させ、そのままメッセージを開きました。


『楓から聞いた。これだと話せるって』

『旦那とも面と向かって話せないよな?……離婚、するのか?』


 大智君からのメッセージを見て、私は、楓さんを見ました。楓さんは、じっくりとメッセージを読んでいました。


「……また、昔のように話せたら、いいんですけどね……。できる、かな。楓さん……見守って、くれますか?」

「え?」


 驚いたように顔を上げた楓さんの表情には、「いいの?」と言わんばかりの言葉が書かれていました。私は微笑みながら頷き、自分の手を楓さんの目の前に持ち上げました。


「一人だと、もしかしたら、一言も返信できないかもしれないので」

「あ……」


 小刻みに震える私の手指を見て楓さんは青ざめた後に、どこかホッとしたような表情を浮かべました。その様子に、私は安堵の表情を表に出さないよう歯を食いしばって苦し気な表情を作り、震える手指で文字を打ちました。


『ありがとう。離婚はしないよ。家族が大好きだし、また、皆で一緒に遊びに行きたいから』


 すぐに既読がつき、返事がきました。


『無理はするなよ』

「ハハ、大智らしいや」


 楓さんが大智君の返信に笑みを浮かべました。

 その様子を見て、私はこのヒヤヒヤとした瞬間を切り抜けられた、と思いましたが……それは束の間でした。

 すぐに、大智君は決して今送るべきではない言葉を送ってきたのです。


『あの時のことが原因かと思って心配したけど、よかった』

「あの時?」


 楓さんが疑問として口にするのは当然と言えるでしょう。

 私は、怒りと焦りで掌にじとりと汗がにじむのを感じました。

 でも、それを表に出すわけにはいきません。


 私は、悪女の仮面をかぶりました。


「初めての……BBQのことかもしれませんね」

「え……何かあったっけ?」

「私は気が付けなかったのですが……後から旦那に、目の前ではやめてくれ、て言われたことがあって」

「え?」


 楓さんは本当にわからない、といった表情をしていました。それも仕方ありません。私だって、何も心当たりがないのですから。けれど仮面をかぶった私は思い込みが得意なのです。私は、気まずそうに視線を逸らしながら本当の中に少しの嘘を混ぜた物語を脳内で作りながら話し始めました。


「あの時は、久しぶりに会えた嬉しさと、懐かしさがあって、家族みんなで一緒にいることを一瞬だけ忘れた瞬間があったんです。とはいえ、隣同士で喋って、笑って、昔話に花を咲かせた時なのですけれど……その時に、私、昔のように肩を叩いたりしちゃって……あの時、楓さんも、あまりいい顔をしていなかったですよね。本当に……すみません」

「あ……確かにそんなことあったね。いや、それは謝る事じゃないよ。確かに、その、目の前でわからない話されるのは嫌だったけど、うん。そんな長くなかったし。私が気にならなかったくらいだから……でも、旦那さんが気にしてたんなら、そっか、男同士でわかる何かが、その時あったのかもね」


 楓さんはの点で思い当たる節があったのでしょう。その時を思い出したように寂しそうな影を一瞬過らせましたが、すぐに私を安心させるような笑みを浮かべました。


「でも、それだけで、あの時、ってなるのかな」


 楓さんの笑みが、真顔になりました。

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