本には〝きわめてまれな症例〟とあるが、アンリも知識としては知っていたようだ。……いや、この口ぶりからして、現にそういった相手に会ったことがあるのかもしれない。
「でもそんなことばっかしてたら……」
「ああ、どのみち命もどうなるかわからんな」
襲えば殺される可能性もあるし、襲われれば死ぬまで囲われてしまうこともある。それはそのレアなケースに限ったことではないが――。
アンリの示唆するところに、カヤは読んでいた場所を指先で押さえたまま、小さく息を呑んだ。
「だから淫魔の血は廃れたんだ。そこに書いてある以上に、発情状態の淫魔はやっかいだからな。平穏に過ごしたい者にとっては厄災以外の何物でもないだろう。……淘汰されても仕方ない」
「仕方ないって……」
「記録に残っているのはほんの一部だ。他にもいろいろな
「この記録……微妙ってこと?」
「淫魔の血を持たない者が書いたというだけのことだ。間違っているわけではない」
騙されやすかったり、思い込みの激しいところもあるカヤだ。過去には人に勧められるままに購入したいい加減な文献を、宝物のように読んでいたこともある。だが少なくとも目の前にあるこの書物は真っ当なものだった。
「どうせその血を引く者しか知らん記憶だ」
だからその内容自体に特に問題があるわけではない、とアンリは暗に告げた。
「あ……。それでここに、ある意味
カヤは一通り目についた部分を読み終えると、背もたれに思い切り身体を預けるようにして力を抜いた。
「俺もまだまだだなぁ。一度読んだ本は全部暗記したと思ってたのに」
「単に読んでなかったんだろう。もしくはお前の理解を超えていたか」
「……それかも」
賢者だの生き字引だの言われるだけあって、これでもカヤはアンリよりも上級の魔法使いだったりする。
ランクで言えばサシャはAでアンリはS(現段階のジークはC〜D)。カヤはというと、SSSランク。それ以上上はない。
一見の頼りなさそうな印象に反して、知識はもとより、魔法使いとしての能力は他に類を見ないほどに高いのだ。
――まぁ、そのわりに失敗することも少なくないのだが。
「それでどうするんだ? サシャの手紙には、〝うっかり淫魔の血まで目覚めさせてしまったみたいです。よろしくお願いします〟って書いてあったけど。だからってもう封印とかはできないんだろ?」
「…………そうだな」
「え?」
カヤは思わず瞬いた。
いま、妙な間があった気がする。
「でき……ないんだよな?」
「お前はどう思う。できると思うか? 生き字引」
「えっ……。あー……うーん。やったことはないけど……仮にできたとして……副作用が怖いかな。その種族だけに伝わる特別な
カヤが首を捻ると、アンリは「だろうな」とばかりに息をついた。それからカップに手を伸ばし、残り僅かとなっていたハーブティを飲み干していく。時間が経ってはいたが、カヤの魔法のせいか中身はまだ十分温かかった。
それを見ていたカヤも思い出したように自分のカップを口に寄せる。
「えっと……じゃあまぁ、当分はその子のケアをするってことになるのかな? ケアと……あと、訓練、とか?」
ひとまず血の封印はない。
そう解釈したカヤは、改めて頭の中を整理する。発情、
託されたジークという青年は、予定外に目覚めさせられた淫魔の血の影響により、発情を迎える前から(アンリの言うところの)フェロモンの放出が止まらなくなった。
その対応を、サシャはアンリに頼んだのだ。同じ血を持ち、魔法使いとしての腕も確かなアンリに。
(……で、合ってるよな?)
サシャの手紙にも、発情したとかは書かれていなかったから、その点はまだ大丈夫なのだろう。だからきっと、応急処置とは言え、サシャにもできることがあったのだ。
(サシャにできてアンリにできないわけないだろうし……)
だからいま、その青年は(一時的とはいえ)アンリの魔法で落ち着いている。……が、この先どうなるかは分からない。
……といったところだろう。
うん。とカヤは一人で頷くと、一息つくようにごくごくとハーブティを嚥下した。
「とりあえず……俺も祈ってるよ。その発情っていうのが、できれば当分来ないように」
それこそ、そのまれな症例にあたりませんように――なんて、それはさすがにありえないだろうけど。
得たばかりの知識を思い起こしながら、励ますように言うと、
「……発情か」
アンリはどこか考え込むように呟き、その一方で指先は目の前のスコーンを摘んでいた。
「あ、そうそう。まぁとりあえず、ほら、食べて食べて」
その姿に思わずカヤは破顔して、早速アンリのカップに新たなハーブティを注ぐ。
それから自身もスコーンをかじると、気が抜けたように本音を口にした。
「っていうか……アンリって本当に淫魔だったんだなぁ。今更だけど」
「本当に今更だな」