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5-②


 ***



 一番給料が良くて、近所で、時間の都合がつき、子持ち大歓迎という、私にとって都合のいい条件がそろっていたのは歯科助手でした。出来るだけ男性の少ない職場を選んだ為そうなりましたが、そこの歯科医さんが思ったより見目麗しい人だった為予想以上の女の世界で困りましたが、子持ちで旦那もしっかりいるという後ろ盾と笑顔の仮面を貼り付ければなんとかなりました。

 子育てを忙しなくしながら、仕事を何でも引き受けてくれる優しくて温かい女性。笑顔で「全然いいですよ」という言葉が口癖かのように繰り返し、どんな仕事も嫌な顔せず引き受ける。といっても、大体の仕事は治療器具の掃除や整理、膨大なカルテの整頓が殆どで、きちんと丁寧にこなせば苦には感じない仕事です。でも勿論、中には嫌な顔をしたくなるような仕事もありました。それが主に、受付で面倒くさいことを言ってくるお客様の相手です。歯科医院というのは予約が多く、中々空きがありません。忙しい時期では1ヶ月先まで埋まっていることもあります。でも、歯が痛くて仕方なくて早く治してほしいお客様にとっては「知ったこっちゃない」となってしまうのですよね。

 どうしてそういった人たちは殆どがおじさんなのでしょうか。おかげさまで、私は入社して1ヶ月で罵詈雑言を3度も浴びることとなりました。

 でも、私は笑顔を崩しませんでした。

 手指が震えても、呼吸が苦しくなっても。

 笑顔の仮面というのは本当に便利です。


 どれだけ憤っている人でも、笑顔を浮かべていると段々と勢いが沈み、やがて落ち着いて帰っていかれる。根はいい人が多かったのでしょう。時には、「怒鳴ってすまんかった」と謝る人もおられました。そういった人たちを相手にしても泣きごとや文句も言わず真摯に対応を続ける私に、周りの方たちが私を無碍に扱うということはありませんでした。むしろ、貴重な存在として丁重に扱い、辞めてしまう、ということがないように大事に関わってくださっていたようにも思えます。その分、任される仕事も勿論増え、私は段々と忙しい日々を過ごしていくようになりました。


 それと同時に、常に綺麗に保たれていた家は段々と掃除が行き届かなくなっていきました。


 脱ぎっぱなしの服、洗濯が終わったばかりの服の山、放置された学校のカバン、私の仕事カバン、保育園の荷物、油汚れが放置されることが増えていくキッチン、洗い物が溜まりっぱなしのシンク、食器が置かれてることが多いテーブル。私自身が汚い虫が嫌いでしたのでゴミだけは放置しないよう、ゴミはきちんと捨て、埃が溜まりすぎないよう掃除機も出来るだけ週2のペースで行っていました。水回りは週1程度でしたが、比較的綺麗さを保っていたように思います。けれど、仕事をし始める前とし始めてからでは雲泥の差と言えるぐらい、私の家はことでしょう。


 息子が小学二年生になり、娘が1歳半になった頃。


 米田君の一家とは家族でのお出かけが月1ばかりになっていました。たまに男同士、もしくは女同士の飲みというのがありましたが、米田君と2人での飲みはあれ以来なくなっていました。突然パタリとなくなると怪しまれますが、仕事を始めたタイミングが重なっていたことと、「家族の時間を優先したい」と私がぽつりと零すことが増えていたので、旧知の仲の2人の飲みが自然消滅するのは年齢的にも家庭持ちとしても”自然”として受け止めてもらえました。


 そして、私の家庭では、前まで綺麗であった家が、着替えやものが落ちてばかりなのが当たり前となっていました。

 ゴミは落ちていないし、空気も清潔で、匂いも悪くはない室内だったのですが、以前の物一つ落ちていない綺麗な状態を知っている旦那にとっては、どうも腑に落ちない点があったのでしょう。だからこそ、仕事を初めて半年経ったこの頃に、言われました。


「仕事なんてやめてしまえ」


 どうして、と尋ねる前に「お金は俺の稼ぎで充分だから家庭をしっかり守ってほしい」と畳み掛けられました。そこに、私の意見の有無を伺うような様子は一切ありませんでした。


 私の旦那は、出来た人です。


 家族目線の贔屓でもなく、私の旦那は芯があって高収入で家族思いのとてもいい理想の男性といえるハイスペックな人です。

 ただ、自分の考えを一切曲げない頑固な人でもありました。

 だから、私の旦那は少々強引な所があります。少しでも反論しようものなら、5倍ぐらいに増幅した言葉の剣で返されます。物言いがいつもストレートなのでそれは本当の刃のごとく人を傷つけるらしく、時々『俺は人の心をわかってない、て時々上司に言われる』と愚痴をこぼすほどなので、中々のものなのでしょう。それは、いつもは私たち家族を守る盾ですが、時には今の様に私に対して向けられることがあります。滅多に向けられることはないので、突然向けられた私は、とても、吃驚していました。まるで、別人のような物言いと空気でしたので。


 確かに、私の家庭はお金に困っていません。

 でも、私は辞めれないのです。

 米田君一家との繋がりが未だ続いているからこそ……いえ、これからも円満な仲良し家族として続けていきたいからこそ、私は辞めてはいけないのです。


「お金とかじゃなくて、働くのが楽しいの。だから、私は働き続けたい」

「それで家のことが疎かになったら意味ないじゃないか。まだ小さい愛菜がいるんだ。子どものためにも家を綺麗に保つことに専念するのが母親として、主婦としての務めなんじゃないか?」

「そうね。働くとどうしても心身が疲れちゃうし家のことには手が回らなくなってしまうわ。でも、だからといってゴミ屋敷のようにはしていないでしょう?」

「カバンとか服とかで足の踏み場がないことはゴミ屋敷と変わらないと俺は思っている。気づいた時に片付けてもすぐにまた落ちていたら流石に俺も腹が立つ。なんで稼いでいる俺の方が片付けてばかりなんだ、いい加減嫌になってくるのは当たり前だ。働き続けたいならそういったことがないようにしろ。じゃなきゃ働くのを辞める方がいい」


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