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ひと月後04



 *  *  *


 アンリの予報通り、昼食を食べた後も霧は晴れていなかった。


 気温は少し低めだが、寒いというほどではない。

 ジークは愛用の黒いマントを羽織り、フードは背中に落としたまま、リュシーの後に続いて更に深い森の奥へと入っていった。


「はぐれないでくださいね」


 リュシーは蓋付きのバスケットを片手に、背後を気にしながらゆっくり歩く。

 朝よりもむしろ濃くなったようにも感じる霧の中では、1メートル離れるだけでその姿は随分霞んでしまう。2メートルも離れれば、もうそこにいることすらわからなくなるくらいだ。


「はい。気をつけます」


 ジークが頷くと、チリンと澄んだ音がした。

 ジークの首には、ガラスのような材質で作られた鈴が付けられていた。細い革紐に通されたそれは、リュシーが用意したものだった。

 今日のように霧の濃いこの森の中は声も音も大きいほど乱反射する。だから音は控えめだ。それでもリュシーなら捕らえられる範囲は広い。


 ジークが迷子にならないようにと――と同時に、何よりそうなった場合、リュシー自分が後でどんな目に遭うかわからないため、それを回避したいがための予防線でもあった。


「探すのは花です」

「花?」

「はい。霧の中でしか咲かない花があるんです。光沢を帯びた白い花びらの……集めるのは、その花の蜜です」


「花の蜜……」


 リュシーは足元を見ながら歩いていた。

 それに倣って、ジークも近場の地面を一望する。


「花が小さい上に霧の中なので、なかなか見つけにくいとは思いますけど――」

「これですか?」


 するとリュシーの言葉も半ばに、ジークは足を止め、近くに佇む木の根元へとしゃがみ込んだ。

 数歩遅れて立ち止まったリュシーは、溜息混じりにジークの視線の先を見る。


「いや、そんな簡単に――」

「そ、そうですよね」


 すみません、と頭を掻きながら振り返ったジークの傍で、リュシーは思わず目を瞠った。


「……合ってます」

「え?」

「その花です」


 ジークが見つけたそれは、〝霧霞きりかすみの花〟――たった今、リュシーが「見つけにくい」と言ったそれに違いなかった。


「……じゃあ、これを」


 リュシーは内心驚きながらも、バスケットから取り出した小瓶ーー手のひらサイズのーーを差し出した。


「花を傷つけないように、ゆっくり傾けて採取してください」


 花の大きさは1センチほど。花が咲いていない状態は他の雑草に紛れて見分けがつかない。おまけに、地面から引き抜けば早々に枯れてしまうので、鉢植えにすることや栽培することもできない貴重なものなのだ。


「やってみます」


 ジークは言われた通り、慎重に指先で花に触れた。

 蓋を開けた瓶の口へと傾ければ、水のようにさらりとした雫が一滴、伝い落ちてきた。花の大きさの割りに、蜜の量は多いらしい。

 とは言え、一つの花につき、そのひと雫のみである。


「それを繰り返して、その瓶をできるだけ一杯にしてください」

「えっ……」

「最低でも、半分ほどは」

「半分……」


 言われて、ジークは改めて周囲を見渡してみたが、そこにあったのはその花一輪だけだった。


「運が良ければ、群生しているのに出会えますから」


 リュシーがにこりと笑みを浮かべる。

 ジークは持っていた瓶を軽くかざした。どう見ても内側にうっすらと濡れた線ができただけだった。「考えるな」、と思考をリセットするように、首元でチリンと鈴の音がした。



 *  *  *


 もし――万が一はぐれたと思った場合は、動かずじっとしていて下さい。

 今日は日が落ちるまで霧は晴れないので、絶対にそれを守って下さい。


 そうしていれば、必ず俺が見つけ出しますので。


「……すみません、リュシーさん」


 ジークはリュシーに言われたことを思い返しながら、近くにあった大木の根元で足を抱えていた。


 一つ目の花からしばらく収穫がなかったものの、リュシーと共に小さいながらも群生地を見つけたあとは、何となくその香りが分かるようになった。

 それがいまだ不安定なジークの魔法使いの血のせいなのか、あるいは変えたばかりの薬のせいなのかはわからないが、ともかくその後はそれまでの数倍ははかどったのだ。


 だがそれがあだとなった。

 気が急くままに先へ先へと足を進めてしまったジークは、気がついた時にはリュシーの姿を見失っていた。


 しゅんと視線を手元に落とせば、握っていた小瓶が目に入る。中にはなみなみと蜜が入っている。

 言われた仕事はちゃんとこなせた。そのせいではぐれてしまったわけだから、どっちがいいのかは分からないけれど……。



 *  *  *


「……あのばか」


 リュシーは吐き捨てるように呟いた。


 リュシーの持つ瓶を一杯にするには、あと一つ大きめの群生地を見つければというところだった。

 だからというのも大きかったのだろう。


「……まぁ、少しなら平気か」


 いつのまにか随分離れてしまったようだが、耳を澄ませばまだ鈴の音を捕らえることができる。それが聞こえているうちは完全にはぐれてしまったとは言えないだろうと、そう判断したリュシーは、もう少しだけそのまま作業を続行することにした。


「さすがに動き回ることはねぇだろうし……」


 一月ひとつきほどの付き合いではあるけれど、分かりやすいジークの性格は大体把握している。

 それなら後は自分が気をつければいい。音が途切れてしまわないように、それだけを意識していれば何とかなるだろう。


 時刻は昼下がり――日が沈むまでにはまだ時間がある。

 霧は濃いが、明度はある。


 リュシーは小さく頷いて、再び霧霞の花を探し始めた。

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