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抗えない夢と血

(そう言えば、昨夜は夢を見た気がする……)

 王宮を後にして、極力人目を避けながら城下町を抜け、辿り着いた深い森。そこに踏み入った瞬間、ジークは不自然なほど唐突にそのことを思い出した。

 夢の中で、ジークは黒髪の――濡れたように黒い長髪の女に背後から抱き締められていた。そうしながら、彼女はそっと囁いた。「ジーク……」と、誘うように、ひどくあでやかな声で。

 そしてジークはそれに答えたのだ。「はい」と――。

(ジーク、って……確かに言ったよな)

 記憶を辿るうち、耳に直接吐息を注ぎ込まれるような、生々しい感覚まで蘇ってくる。

 頭から黒い布を深くかぶり、草を踏みしめて先を急ぎながらも、ジークの頭の中は次第にそのことばかりに塗りつぶされて行った。

(……?)

 やがてジークは足を止めた。夢だと思っていた声が、ふと現実に聞こえたような気がしたからだ。

『ジーク……』

 頭に直接響くようなその声に、気がつくとジークは「はい」と答えていた。彼女はふふ、と色めかしく笑い、それからふっと気配を消した。

 いったいなんだったのだろう。白昼夢でも見てしまったのだろうか?

 少しだけ我に返り、ジークは僅かに首を捻る。その刹那のことだった。

「っ!」

 ジークの身に、明らかな異変が起きた。

 動悸が一気に激しくなり、たちまち肌に汗が浮かぶ。全身の血が滾るように身体が火照り、呼吸が乱れる。生理的な涙に瞳が滲み、強い目眩のようなものを感じて、危うく立っていられなくなる。いまにも足元から崩れ落ちそうになるのを、とっさに手近な木の幹に手を伸ばし、辛うじて堪えた。

「な、んだ、これっ……」

 呟きを掻き消すように、周辺の木々がひときわざわめく。

「……っ、は」

 何もしていないのに、腰の奥がどんどん重くなっていく。逆上せたみたいに頬が上気して、吐息が艶めかしく熱を帯びていくのを止められない。そんな身体が何を欲しているのかを理解したとき、ジークは愕然とした。嘘だろ、と信じ難く頭を振った。

 けれども、自分でどんなに否定しても、下腹部の布地の下では、即物的な反応が増すばかりだった。少しでも気を抜くと、無意識に手を伸ばしそうになる。その指先をきつく握り込み、ひたすらそんな自分を律しようとした。痛いくらいに張り詰めた下腹部から努めて意識を逸らし、木の幹によりかかるようにしながら、なんとか足を前に出す。

「ふ……、――ぁ…っ!」

 と、がくんと膝が抜けそうになり、その刺激に思わず甘い悲鳴が漏れた。そんな自分の反応に、頬がひときわ熱を持つ。

 これもサシャが言っていた〝別の血〟の影響なのだろうか。同僚に目付きや匂いを指摘された時はここまで自覚するような症状は出ていなかったが、それ以外に思い当たるふしがない。

 そもそも、ジークの中に眠っていた魔法使い以外の血とは、いったい何だと言うのか?

 詳細を聞こうにも、サシャはそれを良しとしなかった。今はまだ知らない方がいいとしか教えてくれなかったのだ。理解すれば理解するほど、血の効果が強く表れてしまうかもしれないからと。

 しかし、実際にはそれを理解するまでもなく、すでにジークの身体はまるで自分のものではないような状態に陥っている。もって一日、とのサシャの抑制魔法の効果は、いったいどこに行ってしまったのか――。

「……っは、ぁ……っ」

 瞳の際から涙がこぼれる。身体中が熱くてたまらない。

 ――もうこれ以上は我慢できない。

 気がつくと下着の中には濡れた感触が広がっていた。あふれ出した雫が布地にはしたない染みをつくっているのは見るまでもなく明らかだった。理性を手繰り寄せてはひどく惨めな気持ちになり、そのくせ意に反した高揚感に頭の中がぐちゃぐちゃになる。

(どう、すれば……)

 身体が望むままに触れてしまえば――例え事務的にでも処理してしまえばこの波は去ってくれるのだろうか。

 ジークは間近にあった太い木に背中を預けると、震える手を伸ばし、自身の腹部に触れた。けれども、ふと耳を掠めた鳥のさえずりに我に返り、結局それ以上下に手を下ろすことはできず、迷った末に選んだのは腰に下げた少ない手荷物の中から、一通の封書を取り出すことだった。

 サシャから受け取ったそれは、四つ葉のクローバーの刻印が施された封蝋で閉じられていた。ジークはそれを強く胸に押しつけた。それに何の効果があると聞かされていたわけでもなかったが、ジークにはもう他に縋るものがなかった。

(少し……楽になった、ような……?)

 ひたすら固く目を閉じ、手紙を抱き締めていると、そこからほのかなぬくもりが伝わってくる感じがした。依然として呼吸は忙しないものの、一つ大きな息を吐いたジークは、それを単なる錯覚かもしれないと思いながらも、心の中で幾分ほっとする。ほっとするとたちまち全身から力が抜けて、ずるずるとその場に座り込んでしまうのを止められなくなった。

 一度座ってしまうと、きっとすぐには立てないと、予感がするのにあらがえなかった。今するべきは、とにかくサシャの言う腕利きの魔法使いに会うことだと、頭では分かっているのに身体が言うことをきかない。

(このまま寝てしまえば、何か変わるだろうか……)

 次に下りてきたのは強い眠気だった。やがてジークは意識を手放した。その手の中から、封書がひらりと零れて落ちた。


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