* *
立ちこめる濃い霧のせいで、1メートル離れれば姿が霞む。2メートルも離れればもう何も見えない。
それは相変わらずいまも同じで、
「ギル……?」
なのにラファエルは、その姿がまだほとんど見えないうちからそう呟いていた。
まもなくばさりと羽音を立てて地上に降り立ったのは、黒銀の髪に同色の瞳、褐色の肌にリング状のピアスをした、どこか軽薄そうな男――ギルベルト。
ギルベルトは地面に足が着くと同時に羽を消し、お互いがしっかり目視できる距離まで足を進めた。
「どうしてあなたがここに」
「んなの、俺さまはもちろんこの匂いに……」
(こ、この人……!)
その相貌をはっきりと認識した瞬間、ジークは息を呑んだ。
彼にもまた覚えがあったからだ。というか、むしろこの男の方がラファエルよりもしっかりと記憶に残っていた。
「匂いって、何のことですか?」
「は? わかんねぇの?」
そう、若干ばかにしたように言った彼は、あの日、
けれども、あまりに普通にラファエルと話しているからだろうか。ジークの心境は思いのほか落ち着いていて、言うほどの嫌悪感も恐怖心も感じられない。
それどころか、
(この二人……元々知り合いだったのか)
そう言えば前回もそんなふうに見えたような気がしないでもない……。
そんなのんきなことを考えながら、ジークは傍らに転がっていた小瓶に手を伸ばす。
今朝飲んだ薬の効果にはむらがあるのだろうか。それとも
どちらにせよ、先刻幾分落ち着いた波は、今のところ凪いでいる。鼓動は依然として早く、身体の奥底の違和感は消えないものの、思考能力は確実に戻ってきていた。
ジークは無意識にほっと息をつく。
このまま熱が冷めてくれれば――この程度で済むのなら、今後同様の事態になったとしてもきっと自分は堪えられる。辺りに誰もいなければ、衝動が収まるのを待てばいいだけだ。
さっきは目の前に
――大丈夫。
自分にそう何度も言い聞かせるように心の中で唱えていると、
「嘘だろ、こんな匂ってんのに」
ギルベルトが不意にジークを指差した。
とくんと僅かに心臓が跳ねる。でもまだ大丈夫。ジークは自分に暗示をかけるように呟き、二人のやりとりに耳を傾ける。
「……別に僕には何も匂いませんが」
「お前どんだけ鈍いんだよ」
「……」
気のせいだろうか。一瞬閉口したラファエルの方から、カチーンという音が聞こえた気がした。
ジークは確かめるように双方の顔を交互に見遣った。けれども、相変わらずギルベルトはしたり顔だし、ラファエルの方は穏やかな笑顔のままだった。
(……? 気のせい?)
小さく首を傾げたジークの前で、ギルベルトは横柄に腕を組み、揶揄うように口を開く。
「……で、
「僕はあなたのところに行こうとしてたんですよ。途中でカヤのところに寄って……」
「カヤのとこ? んなの空
訝しむような眼差しを向けられ、ラファエルは僅かに視線を逸らした。
「……今日は、翼の調子がちょっと」
「翼?」
珍しく歯切れの悪い返答に、ギルベルトはぱちりと瞬き、今は何もないその
数拍後、ラファエルは仕方ないように吐息して、どこか他人事のように言った。
「……先日雷が掠めたからかな」
「は――! ダッセー!!」
ギルベルトはここぞとばかりに笑い声を響かせた。
ジークはそんなギルベルトの反応にぎょっとして、思わずラファエルの顔を見た。
カッチーン!
今度こそ聞こえた。聞こえたというか、その空気からそれが伝わってきた。
ラファエルは顔で微笑みながら、胸中では明らかに苛ついている。ギルベルトは気付かないのだろうか。普段察しがいいとは言えないジークにさえわかるのに。
「あなたの好きなお菓子を買っていって差し上げようと思っていたんですけど……」
「あ、それはよろしくー」
一頻りぎゃははと笑ったギルベルトは、片手間のようにそう言いながら、改めてジークへと向き直った。