「ジーク……」
名を呼ぶ声と共に、生暖かい呼気が耳にかかる。
ジークと呼ばれた青年は応えるように吐息を漏らし、数秒後、不意にぱちりと目を開けた。
「!」
一瞬、何が起こっているのか分からなかった。
明け方――いつものように騎士寮の一室で目を覚ましたジークは、自分が誰かに組み敷かれているのに気付いて絶句した。相手はルームメイトの男だった。
(な、え……⁈)
男はジークにのし掛かり、吸い寄せられるように首筋に顔を埋めてきた。そればかりか、次には唇を重ねられそうになり、ジークは咄嗟に顔を逸らす。そのまま思い切り相手を突き飛ばし、転がるようにしてベッドを下りた。
「どこ行くんだよ……」
「どこって、……!」
血走った目で、低い呟きと共に追いかけてくる男の手首を掴み上げ、すぐさま床へと押さえ込む。お互い体術は身に付いているはずだったが、腕はジークの方が上だった。
男は振り仰ぐようにしてジークの顔を見た。その眼差しは妙にぎらついていて、前日までのそれとは明らかに違って見えた。
「お前が誘ったんだろ……っ」
挙げ句、まるで身に覚えのない言いがかりをつけられ、ジークは更に混乱する。知らず相手を捕らえる手にも力が入り、
「いっ……!」
それによって男が悲鳴を上げたのをきっかけに、ようやくはっとして手を離した。
「お前のその匂いなんだよ……ジーク」
(匂い……?)
問い返したかったが、乾いた喉が張り付くようで声が出ない。
男は解放された腕を擦りながら起き上がると、ふたたびジークの方へと踏み出してきた。その手が頬へと伸ばされて、指先が肌の上をツ、となぞる。その感触にざわりと背筋が粟立ち、ジークは弾かれたように身を
(え、え……?)
余韻として残るのは何故か甘い痺れのような感覚で、
(何だ、これ……?)
ジークは思わず口許を手で覆った。遅れて頬が熱を帯びていることに気づき、ますます気が動転する。
「そんな目しといて……、なんで逃げるんだよ!」
次の瞬間、ジークは部屋を飛び出していた。すぐに背後から責めるような声が追ってきたが、それに構うような余裕はなかった。
+++
頭上に浮かぶ天窓から、白み始めたばかりの空が見える。
最近変わったことがあったかと言えば、王宮騎士団への入団が決まった際、潜在能力の鑑定と解放の儀式を受けたことくらいだ。
だけどそれは
「ああ、これは……何か余計な血まで起こしてしまったかな……」
「余計な血?」
ひとまず現寮長を務めるカイの元に駆け込んだジークは、すぐさまその足で医務室に行くよう指示された。
カイもそれに付き合ってはくれたが、やはりジークに対する態度は昨日までと違い、極力距離を取るよう部屋の隅に身を寄せて、あまつさえ鼻と口を手布できっちり押さえている始末だった。
(そんなに俺は匂うんだろうか……)
だとしたらショックだ。それならそれで、先に湯浴みでもしてくるべきだったかもしれない。ジークは気まずいような恥ずかしいような気分で、診察台の上に横になっていた。
「ええとですね」
そんなジークの傍らに立ち、額や身体へと手を翳していた男が、瞑目したまま改めて説明を始める。
「あなたの血には、魔法使いの血が入っていたので、その力だけ目覚めるきっかけを与えたつもりだったんですけど……」
「それは儀式の時に聞きました」
「はい。それがですね……その時にどうやら、ほんの少しだけ混ざっていた、別の血まで目覚めさせてしまったみたいで……」
「別の血」
言われている意味が理解できず、ジークはぱちりと瞬いた。
「うーん、しかもこの感じ……」
「先生?」
「サシャ?」
ややして顔を曇らせた男に、カイも横から口を出す。〝サシャ〟と〝先生〟は同じ男を指している。
「急いだ方がいいかもしれません」
サシャは静かに手を下ろし、ふう、と一つ吐息した後、
「すみません、僕の手には負えません」
ひどく申し訳なさそうに頭を下げた。
「ええ⁈」
「どういうことだ?」
口を押さえるのも忘れて、身を乗り出したカイに、サシャは小さく首を振る。
「お前の
「せ、先生も魔法使いなんですよね? しかも結構力のある方だって聞いて……」
カイにつられるように、ジークも身体を起こしてサシャを見る。しかしサシャは依然として首を横に振り、
「僕の力ではもって一日、それも本当にその場しのぎの処置しかできません。なので、これからすぐに、外に治療に行ってもらうことになります」
「外に?」
「はい。できれば用意ができ次第――すぐにでも出発させてください。そうすれば夜までにはたどり着けると思います」
と、一旦ジークに目を遣ってから、再びカイを見てそう告げた。
「〝翡翠の森〟と呼ばれるところに、腕利きの魔法使いがいます。彼なら何か良い方法を知っているのではないかと……少なくとも僕よりはこの手の症状に詳しいはずですから」
「翡翠の森……」
サシャの提案を聞き、何かを思い出すように呟いたカイは、口許を押さえながら僅かに眉をひそめた。
そんなカイの反応にいっそう不安になるジークだったが、その時はもう、とにかくサシャの言葉に従うよりほかなかった。