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赤い絨毯と花びら
星野☆明美
異世界恋愛ロマファン
2024年09月14日
公開日
30,623文字
完結
入江姉妹はデルムントの転移能力に巻き込まれて異世界へ飛んだ。そこはアラビアン・ナイトのような国だった。

赤い絨毯と花びら

   赤い絨毯と花びら

  (デルムントのパラレルワールド)

               星野☆明美




第1話☆入江姉妹



 入江絵礼と麻也は近所でも評判の美人姉妹だ。

姉の絵礼は十八歳高校三年生。眉目秀麗な生徒会書記。理知的な風貌だ。

妹の麻也は十六歳高校一年生。容姿端麗で、ミスN高と謳われて、男子生徒の秋波を一身に受けている。

 この入江姉妹が巻き込まれた(?)事件の顛末を書き記そうと思う。


「麻也、マヤーっ」

二階の勉強部屋から姉の呼び声が聞こえた。

麻也は一階リビングのソファでクッションを抱きしめてテレビを見ながらくつろいでいたが、ちらりと二階の方を一瞥して、すぐに何事もなかったかのようにテレビに目を向けた。

 とたとたとたとた。

勢い良くステップを踏んで姉の絵礼が階下に下りてきた。

絵礼は学校から帰宅してすぐだったので、有名進学校の紺のブレザー姿のままだった。


「なぁに、お姉ちゃん」

麻也はテレビから振り向きもせずに言った。

「麻也。私の宝石箱に入っていた青いペンダント、知らない?」

麻也はやっと振り向いた。そうして両目をぱちぱちやった。

長いまつげがきれいにひらめく。たいていの男の子はこれをやるといちころなのだが、同性の実の姉にはそんなにききめはないようだった。


「これのことかしら?」

麻也が自分の襟元からひょいとつまみあげたのは、確かに絵礼が探していたアクセサリーだった。

繊細な銀色のくさりの先に青い大きなスワロフスキー製のペンダントトップがきらきら輝いている。

「そう。それよ。また勝手に私のものを持ち出して…」

絵礼は眉をひそめてそっとため息をついた。

「ごめんなさい。前からどうしてもつけてみたかったの。今日はお姉ちゃんが帰ってきたらちゃんと貸してね、って言うつもりだったんだけど、お姉ちゃんの帰りが遅くて、つい待ちきれなかったのよ」

麻也は悪びれずににっこり笑って言った。


麻也はいつもこんな風に悪意がないので始末が悪い。

絵礼はその場にくったりとしゃがみこんだ。


「……。そうそう、そういえば」

麻也は絵礼の気持ちを知ってか知らずか、のほほんと言った。

麻也は白い両手をひらひら振ってみせて、服のポケットから何かの紙切れを二枚取り出した。

「今度来日する、なんとかいう名前のバイオリニストのコンサートのチケットが二枚あるんだけど、一緒に行かない?」

「えっ?」

絵礼は何か信じられないものを見たかのように両目を見開くと、途端に顔を輝かせた。

「もしかして、ホルスト・シュテンプケのチケット?本当に本物?」

麻也はうなずいてチケットを絵礼に見せた。


「麻也ねぇ、すっごく苦労してこのチケットを手に入れたのよ。お姉ちゃんが、この人好きって言ってたから。嬉しい?」

「嬉しいもなにも……」

絵礼は喜びすぎて言葉につまってしまった。


絵礼は、手にしたチケットを至近距離からまじまじとみつめる。


ホルスト・シュテンプケというのは、今世紀最大のバイオリニストの異名をとる、若き名手だ。つい最近、彗星のように現われて話題騒然となった。なによりもその神秘的な外見と奮える程の奏でる音色で人々の心をとりこにしてしまった。

絵礼は、テレビのニュースで紹介されたほんの数分間の映像でホルストに夢中になってしまったのだ。


「私にはその人のどこが良いのかよくわからないんだけどね……」

と、麻也は肩をすくめた。

「マヤっ!ありがとう、大好きっ」

絵礼はソファに座っている麻也を後ろから抱きすくめた。ペンダントの鎖がかすかな音をたてたけれど、もう絵礼の関心はそこにはなかった。いつもこんな感じで争いの火種はうやむやになってしまう。麻也の手回しの良さは絵礼にもわかってはいるのだが、ついつい麻也のペースにひきこまれてしまう。


「麻也ねぇ、そのコンサートに行く時、お姉ちゃんの持ってるエンジ色のワンピースを着て行きたいなぁ」

麻也はいつものおねだりモードに変わって言った。

このエンジ色のワンピースというのも、おしゃれにあまり関心のない絵礼がめずらしく親にねだって説得までして買ってもらったお気に入りの服だった。絵礼本人もほとんど袖を通したことのない、大事なよそいきの服だ。


「んー、そうねぇ」

さすがの絵礼もちょっと考えこんだ。


でも、せっかく妹が手をつくしてチケットを準備してくれたのだ。自分は他に持っている黒の外出着を着て、ワンポイントにブローチでアクセントをつければ少しは見栄えがするだろう。それでいいか。と絵礼は思った。

「いいわよ」

「やったぁ」

麻也は抱きしめていたクッションを放りあげた。


 絵礼はチケットを両手で大事そうに胸の前にしっかり握りしめた。

服なんかよりも、ホルスト様!だ。

絵礼の記憶の中のホルストは、きらめく銀髪と少しかげりのある整った横顔だ。その青年の瞳は冬の日の空のような色をしていた。

ホルストの演奏を初めて聞いた時、絵礼はぞくっとした。彼のバイオリンの音色は聞く者の胸をかき乱す。

ある種の魔力がホルスト・シュテンプケにはあるのだった。


 ぽやっ、となってしまった絵礼を麻也はしばらく観察していた。

はっきりいって麻也は男の子にもてる。もてるが故にいろいろごたごた続きで、男はもう勘弁!とさえ思っている。だから、直に会ったこともないような相手に入れ込んでしまう姉が不思議に思えたのだ。

ただでさえ大事な服やアクセサリーをすんなりゆずってくれる所も理解しがたかった。

「ほんとにお姉ちゃんって人が良すぎるんだから」

でも、自分にとっては大切な姉だ。実際、チケットを入手するために嫌な目にもあったが、その甲斐があった。


 姉妹はいつもこんな感じで過ごしていた。




第2話☆デルムント



 コンコンッ。

コンサート会場の控室のドアがノックされた。


鏡の前に座って、まるで祈るように両手を額の前でにぎりしめていたホルストは、はじかれたかのように立ち上がると、ドアを開けた。

「デルムント!来てくれたのか」

「ああ」

デルムントはちょっと皮肉めいた笑みを口元に浮かべて答えた。


デルムントという男は、白いシルクハットに白い燕尾服。あちこちに小さな石を縫い取りしてあって、光の加減できらきら光る。このある意味奇抜な格好で彼はうろついているのだが、不思議なことに、誰も彼に気をとめない。例えるならばホルストだけに見える透明人間のような存在だった。


デルムントは片手をぴっ、とあげてあいさつに代えると、帽子をとった。それは彼流の敬意の示し方だった。


「今日の演奏を君が観客席で聞いていてくれるのならば、成功間違いなしだ。精魂こめてがんばるよ」

と言って、ホルストは本当に嬉しそうにこの友人の手をとった。

 ホルストは無名の時代にデルムントと出会い、それがきっかけのように有名な演奏家としての道を歩み始めた。デルムントはともすれば落ち込み、嘆き悲しむホルストを幾度となく力づけ、勇気づけてくれる存在だった。

ホルストにとって今の自分があるのは、このデルムントのおかげなのだった。


 ホルストと会話を楽しむデルムントは、帽子をもて遊びつつ終始笑顔だった。

年齢不詳の外見、つかみどころのない性格。

唯一自信をもっていえることはお互いに好意を持っていて、信頼しあえる間柄だということだった。


「実は、しばらく旅行に出ることになってね、今回の演奏だけは聞き逃さないで行こうと思って今日は来たんだよ」

デルムントは遠くを見る時のような目つきになった。


「そうか……。まあ、今日は時間の許す限り、ゆっくり聞いていってくれたまえ。君がいつだったかリクエストしていた曲も今夜は演奏する予定だから」

「ああ」

実はそれを聞くために今夜を心待ちにしていたとはデルムントは言わなかった。

「君のために精一杯がんばるよ」

熱心な目でみつめられて、デルムントは内心、これじゃ、どっちがコンサートの主役なんだか立場があやふやだぞ、と苦笑した。

「ホルスト。あんたなら絶対大丈夫だ」

と、いつものように元気づけると、ホルストは俄然やる気を出したようだった。


 時は満ちた。デルムントは目を細めた。

デルムント自身、ホルストのバイオリンの音に拠るところがあるのだ。

百年に一人いるかいないか、と謳われる天才の紡ぎ出す音!その音色のまさに奇跡とも思える瞬間、とある『ゆらぎ』が発生する。それがデルムントの目的だった。


 開演五分前のアナウンスが流れた。

「そろそろ君の出番だな。じゃあ俺は観客席に行こう。がんばれよ」

「ああ」

デルムントはホルストにいつもと変わりない態度で話しながら、内心では別れの言葉をつぶやいていた。


 デルムントが、控室から廊下へ出ると、間接照明の薄暗さで目がしばらく慣れなかった。

音響のために配慮された廊下は、特殊な素材の床と壁だ。

デルムントはのほほんと歩いて行き、何気なく曲がり角まで進むと、果たしてあちら側から歩いてきた二人連れとぶつかってしまった。


「きゃっ」

「おっと失礼」


ちょっと注意力が足りなかった。足音を吸収してしまう廊下ではしかたがなかった。

なるべく人と接触しない方針の彼は相手にあまり印象を与えなければ良いが、と危惧した。相手は若い女の二人づれだった。


赤と黒。服の色が印象的だった。


そのまま通り過ぎようとしたデルムントは、ふと、『何かの感覚』を感じて振り向いた。「いや…、思い違いだろう。一つの世界に『ゆらぎ』は一つだから…」

デルムントは思い直して歩いて行った。




第3話☆ゆらぎ




 トイレから戻って観客席に座ると、もらったパンフレットのホルストの写真にみとれたまま、絵礼はぽやっとなってしまった。

何を話しかけてもうわのそらの姉をまじまじとみつめた麻也は、気をとりなおして、他の観客の観察を始めた。

服装やなにやかやを眺めて心の中で色々と批評するのだ。

「あの中年のカップルはとても上品そうだわ。物腰が洗練されているし…。あっちの女の人の着ているマリンブルーのドレスはきれい。モスグリーンのスーツの人もいいな。…あら?」


麻也は先刻、廊下でぶつかった謎の外国人を見た。

どうしてもその男に視線が釘付けになってしまう。どこがどう、とははっきり断言できないのだが、違和感がした。

「服装……?いいえ、それも確かに変だけど、もっとなにかこう、全体的に異彩を放っているというかなんというか……、って、近づいて来るし」


麻也が見ているのを知ってか知らずか、その男は自分のチケットの番号の席を探してどんどん入江姉妹の方へやってきた。

「13-B」

探し当てた席はよりにもよって麻也の隣だった。デルムントと麻也は視線をかち合わせた。

「失礼。ここに座ってもいいかな?」

麻也が予想していたよりは流暢な日本語だった。麻也は目をしばたいて、こくこくとうなずいた。


「こ……こほん」

麻也は軽くせきばらいして、デルムントとは逆隣りの姉にちらりと目を向けた。


絵礼は全く気づいていない。


 やがて開演のベルが鳴った。ゆっくりとホールの照明がおとされ、舞台のどんちょうがおごそかに上がっていった。


舞台中央にスポットライトをあびて、盛大な拍手とともに、一人たたずむ人影があった。


 静けさの中、音が流れ始めた。


高く、低く。うねりながら速く、遅く。たゆたう旋律。


稀代のバイオリニスト、ホルスト・シュテンプケは、今、全身全霊をこめて演奏を開始した。

彼の五感の全てが弓と弦に集中している。

見守る観衆もこの場にいないのではと疑いたくなるほど静まり返って音楽に耳を傾けていた。


 この時間と空間は、バイオリンの音が支配している。


 絵礼はホルストにうっとりと見入っていた。

隣の麻也は不謹慎にもホルストのバイオリンの品定めなどしつつ、曲に聞き入っていた。

その隣のデルムントは時が満ちるのを待っていた。


 何曲か演目がすすみ、ついにデルムントのリクエストしていた曲が始まった。その曲は演奏するのにとても困難な曲として定評があったが、ホルストは危なげなく弾きこなしていった。

観衆の誰もが様々な思いを抱きながらその曲にひたりきっていた。

やがて音楽はクライマックスを迎えた。


曲は、とある一瞬の『ゆらぎ』に集束した。


『これだ!これを待っていた!』

声にならない叫びをあげながらデルムントは立ち上がった。


「えっ!?」

麻也がゆらめくデルムントの姿に驚いて声をあげた。

「な、何?」

つられて絵礼が麻也とデルムントを凝視した。


 ぐにゃり。


 入江姉妹はデルムントを見て、そしてそれから自分達三人がコンサート会場どころか、通常の常識の範囲内にあてはまらない『どこか別の空間』に存在しているのに気づいた。


上下左右が奇妙にねじれて、お互いの位置関係を把握するのが困難だった。


「……しまった!」

デルムントは青ざめた。


大混乱している入江姉妹にデルムントはすまなそうに声をかけた。

「巻き込むつもりはなかったんだ…。俺は『平行世界パラレルワールドを行き来する者』だ。時空を移動してさまよっている。ただし自分の力だけじゃ時空を移動することは出来ない。だから今回の移動はホルストの音楽の『ゆらぎ』のエネルギーを借りて俺一人が移動するはずだったんだが……。普通、俺は他人から意識されにくい存在で、これまで一度も他人を移動に巻き込んだことはないんだ」


これを聞いて、麻也の方は、おそらく自分がデルムントを意識していたせいだろうな、と思ったが、それは口に出さなかった。

「とりあえず、元の世界ホームワールドへあんた達を戻す方法がみつかるまで、俺の移動先にいっしょに来てもらうしかない。……あきらめてくれ」


「あきらめる?」

その言葉で絵礼がはじめて我に返った。きまじめで努力家な絵礼は『あきらめる』とか『しかたがない』とか『だめ』とか、そういう類の言葉が大嫌いなのだ。

「無責任よ!なんとかしなさい!」

絵礼はデルムントにぴしゃりと言った。そうして矢継ぎ早に理屈を並べて説教を始めた。

これにはさすがのデルムントも面食らって閉口するしかなかった。


麻也は目をまんまるに見開いて、姉と謎の男のやりとりを見ていた。そうして、

「この二人、おもしろいわ」

と言った。


 ぐにゃり。


次の瞬間、どこかの世界の見知らぬ湖のほとりに三人は立っていた。


「でしょう、だからそれで……、あ、あら?」

絵礼がやっと口をつぐんだ。

開放されてデルムントはほっとした。


「ここはどこ?」

麻也が目をきらめかせて尋ねた。

「んー、前に来た時のイメージだと、あんたらの世界の知識で一番近いものに例えれば、何世紀か前のインド……のような、そうじゃないような……」

デルムントは首をひねりながらぶつぶつ言った。


「なんていいかげんなの!」

と絵礼が怒って言った。


「まぁ、できるだけ早くあんたらを元の世界ホームワールドに戻してやれるように誠意を尽くすから、それまでここでがんばってくれ」

「そんなあてどない……」

絵礼はふるふる震えながら目に涙を浮かべた。


「絶対、大丈夫だよ」

デルムントは笑って言った。

そのへらへらした態度に絵礼はへなへなと座りこみ、一方、麻也は好感を覚えたようだった。

「素敵!私、一度はどこでもいいから知らない場所を旅行してみたいなぁって前から思っていたのよね」

と麻也は、わくわくして言った。


「こっちのお嬢さんは放っといても大丈夫だろうなぁ。……問題はこっちか……」

とデルムントは絵礼の方に目を向けた。


「いいかい、要は気持ちの持ちようだよ。俺はちゃんとあんたらを元の世界ホームワールドに戻すと約束するし、一度約束したからには俺のプライドにかけて必ず実現させる。安心しな。大丈夫」

デルムントが絵礼の背中をぽんぽんと軽く叩くと、絵礼はなんとか泣きやんだ。


 「おまえたち、何者だ?そこで何をしている?」

三人のいる方へ複数の白装束の人間が近づいてきた。

見慣れない服装、しぐさ。なんだか役人じみた雰囲気だった。


「えらそうな態度ね」

と麻也がつんとすまして言った。


「しいっ!」

絵礼があわてて麻也をたしなめた。


「やあ、初めまして。我々は旅行中の者です。こちらの二人のお嬢様がたは異国の上流階級の方々で、高貴なご身分でいらっしゃいます」

デルムントが前に進み出た。彼は帽子をとっておじぎをすると、にこやかに笑った。

麻也はかなり嬉しそうにデルムントを見た。

絵礼はデルムントのでまかせに顔をしかめた。


見知らぬ人々は顔を見合わせ、なにやら相談しあうと、三人を白亜の宮殿へと誘って行った。




第4話☆シンドレッド




 「……異国からの旅行者とはめずらしい。我が国は湖の先に広がる砂漠と、海と、ハノウ山脈に囲まれて外部から孤立しているのでな。いやはや我が国、我が宮殿へようこそ。滞在される間、文化の違いや技術を教えて頂けたら幸いに思う。今夜は宮殿内に部屋を用意させるゆえ、ゆっくりと旅の疲れを癒されるがよい」

礼服に身を包んだ若い王が玉座から声をかけた。

その外見は、浅黒い肌、中肉中背、黒いひげを生やし、人好きのする、実際の年齢より若く見える整った顔つき。

しかし、笑ってはいるが、その瞳には底知れぬ力がみなぎっていた。


 入江姉妹とデルムントは王の迫力に圧倒されてその場に立ち尽くしていた。


「これ、王を前に無礼だぞ」

王の側近が怒鳴った。

絵礼はおどおどしながらこういう場合どう対処したらいいのか、と思い悩んだ。映画やテレビのフィクションの世界そのままだ。

この場に平伏すべきか?と思っていた。


 ところが。

「あら。王様だって人間なんでしょ?」

と麻也はつんとすまして言ってのけた。


すると、王はいきなり大笑いした。

側近の者はたしなめる機会を逸して憮然とした。


王はあらためて興味深そうにこの珍客たちを見た。


「……そなた名前は?」

「マヤよ。王様は?」

「シンドレッドという。……そちらは?」

「デルムントでございます」

デルムントは、あいかわらず帽子をとって優雅におじぎする。

「では、そちらは?」

「……え、エレです」

絵礼はびくびくして答えた。


シンドレッド王は、三人のうちの勝気な娘に特に興味を持った。黒目がちの美しい娘だ。見慣れない赤い服を着て、それがよく似合っていた。

父王が生前ハーレムを廃止していたので、この王は女性と縁のない生活を送っていた。だから、それは強い好奇心を伴っていた。


 シンドレッド王は麻也を異国の姫君だと思った。麻也といっしょにいるデルムントという男は物腰や言葉使いから異国の大使だと考え、そしておどおどしているもう一人の娘は麻也の従者かあるいは教育係あたりだと見当をつけた。

どちらにせよ、この三人を丁重にもてなすことに決めた。


「長く滞在されることを希望する。その間、最高のもてなしをしよう」

「ありがとうございます」

デルムントは目を細めて微笑んだ。


 「……マヤ。よければ私といっしょに食事を。あなたの話をぜひ聞いてみたい」

シンドレッド王は麻也をまっすぐみつめて言った。

「ええ」

麻也は軽く受け答えた。

彼女の経験からいうと、要ははったりなのだ。堂々としていればたいていのことはうまく行く。


麻也は片手を王に預けて、優雅に食事の間に歩み去った。

これにはデルムントも絵礼も、ぽかんと口を開けて見送るしかできなかった。


他の国と交流がないということは、紛争もまた皆無に近いということだった。ここは平和なのだ。デルムントは安堵の息をついた。

「とりあえず、問題は姉妹を帰してやることで、それ以外は大丈夫そうだ」

デルムントは持ち前のしたたかさでそう捉えた。彼は今までいろんな世界を旅していたので、ここよりひどいところも経験していた。




第5話☆アラビアン・ナイト




 「あー、疲れた」

天蓋つきのベッドの上に、ぽん、と身を投げ出して麻也が言った。

「大丈夫なの?」

心配して待っていた絵礼が尋ねた。


「んー多分ね。食事はまあまあおいしかったし。でも今日はコンサートから無事に家に帰れていたら、お母さんのお手製の炊き込みご飯のはずだったでしょう?それを食べ損ねたのは惜しいわね」

「……私が言っているのはそういうことじゃなくて、あの、王様相手になまいきな態度で、殺されたりとか……」

「ああ。心配ないわよ。王様っていっても、ついこの前即位したばかりで、なんだかいなかの純粋な男の子みたいな人だったから。何の話をしても本気で感心していたわ」

麻也は視線を上に向けて、天蓋の装飾を見た。


「アラビアン・ナイトってあるじゃない?なんだかあの話を連想する世界よね、ここ」

麻也のその言葉に、絵礼は物思いにふけった。


 『アラビアン・ナイト』は日本でも有名な話で、空飛ぶ絨毯やランプの精の話など絵本でも紹介されている。もともとは英国のマザー・グースみたいに小さな話をたくさん集められたものだったようで、別名『千夜一夜物語』と呼ばれている。

『千夜一夜物語』の骨子は、傍若無人な王が夜伽の女性に満足できずに毎夜相手を殺してしまっていたが、シエラザードという女性はとても話上手で、千と一夜の間物語を語って聞かせ、王から殺されずにすんだ、というものだ。夜明けが近づくと、続きは明日の夜、という話の運び方だ。

 絵礼は『千夜一夜物語』を図書館で借りて読んだことがあったが、半端な長さではなく、途中で読むのを断念してしまった。

 しかし、この世界に来て、インドやアラビア風の混在した不可思議な雰囲気に酔ってしまいそうだった。


「ねえ、麻也?」

絵礼が声をかけると、麻也はもうぐっすり眠りこんでいた。

絵礼はため息をついて、上掛けを麻也にかけてやった。


 ふわりと夜風が吹いた。

さらさらと音がして、ベッドの天蓋から垂れ下がっている薄布越しに豪華な室内装飾が見てとれた。

春めいた気候だった。


絵礼は眠れずに寝室用にあてがわれた部屋を出て、夜の庭園に出てみた。


元の世界ホームワールドのアラビアやインドの絵礼の中のイメージは、アラベスク模様の建築物とターバンを巻いた人たちだったが、この世界では白を基調にした柱にこった彫刻で装飾を施した資材が主な建物と、薄布を幾重にもまとったスタイルの人々が目立った。


夜の庭園におりてみると、噴水のある広い池と様々な花が咲き誇る木々があった。


絵礼は異世界の花の香りにつられて歩いた。

ゆりの花を連想させる大きな白い花に顔を寄せる。

「なんて良い香りかしら」

と、うっとりと花をめでる。


夜空を見上げると、遠くの星が見知らぬ星座を形成していた。月に似た大きめの天体が今は三つ、それぞれの色と形で浮かんでいる。

「本当にここは私たちのいた世界じゃないのね……」

絵礼の全身の毛が粟だった。


「……だけど、なんてきれいな世界なんだろう」

もう一度見上げると、星空がにじんでみえた。


「お母さん、お父さん。友達、学校の先生……みんな、心配してくれてるだろうな。早く戻らなきゃ。……でも私は受験や外国の戦争やいろんなことが元の世界ホームワールドではとっても怖かった。……ここは?この世界はどうなんだろう?どこにいても未来はわからなくて怖い」

絵礼は、ぐすん、と鼻をすすった。


どこからか、つん、と潮の香りがしたような気がした。海が近いのかもしれない。


 三つ浮かんでいる天体のうちの、一番元の世界ホームワールドの月に似た白い天体を見上げて、絵礼は知らず知らず歌を口ずさんでいた。

それは、ホルストがデルムントにリクエストされて弾いたバイオリンの曲調に合わせた即興の歌だった。

「……彼女は夕刻のバイオリンを聴いている

  月のダンスステップの下

  優しい案内人の天使は

  砂丘に反射した星の鏡について行く……

(タイスへの子守歌!作詞…オリヴィエドリューズ より引用)」


 果たして一人で過ごす絵礼の近くへデルムントがやってきた。

「眠れないのかな?」

「えっ?ええ。びっくりしたわデルムント」

「ちょっと『時空のゆらぎ』に似たものをこの近くで感じたんで調べに来たらあんたがいたんだが……、一足遅かったかな?消えてしまったよ」

「『時空のゆらぎ』って、私たち、元の世界ホームワールドに戻してもらえるの?」

「ああ。だから、誠意を尽くす、って言っただろう?信じてなかった?」

「……うん。ごめんなさい」

「もう、夜も遅い。若い娘が一人でこんな所にいるのはどうかと思うよ。妹さんの所でゆっくり眠って、明日からまたがんばるんだ。希望は捨てないで」

「うん、ありがとう、デルムント。おやすみなさい」

絵礼はこの世界に来てから初めてにっこりと微笑んだ。


 部屋へ戻って行く絵礼を見送りながら、デルムントは『ゆらぎ』が起きた場所を特定しようと試みた。

「ああやはりそうか。思っていた通り。あのお嬢さんにも素質がありそうだ。そうでなければ、俺一人で二人もの人間を巻き込んで『跳ぶ』ことができるわけがない。問題は、あまりこちらの世界に長居しすぎると、チャンスを逸してしまうかもしれないことだ」


デルムントは庭石に腰かけた。

「今の調子ならきっと大丈夫だ」

デルムントは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。




第6話☆ルドルフ




 この世界の宮殿から北に離れた位置にある、ハノウ山は手工芸の産業で有名な地域だ。常に新しい技術を取り入れ、才能のある若者を育成している。

 そんな中の一人の若者、ルドルフに焦点を当てよう。

ルドルフは両親や兄弟の顔を知らない。物心ついた頃にはハノウ山の他の子どもたちと一緒に野山を駈け回っていた。

ハノウ山の大人たちは交代で仕事と家事と育児を分担作業していた。ハノウ山は血族ではないものの大家族なのだ。

しかしそんな中で育ったゆえか、幼い頃のルドルフは人に甘えるのが怖くて、いつも他の子どもが大人に甘えるのをちょっと離れた所から指をくわえて見ているほうだった。

いつも寂しい気持ちをおしこめて、同年代や年下の面倒を見てやっていた。自分を律することに重きを置くのが彼の信条だった。

成長してからは、交易の仕事を率先してやるようになり、宮殿にもちょくちょく顔を出すようになった。


ハノウ山の手工芸品はちょっとした贅沢品であったので、町では食糧、宮殿では金品と交換ができた。運んでいったものは瞬く間に売り切れてしまう。人手があればかなりのもうけになるはずだったが、いかんせん山道の険しさで体力のある若者でないと運ぶのに無理があった。

ルドルフは若い男衆を率先して仕事に励む毎日だった。


 前国王が亡くなってその息子のシンドレッドが即位した経緯もルドルフは知っていた。

ルドルフと同年代のその若い王は、人を惹きつける力があり、常に誰からも慕われていた。

ルドルフは一度、新王の即位式の祝賀の儀に立ち会ったことがあったが、その時、生まれて初めて他人をうらやましいと思ったのだった。


新王はきらきら光る太陽の光を受けて歩き、手を振れば、人々が祝福の花びらを惜しげもなく投げかける。

花は雨のようにはらはらと王の頭上に降り注ぎ、とてもきれいだった。


新王シンドレッドには、乳母の息子のケイチという側近がいつもつき従っていて、何やかやと主の世話をやいていた。王が何も言わずともその意を察して何でもやってくれる従者だった。


「俺がもし、新王シンドレッドになり替わって王座についたならどうだろう?あれらが全部俺の物になるのか?ただ生まれが違うだけでこの差はなんなんだ」

とルドルフは思った。

「俺があの地位についたなら、もっと楽しい生活を送るだろうに」


そうして、王に幾度か謁見したおりにそんなことを言ってみた。しかしシンドレッド王は時間の許す限りルドルフの話に耳を傾けて、結局、時間がくればルドルフはハノウ山へ帰るしかないのだった。


 山壁に吹きつける強風の中、荷物を積んだロバのような動物をつれて仲間たちと険しい山道を歩きながら、ルドルフは自分が王になることをいつも想像してみるのだった。

そうして楽しげに笑うと、黒いマントを風よけにはおり直すのだった。




第7話☆欲しいものが手に入ったとき




「何度来ても、お前が王位につくのは無理だと思うぞ」

とシンドレッド王は言った。

ルドルフはくやしそうに、いつか王のすました顔を踏んづけてやる、とじだんだを踏んだ。

ルドルフが帰ると、王は入れ替わりに来た麻也にルドルフのことを話した。

「あの男はいろんなものを欲しがって、努力して何でも手にいれてきた。しかし『満足』というものを知らなくてな……。いつも何かを欲しがっている」

「まぁ。なんだか誰かさんに似てるかもしれない。自分も含めて」

麻也は正直そう思った。


「……私だって誰かに王位を譲って他にやってみたいことも沢山あるのだよ。だが、ルドルフはなぁ……。きっと長続きしないだろう。確かに人をまとめるのには長けているが、そのうち元の仲間との生活を懐かしがって政治なんかそっちのけになるのがおちだ。この仕事は孤独だからね。だが、あいつが時々ああやって会いに来るのは気分転換になって私は嬉しいんだ」

「そうなの……」

麻也は以前、シンドレッド王のことを『子どもみたいな人だ』と姉の絵礼に言ったけれど、実は悟りきった大人の一面も持ち合わせているのだな、とこの時思った。


「マヤ。あなたのような若くてきれいな女性がいてくれて、私はとても幸せな気持ちなんだよ」

「私……いつかは姉と元の世界ホームワールドに帰っちゃうわよ」

「そうかい?それはとても残念だ。……しかしここに滞在する間はなるべく私とこうやって話をしていてくれるかい?あなたの顔や姿を見て、その声を聞いていると、なんだか夢心地になれる……」

王はなんともいえない表情でため息をついた。


「ええわかったわ。……『なるべく』ね」

麻也はちょっとお茶をにごした。


「私は自分の性格にコンプレックスを感じているけれど、他の人にもそれぞれ悩みがあるのよね……。でも何から何まで相手の言うことを聞いてあげることはできないし、私にはとても無理なことだわ。これまでいつもお姉ちゃんが一緒にいてくれたから何も考えなくてもなんとかなってきたけれど、いつか独りになったらその時ちゃんと一人でやれるかしら?」

麻也は長いまつ毛をふせて思った。

そのうれいをたたえた姿に王は見とれた。


「ルドルフも欲しい物が手に入る時はこんな風にうっとりするものだろうか?しかし、どんな欲も満たされた後の満足が長続きしないのは幸か不幸か……」

と王は思った。


「王様、マヤ様。お食事の支度がととのいました」

王の第一の側近ケイチが二人を呼びに来た。

「では食事の間へまいろうか……」

「ええ」

二人はそっと手をつないで歩いて行った。




第8話☆絵礼の焦燥




「元の世界ホームワールドへはいつ帰れるの?」

絵礼がいらいらしながらデルムントを問いただした。

この世界に来てから半月程が過ぎようとしていた。


「『ゆらぎ』が現われた時に」

「だからそれっていつになったら現われるの?」

絵礼は半分泣き出しそうな声で聞いた。

「時が来れば自然に帰れるよ。それはエレが落ち着いてこちらの世界に慣れ始めた頃かもしれない。俺が心配なのは、その時にエレがもう元の世界ホームワールドへ帰らないと言い出すことの方だ」

デルムントは思ったまま正直に言った。


「そんなことありえないわ!」

絵礼はそう叫んで、きっとデルムントは口からでまかせを言っているのだろうと思った。絵礼は知らなかったが、絵礼の感情の起伏はデルムントには手にとるようにわかっているのだった。

デルムントは前の世界でバイオリニストのホルスト・シュテンプケと会っていた時もホルストの生み出す『ゆらぎ』に魅かれていた。

彼は誠心誠意を尽くしてホルストの活躍に精神的な面で貢献していた。

せっかく友人が出来ても、年をとらない彼はいつか異次元の別の世界へ移動しなければ、異端者としてはぐれてしまう。

友人との別れはつらいものであると同時に新しい出会いのきっかけでもあるのだった。


 今回は『ゆらぎ』の元となる入江姉妹ごと跳んでしまったという異例の事態だ。デルムントは戸惑いつつも、

「いつもと同じ。大丈夫だ」

と自分に言い聞かせた。


「あのう、ちょっとお邪魔していいかしら?」

部屋の外で絵礼とデルムントのやりとりを聞いていた麻也がおずおずと声をかけた。


麻也にしてみると、自分がどうなるかわからない境遇にありながら他人を気遣えるデルムントを尊敬のまなざしで見ていた。

「邪魔なんかじゃないわ。麻也、どうしたの?ちょっと元気がないみたいね」

絵礼は自分は姉なのだから取り乱すのをやめて、妹の麻也のことを気にかけなくては、と気持ちをがらりと切り替えた。

その絵礼の心の変化の過程を知ったデルムントは、かなり感心していた。

「絵礼こそがやはり次の世界ネクストワールドへ移動するための『ゆらぎ』の発生源になる!」


デルムントはそう確信した。


「そして妹の麻也がその『ゆらぎ』に一役買うことだろう。この姉妹は……、なんてすばらしい存在なのだろうか」

とデルムントは思った。


ホルストと過ごした時もあんなすばらしい芸術家はいないと思っていたし、今でもそう思っている。

『ゆらぎ』の力を借りて時空を移動するのは、とても嬉しくて、同時に寂しいものだった。『一期一会』とでもいうのだろうか。人間は不思議な生物だ、とデルムントは思っている。 時空移動の始まりはいつだったかもう覚えていない。終わりもいつになることだろう?気がつけばこんなに遠くまで来てしまった。


 そんなデルムントの横顔を盗み見しながら、麻也は姉の絵礼にいつものように甘えてわがままを言ってみた。

絵礼はいつものように精一杯の事をしてくれた。自分の持っているものは分けてくれるし、期待した言葉を言ってほめてくれたり助言してくれたりする。

麻也はいつも姉の事を大好きだと思っているけれどうまく伝えられない。ただ甘えてみせるだけ。今日はなぜかそれがもどかしかった。


「麻也。いつか私といっしょにいられなくなったらどうするの?あんまり頼っては駄目よ」ちょっと疲れてよれよれの絵礼はいつになくそんなことを言った。

麻也はショックで、ちょっと言葉につまってしまったが、

「大丈夫よ。だってここの世界の王様みたいに私がおねだりすれば何でもしてくれる人だってちゃんと存在するんだから」

とけらけら笑ってみせた。


絵礼は妹の行く末を心配してため息をついた。


麻也の世話を焼いている間は他の不安を感じずにいることを絵礼本人は気づいていないようだった。


「それより、変わった果物を食べたのよ。とってもおいしかったから二人も食べてみなさいよ」

そう言って麻也は絵礼とデルムントを導いていった。




第9話☆麻也の望み




「マヤ、ちょっとこちらへ来てくれないか……」

従者に呼ばれて王の間へ行ってみると、シンドレッド王がとてもやさしい笑みを浮かべて麻也を手招きした。

「この人も悪い人じゃないんだけど……。でも一生一緒にいるのはどうか、って思うくらいお人好しなのよね……」

と、麻也は思った。


「まぁ、何かしら?」

いつも鏡を見て練習していた特に異性に効果的な笑顔を浮かべて、麻也は王の側へ歩いて行った。

「マヤ、あなたの美しさをひきたてるアクセサリーを造らせたんだ」


「えっ?」

まただわ、と絵礼は思った。

「どうして皆、私にいろんなものをくれるんだろう?私はお礼に返せるものを何も持っていないのに。……そしてたいていいつも人はプレゼントの代償に私の心を求めようとする。それは、とても嫌なことなのに……」

麻也のそのわずかな表情のかげりをシンドレッド王は見逃さなかった。

「お気に召さなかっただろうか……。私はあなたに何をしてほしい、とか無理を言うつもりはないんだ。ただ、似合うと思う物を差し上げて、それを喜んでくれたら、それ以上は求めまい」


「何て……親切な人かしら」

麻也はそっと微笑んだ。


「今つけていらっしゃる青いペンダントもきれいだが、こちらに用意したペンダントもつけてみて欲しい。アクセサリーなどの手工芸で有名なハノウ山のものなのだが……」


 ホルストのバイオリンコンサート以来肌身離さずつけていた姉のペンダントを麻也はそっと指でつまんで眺めた。

きらきら輝くスワロフスキーのガラス製の青い星。

元の世界ホームワールドでは二束三文だけれど、麻也にとっては宝物だった。

「私、このペンダントが一番気に入っているのよ」

「そうか……」

王は目に見えてがっくりと肩をおとした。


「ごめんなさいね。でも、私、そのハノウ山っていう所のお話はお聞きしたいわ」

と、麻也が言うと、

「そう?……そうかい?」

と、王はちょっと嬉しそうに麻也を見た。


シンドレッド王の話によると、ハノウ山という地域には麻也にとって興味深い手工芸の技術をもった職人や工場があるらしかった。

「この世界にいつまでいられるかわからないけれど、ここで何か知識を学んでおけば、元の世界ホームワールドに戻った場合でも、この世界にとどまる場合でも、きっと役にたつと思うな」

と、麻也は思った。


「いつか容色がおとろえて、誰も私に見向きもしなくなる日が来るだろう。でも何かこれという知識があれば、お姉ちゃんや誰か他の家族といっしょに生きていけるんだろうなぁ……」

麻也は漠然とした未来を予想した。

「この王様には悪いけれど、いつか近いうちにそのハノウ山という所へ行ってみよう。一人で行くって言ったらきっと止められるだろうから、何かのどさくさにまぎれて……ね」

と、麻也はにっこり微笑んだ。

王はなぜ麻也の気嫌が良くなったのかわからないながらもその微笑みに魅了されてしまった。




第10話☆麻也の失踪




「あらデルムント。久しぶりね。……と、いうことはもう元の世界ホームワールドに帰れる目星がついた、ってことかしら?」

しばらくどこかへ姿を消していたデルムントと宮殿内で出くわした麻也が言った。


「いや、今日はちょっとあんたにお願いがあってきたんだ。内密に願いたいんだが……」

「良いわよ」

二人はついたての陰に入った。


麻也はまつげをひるがえして両目をぱちぱちやった。気に入った相手といる時の癖みたいなものだ。だが、デルムントはそれを見ても無反応だった。

「実は……」

デルムントは麻也にぼそぼそと耳打ちをする。

「そう、そうなの。わかったわ。私にしかできないのね。やってみるわ。ちょうど良い機会だし……」

「じゃあまた」

デルムントは簡潔に用件を伝えて了承をもらうとまたいずこへか立ち去った。


 「王様」

わりとめずらしいことに麻也は自分からシンドレッド王のそばへ行った。

「ああ、マヤ。どうされた?」

王は嬉しそうに微笑んだ。書類にサインをしていた手を止めて、麻也の方に向き直った。

「あの、私、宮殿内ばっかりで退屈になってしまって、気分転換に街に出てみたいの。今日は街で市が立つ日だと聞いたから……」

このおねだりに、王はちょっと思案顔になった。


しかし、他ならぬ麻也の頼みなのだ。王は王宮専属の馬車を用意させた。

「急な話なので、私は公務でご一緒できなくて残念だ」

シンドレッド王は、御者にくれぐれも気をつけるように念を押して見送った。


「あんまり妹を甘やかさないでください」

めずらしく絵礼が王に意見した。

「妹?……ではエレはマヤの姉だったのか?」

「今まで何だと思っていたんです?」

「いやその……」

シンドレッド王はさすがに口ごもってしまった。まさか召使いか何かだと思っていたとは言ってはいけないような気がしたのだ。

そういえば、大使だと思っていた男もいたがどうしただろう?あまり姿を見ない。


王は絵礼の顔をまじまじと見た。確かに麻也と目鼻立ちが似ている。だが、雰囲気が二人とも全く違っているのだった。


 そこへ、今しがた出かけたと思った御者がかけこんできた。

麻也から果物を買うよう頼まれてちょっと馬車から離れたすきに麻也が馬車ごとどこかへ失踪してしまった、というのだ。

おそらく街の子どもが馬をおどかしでもしたのだろう、一刻も早く知らせようと舞い戻って来たという。

麻也の安否を気づかって皆が心配したが、シンドレッド王の狼狽ぶりは、はたで見ていても凄かった。

絵礼はシンドレッド王のそんな様子を見て、胸に雷でも落ちたかのような衝撃を覚えた。 


その日の夕方頃、捜索に出ていた使者が戻り、壊れた馬車をハノウ山方面の崖下で発見した旨を伝えた。馬だけが自分で厩舎に戻っていたが、麻也の姿だけはどこをどう捜してもみつからなかったそうだ。




第11話☆シンドレッド、半狂乱




 ふいに王宮内が騒然とした。

「何事だ?騒がしいぞ」

ケイチが声をはりあげた。


「ふはははははっ」

聞き覚えのある笑い声がした。

黒マントをひるがえしたルドルフがハノウ山の仲間をひきつれて玉座の前へのりこんで来たのだ。


「なんだお前か。今、私は頭の痛い問題を抱え込んでいてお前につきあっている暇はない」シンドレッド王はしかめっ面で言った。めずらしく眉間にしわを寄せている。

「なんだ、とはごあいさつだな。……だが安心しろ。お前の頭痛も今日限りだ。なぜならこの王宮の主は今日から俺様だからだ!」


「なにを無茶苦茶言っている。そんなことが許されるわけないだろう!」

と、ケイチが怒った。


「……ああ、そうなのか」

と、シンドレッド王は真顔で言った。言ってからしばらく間があって、

「それじゃあ後は頼む。私はもう疲れた」

と言った。


「えっ?」

ルドルフはきょとんとしてその場に突っ立っている。彼の筋書きでは、力尽くで王位を乗っ取る予定だったのだ。

シンドレッドは玉座から立ち上がると、王冠をテーブルの上に置き、そのまま出入り口の方へまっすぐ歩いて行った。


「おい、あの、ちょっと…」

ルドルフはシンドレッドが姿を消すまでおたおたしていた。血気盛んなルドルフの仲間たちも気勢を削がれたのか、お互い顔を見合すばかりだった。


「王様!シンドレッド様!」

ケイチが顔を青くしてシンドレッドの後を追った。


「ああ。私、麻也のことも心配だけど……、あの人……シンドレッドは大丈夫かしら?」

我に返った絵礼は、シンドレッドとケイチの後を追って王宮を飛び出した。

「ルドルフの輩なぞに王位は渡せません。エレ様。シンドレッド様のことをお願いします。私は公務を怠らないために王宮へ戻らねばなりません。頼れるのはあなただけです」

追いついた絵礼にケイチは言った。頭を下げて一生懸命頼むケイチに、絵礼は心打たれた。「わ……わかりました」

絵礼が承諾すると、ケイチはほっとした様子で戻って行った。


「きっとあの麻也のことだから、自分の意思でいなくなったのかもしれないわ」

と絵礼はなんとなく妹の無事を確信した。

さすがに今度ばかりはシンドレッドも麻也の性格を思い知ったのでは、と考えたがそうではなさそうだった。

目前のシンドレッドのただならない様子に絵礼は戸惑った。彼を一人きりで放っておくとどうするかわからなかった。


「構うな、一人にしろ」

絵礼の手を振り払っていらいらした様子で怒鳴った。

そうかと思うと、いきなり崖の方へ突進して深くて青い湖水に身を投げ出しそうになったり、髪をくしゃくしゃにかき乱したり、大声で笑いだしたり、ぼろぼろ涙を流して泣いたり、大変な有様だった。

絵礼はシンドレッドをなだめ続けた。


 やがて夕暮れが訪れた。


白くてきれいな砂の上にシンドレッドは黙って立っていた。

月が空にかかり、薄暗がりの中、シンドレッドは風をまといたたずんでいた。

彼はただじっと天をにらんでいた。


「風邪をひきます。うちに来てください」

みかねた近隣の者が、絵礼とシンドレッドを家に招き入れた。


 明るく暖かな室内。そして簡素な食事。

シンドレッドは無言でそれらを受け取った。

「疲れたでしょう?そちらで休んで下さい」

家人に寝室を示されると、シンドレッドはのろのろと顔を上げた。

彼は隣にいた絵礼の服の裾を握ってひっぱった。


「どうしたんです?」

「……一人で眠るのが怖い。せめて私が眠りにつくまでそばにいて、何でもいいから気のまぎれる話をしてくれ」

「……はい」

絵礼はシンドレッドと一緒にあてがわれた寝室に行くと、床についた彼のそばに座った。シンドレッドは絵礼の服の裾をにぎったまま片時も手を離そうとしなかった。


「王宮内の生活しか知らなかった。どこかで他の者たちの生活をさげすんで、この目で見ておこうともしなかった」

「でも、きっとここの生活はこの生活で、考えようによってはとっても幸せなものなんですよ」

絵礼の言葉に、シンドレッドはちょっと考えてから、うん、とうなずいた。


「ケイチ……。あやつがいれば政治などの公務は滞りなくすすむ。私はしばらくこのような場所で頭を冷やしたい。エレ。お前は一緒にいてくれるか?」

シンドレッドはかつて幼い頃に乳母に甘えたような気分で絵礼に言った。


「そういえば、私の誕生日の祝賀の折、お前が歌い、マヤが踊った曲があったな。あれをまた聞いてみたい」

「ああ、あの曲ですね…」

絵礼は過日を振り返った。


ホルストの弾いていたバイオリン曲を思い出しながら即興で歌をつけて絵礼が歌い、それに合わせて麻也がやはり即興で踊ったのだ。

「……炎は揺れる弦を抱きしめる

  夜のダンスステップの上

  輝く月に抱かれた

  無邪気で小さな命の甘い眠り……

(タイスへの子守歌より)」

小さくやさしく口ずさむ絵礼。


「……マヤがいつのまにか私の心の中一杯になっていた。他には何もいらないとさえ今は思える。目を閉じればマヤの美しい顔が見えそうな気がする。今も手の届く所にいるような……」

シンドレッドの閉じたまぶたのすきまから輝く滴がこぼれおちた。絵礼はそっとぬぐってやった。

「私は間違っているのか?……この国を治めるのが仕事なのに、それを放り出して民たちを裏切ったのに、今、こうして親切にしてもらえるのはなぜなんだろう?」

「私や麻也があなたの前に現れる以前から、あなたは他の人たちに恐らく仕事とか義務とかいうもの以上の形で、人間として親切に接していたのではないかしら?だからきっと、それが今、返ってきているのだと思います」

絵礼は静かに言い聞かせた。


「歌の続きを…」

「ええ。

 ……そして 天使は弓のリズムに揺らめく

  目覚めのメロディの波の下

  彼女は妖精に抱きしめられ

  眠りのプロムナードを散歩する……

(タイスへの子守歌より)」


いつのまにかシンドレッドは、疲れ果てて眠りについていた。


絵礼は、

「千夜一夜物語のシエラザードは、本当に殺されたくない一心だけで王に毎晩物語を語って聞かせていたのかしら?」

と思った。


壁の燭台の炎がゆらめき、寝室の光と影がそっと揺れ動いた。

絵礼はシンドレッドの顔を不確かに照らすわずかな光でその存在を感じた。

閉じた二重まぶた。くたびれた服。くしゃくしゃの髪。黒い立派なひげ…。

そんなものを絵礼は飽きもせずみつめていた。


「そして王は、なぜ物語を聞きたがっていたんだろう?」

それは永遠の謎のようなものでもあり、刹那的には理解できる真実のようでもあった。


「服の裾を離してくれないから、動けないわ」

くすっと笑う。

絵礼は困りつつも、少し嬉しかった。シンドレッドにぽんやりみとれたまま夜は更けていった。



第12話☆麻也とルドルフ




 時間を少し遡ろう。


御者が馬車をわずかに離れたすきに、麻也は自分で馬車を駆ってハノウ山を目指した。

そして彼女は途中でルドルフ一行と出くわした。

「ちょうど良いわ。そこの人たち、ハノウ山へはこの道で良いのよね?」

と、麻也が尋ねると、その若い男たちは顔を見合わせた。

「そうだが、あんた、王宮専属の馬車で何をやってるんだ?」

「失踪」

「はあ?」

「デルムントから言われたのよねー。次の『ゆらぎ』を起こすために、姉の前からしばらく姿を消してみてくれ、って」

と麻也は言った。

「デルムント?何だそれは。うまいのか?」

ルドルフが的外れなことを聞いた。

「ああっ、変な人っ」

とルドルフを見た麻也が思わず言った。

「なにが?」

ルドルフはきょとんとして聞いた。

「だって、黒いマントなんかはおって……」

「その理由はヒ・ミ・ツだ!なぜならその方が格好良いから」

ルドルフは得意そうにふふん、と笑った。


「……とにかく、そうしたら私たち姉妹は家に帰れるの。だからそれまでハノウ山の手工芸の技術を習いにちょっと行ってこようと思って」

「山道は険しいぞ。その馬車じゃ無理だ。……どうも話がとんでいるような気もするけれど……さっき確か『失踪』とか言ったな。ごまかしとかそういうものなら自慢じゃないが、俺達は大得意だぞ」

どうもルドルフは麻也に親切にするつもりになったらしかった。

ひょいと馬車から麻也を抱き下ろしてくれると、馬具をはずした馬たちを街の方へ追いやって、残った馬車の高価そうな装飾を取り外し、からっぽの馬車を崖下に蹴落とした。

「こうすれば山賊に襲われたと思われるし、あんたの行方もわからなくなる」

ルドルフは、ほがらかに笑った。

「クレアを訪ねてみろ。ハノウ山一の知恵者だ。きっと親切に手工芸の技術を教えてくれる筈だ。場合によっちゃ、家族に加えてくれるかもしれん。ハノウ山ははぐれ者の集まる場所だから」

「ありがとう。ご親切に」


麻也はにっこり笑って、ルドルフに手をひらひら振った。


「リーダー。この娘、味見していいか?」

「ほんとにこの娘、かわいいなぁー」

とルドルフの率いている男たちは口々に言った。


若い男たちに囲まれて、あわや貞操の危機?と思いきや、

麻也の「そーゆーの興味ないから」という平然とした態度。

鼻白む男たち。

麻也は遠目で見ていたルドルフに、

「そーゆーことをしたいんなら、お金でもなんでもばらまいてそれにくいついて同意する人を相手にして頂戴!」と見栄をきった。

「確かにそうだ。……おい、お前ら!嫌がられて抵抗されるより、同意してくれる女ならわんさといるぞ!先を急ごう!」とルドルフが男たちを率いた。

ルドルフがリーダーで助かった。

こうして麻也はその場を切り抜けることができた。




第13話☆クレア




 果たして麻也がハノウ山にたどりつき、クレアなる人物に会ってみると、中年のやさしそうな女性だった。

手工芸について話してみると、初めのうちは同じ物体について違う説明をしてある図鑑を持った人たちみたいに話が混乱していたが、徐々にお互いの知識内容がわかってきた。

二人は特にアクセサリーのことを話した。


「ここでは透明な結晶体が産出されます。それに特殊な光線を当てると色が変わったりするの。それを加工して装飾品を作ったりしています」

「ああそれは……」

光線を当てると結晶体の分子配列が変わって反射する色が変わるためだと麻也は説明した。

麻也は鉱物に含まれているガラス成分を抽出して、トンボ玉や、ビーズをつくってアクセサリーにする話をしてみた。クレアは興味を示し、二人は話に熱中した。


「私の世界では、七宝焼きっていうのがあって、それは、銅または金、銀などを下地にして、金属の酸化物を着色材として用いたガラス質のうわぐすりを焼き付けて模様を描きだすんです」

「金属の酸化物で着色?」

七宝焼や象嵌、宝石の加工法カット技術、光線により配列が変わって石色が変わるなどの知識。

クレアは目からうろこが落ちたような気で聞き返した。


「クレアさんの言っている技術の方がずっと難しいと思うんだけどなぁ」

と麻也はつぶやいた。

「それから、発光素材を含んだガラス製品とか、暗いところで光るものも作れるんです」

クレアは目をみはって、この見かけよりも博識な娘を感心して見ていた。

「ぜひ私たちと一緒に働いてほしいわ」


クレアは他の者にも麻也を紹介した。

ハノウ山はこうして、麻也のことを受け入れた。




第14話☆シンドレッドの特技




 いつまでも民家に居候しているわけにもいかなかったので、ケイチの手配で一軒の使われていない家を、シンドレッドたちは使うことになった。

「シンドレッド様に家事をさせるなんてとんでもない。家政婦など使用人を雇いましょう」と言い張るケイチを制止して、シンドレッドは、

「いつここを出ていくかはわからない」

と言い出した。


困り顔のケイチは、

「いいですか、かりそめに不逞な輩がはびこっていますが、あなたこそが王座につくお方なんです。今は魔が差しているだけで……。このまま放浪して果ててどうするんですかしっかりしてください」

と諭した。


そしてらちのあかない口論のあげく、ケイチは絵礼に向き直って、

「私は雑務に追われてなかなかシンドレッド様の事に手が回らないのです。ここはエレ様にすがるしかありません。どうか、くれぐれもシンドレッド様の身辺のことをよろしくお願いします」

と頭を下げた。


絵礼は元の世界ホームワールドでは受験勉強一本だったので家事はあまり自信がなかった。しかも異性に免疫がないのでシンドレッドと二人きりで同じといっても広くて部屋がいくつもあるに住むのにちょっと抵抗があって、さっさと宮殿へ戻って行くケイチをよっぽど呼び止めようかと悩みまくった。


 結局、絵礼はシンドレッドと共同生活を送ることになってしまった。

眠れない夜を越えて朝日の差す時刻になった。

睡眠不足気味の絵礼を呼ぶシンドレッドの声がした。


「ああ、朝食の用意をしなくちゃ……。(元)王様の口に合う料理なんてできるかしら……」

重い足取りで部屋に入ると、テーブル上にすでに料理が並べてあった。

「えっ?」

絵礼は硬直してその場に突っ立った。


「前々からこっそりやってみたかったことがいろいろあってな。こういうことにもあこがれたものだ」

と、シンドレッドは嬉しそうに笑った。


絵礼は冷や汗をかきつつ食事をとった。

「どうだ、うまいか?」

「ええ」

満面の笑みを浮かべて問うシンドレッドに絵礼はこくこくとうなずいた。

「もっとこのてのひらが大きかったら、と思うんだ。自分にできることがもっとずっとたくさんありそうな気がしてな」

しみじみ言うシンドレッド。

「あなたは十分すぎる程なんでもできるわ……」

と、絵礼は苦笑した。

「見た目じゃ人はわからんだろう」

シンドレッドはにやりと笑った。


 食事の後、絵礼が川岸で食器を洗っていると、なぜかシンドレッドが、絵礼の後ろを何をするでもなくうろうろしていた。

「どうかしたんですか?」

「いや。……エレは突然どこかへ行こうと思うことはあるか?」

「えっ?ありませんけど……」

「どこか遠くへ行く時は必ず一声かけろ。いつか会いに行くぞ」

「…………」

絵礼はシンドレッドにとって麻也がいなくなったことがよっぽどショックだったのだろう、と思って、つい、ぽろりと涙を流した。

「どうした?何か悪いことを言ったか?」

「いいえ。ちょっと目にごみが入っただけです」

ぐすっ、とはなをすすって絵礼は言った。


シンドレッドは無言で絵礼をじいっとみつめた。


 できうるかぎり様子を見にケイチはやってきた。

「エレはアキーニのようだ」

何かの折にシンドレッドはぽつりとつぶやいた。

ケイチはそれを聞き咎めた。

「シンドレッド様。エレ様はアキーニでもマヤ様でもないんですよ」


 シンドレッドが誕生した頃、乳母として宮殿に仕えていたアキーニはケイチの実の母でもあった。残念ながらアキーニは今はもうこの世にいない。ケイチとシンドレッドは同年代で、アキーニは二人を兄弟のように育ててくれた。

思い出の中のアキーニは、ふくよかな、丸っこい体つきの女で、あたたかくやさしい性格をしていた。何よりも子どもたちにおしみなく愛情を注ぎ、身分をわきまえた教育を施してくれた。


「マヤ様がいなくなっただけで身分も財産も全て捨てられるとは……。ケイチはなげかわしいです」

「すまないな、ケイチ」

「そう思われるのでしたら、王宮へお戻りください」

「いやだ」


シンドレッドに言っても無駄だと察したのか、ケイチは絵礼の方に向き直って言った。

「エレ様、ここは私たちのがんばり所です。ルドルフのような輩に王位を任せていては国家の危機です。贅沢三昧で、どこからか連れてきた仲間と放蕩してばかりなんですよ。やはりシンドレッド様にお戻り頂かないと……。ご協力お願いします」

「え……ええ、わかったわ。手伝います」

具体的には何をやっていいかはわからなかったが、いつのまにか絵礼はシンドレッドのためならなんでもやってやろうとさえ思い始めていた。


「なんで王宮まで行かねばならんのだ?」

ケイチと絵礼は乗り気でないシンドレッドを連れて王宮へ出向いた。

「シンドレッド様がマヤ様やエレ様に依存されてしまうのはどうにかできないものか?ルドルフ程ではないにしろ女性に免疫をつけてもらわないといけないな……」

と、ケイチは道中考えていた。

「しかし今はエレ様を頼るしかない……」

ケイチはため息をついた。




第15話☆ルドルフと絵礼




「なんだ?やっぱり俺のやり方が良いことがわかって仲間に加わりにきたのか?」

ルドルフが言った。酔っているようだった。

「金も食べ物も酒も最高の物ばかりだぞ」

機嫌良く言うルドルフにケイチが眉根を寄せた。

「町から若い女を何人も集めて、金をばらまき、酒を飲み、仲間と毎夜大騒ぎをする生活のどこが良いんだ」

ケイチの苦言にルドルフは聞く耳を持たなかった。


「そっちの娘もどうだ?ここで一緒に過ごさないか?」

言われて絵礼はきっ、とルドルフをにらんだ。

「私はあなたに言ってやりたいことがあって来たのよ」

「言ってやりたいこと?」

「お金や贅沢な暮らしで集まってくる楽しみは全てまがいものだわ。あなた自身に惹かれて来るはずの人たちはかえって敬遠してしまうことでしょう。もし今の贅沢がなくなったらあなたのそばに一体何人の人が残るかしらね」

絵礼はルドルフの今の取り巻きを見渡した。


「よくぞおっしゃったエレ様」

ケイチがうなずいた。


「ふん。……おいシンドレッド、贅沢じゃなくなったお前のそばには頭の固いやつらだけ残っているみたいだな」

ルドルフがそう言うと、シンドレッドはどうでも良いように肩をすくめてみせた。

「私は今の方が贅沢をしてるんだがな」

「シンドレッド様……」

ケイチが情けない声を出した。


「私はここで話すことなど何もない。先に帰るぞ」

シンドレッドはさっさときびすを返して帰って行った。


あとに残されたルドルフは、酔いが覚めたような顔になって言った。

「しかし……シンドレッドのやつはどうかしたのか?あんな風になるなんてよっぽどの事でもあったんだろう?」

「麻也ーー私の妹の事を凄く気に入っておられたのだけれど、行方不明になってしまって、それがよほどショックだったのでしょうね」

絵礼はため息混じりに言った。


ルドルフは、はた、と思い当たった。多分、宮殿へ来る途中で出会った娘のことだ。しかしそれは今は黙っているにこしたことはないだろう。

「お前たちはどこから来たんだ?この国は大きな湖と砂漠と山岳地帯に阻まれて外の世界との交流はほとんどないんだぞ。それがある日突然現れて宮殿に滞在していたなんておかしすぎる。……実は魔女かなにかか?」

『魔女』という言葉に、ケイチと絵礼はぴくり、と反応した。

「私はシンドレッド様のご様子を……」

ケイチは聞かなかったことにして、そそくさと宮殿から立ち去った。


残った絵礼は迷いながらもデルムントの話や、元の世界ホームワールドの話をかいつまんでルドルフに説明した。

「ふうんそうか。不思議な話だな。……で、いつかその世界へ妹と戻る予定なんだな」

ルドルフは姿勢を崩してのんびり寝そべり、酒をかっくらった。ケイチが見たら血相を変えただろう。威厳も何もない。

「だったら何もシンドレッドばかりに入れ込まずに俺の方に来たらどうだ?暮らしは今の俺と一緒の方がずっと良いだろう?」

ルドルフの言葉に絵礼は肩をすくめた。

「ケイチほどではないけれど、私も王の器におさまるのはあなたよりシンドレッドの方のような気がしてきたわ」

「何?」

「今のあなたの態度を見ていると一目瞭然ですもの」

そう言われてルドルフは怒ると思いきや、わはは、と笑った。

「そうか、お前ーーエレもそう思うのか。実は俺自身もわかっているんだがなぁ……」

「なんだ、それじゃあ早くシンドレッドに王位を返せば良いのに」

「ちょっと今はひっこみがつかんのでな。いろいろと。なにより、あいつが立場を取り返す気になってくれないと、どうしようもあるまい?」

ルドルフはふん、と酒臭い息をついた。


絵礼はあきれた。

「私も帰ります」

「そうか。……まあ、お前もいつかいなくなるのなら、ちょっとは寂しいかもな」

「どういう意味ですか全く」

絵礼はぶつぶつつぶやきながら帰っていった。


残ったルドルフは取り巻きたちのざわめきの中で酒をあおって物思いにふけっていた。




第16話☆デルムントの思惑




 普段のシンドレッドの言動から、シンドレッドが絵礼のことを『世話を焼いてくれる保護者』的に見ていることはわかっていたが、絵礼の方はどうしてもシンドレッドのそばにいると、思慕を抱いてしまうのだった。

絵礼の力の及ばないことがあると、すかさずシンドレッドが問題解決してしまう。元の世界ホームワールドで自分がしっかりしないといけないと思い続けた生活をしていた絵礼にとって今の状況は安心感でいっぱいだった。

なんだかだんだん、こちらの世界の、シンドレッドのそばにいる今の状態が一番幸せな気がしてくる。絵礼は自分で自分の変化が信じられない気分だった。


 そんな絵礼を離れた所からデルムントが観察していた。


デルムントは、まさか絵礼がシンドレッドに夢中になるとは思ってもみなかった。単に妹と引き離せば心の『ゆらぎ』が現れるだろうと思って麻也にしばらく姿を消すように頼んだのだが……。


しかし別の形で絵礼の心の『ゆらぎ』が出てくる条件がそろいつつあった。

これで麻也が戻れば最高の『ゆらぎ』が手に入ることだろう……。

「結果オーライだ」

とデルムントは思った。




第17話☆舟遊び




 シンドレッドはのほほんと毎日を過ごしていた。

「何か困った出来事が起きても、誰かが助けてくれたり、なにかしらきりぬけるチャンスはあるものだな。私は民を束ねることが仕事だと教わってきたけれど、こういう『ふれあい』もあったのか……」

そんな事を思いながら、シンドレッドは近くにいる絵礼をじいーっとみつめることが度々あった。

絵礼の方は、みつめられる度にぼおっとなってしまう。いけないいけないと思いながらシンドレッドに惹かれていくのだった。


「エレ。河に舟遊びに行こうか」

ある夕方。シンドレッドが絵礼に声をかけた。

「今からですか?」

「いけないか?夕飯も終えたし、眠りにつくにはまだ早すぎる」

「それはそうですね」

珍しく素直な絵礼を、シンドレッドはちょっとびっくりしたように見たが、すぐになんともいえない優しい笑顔で彼女の手を取ると、住んでいる家から河岸まで連れて行った。

二人は、どちらからともなくくすくす笑いだして、子どもみたいに楽しそうだった。

舟は貸し切り。船頭が一人同乗して、暮れゆく中彼らは出発した。


「流れはゆるやかなんですね?」

「落ちたら助からんぞ」

「ええっ?!」


「シンドレッド様、意地悪ですね。河は浅瀬で足が立ちますよ」

船頭が漕ぎながら笑って言った。

「私が泳げないから助けてやれないと言っただけだ」

「そうは聞こえませんでしたけど!!」

絵礼は笑って言った。


ぱらぱら。はらはら。

「花びらが……」

白い花弁が幾枚も舞い散って河面に浮かんで揺れる。

「明日の我が身だな」

「シンドレッド!そういう考え方よして」

「ああ……すまない」

シンドレッドは落ち込みそうになると、いつも絵礼が引っ張りあげるので、落ち込む暇がなかった。


「ちょっと岸につけてくれ」

「はい」

シンドレッドは河の上に枝を張り出している木から満開の花を一房ちぎり取って戻ってきた。

「どれ、髪にさしてやろう」

その言葉があまりにも嬉しくて、絵礼は涙ぐんだ。夜空の白い月が滲んで見えた。


シンドレッドにとって私は麻也の代わり。彼は私を通して麻也を見てる。……なんてひねくれた考えなんだろう?でもそう思わずにいられない。

絵礼は余計激しく泣きじゃくった。シンドレッドが心配して絵礼の背中を優しくとんとん、と叩いた。

「……ありがとうございます」

「いいや」

絵礼はこの舟がいつまでもこのまま進めばいいと心で願っていた。


「ケイチの加勢に行かなくちゃ」

絵礼は宮殿に何度も足を運び、ルドルフに意見した。ルドルフの方は絵礼をかしましいと思っていた。

「いつか帰ると言っていたが、だが果たしてそのデルムントというやつの能力は確かなのか?よしんば姉妹が元の世界ホームワールドに戻れたとしても、時間の流れがこちらと違うかもしれないんだぞ。本当に大丈夫なのか?」

とルドルフは首をかしげた。

「まぁ、俺には直接関係はないんだがな……」




第17話☆麻也、ハノウ山を下りる




「……私の世界にあったビーズっていうのは、例えば色のついた細いガラス管を切って、穴の開いた粒にしたものなの。形も色も様々で、大きさも色々あって、それだけを集めて糸やゴムを通してアクセサリーにしたり、布地に縫い付けて刺繍を施してきらきら輝く服を作ったりするの」

麻也の知識はハノウ山でもてはやされた。

「貝殻や動物の骨、石、木でも造れるわね。さあ、忙しくなるわよ」

クレアは俄然はりきった。

麻也は細かい作業手順を教えたり、逆にハノウ山特有の知識を得たりして大満足だった。

ハノウ山のみんなと一緒に食事をしていたら、

「ルドルフの奴ら、いつまで帰ってこないつもりだ」

と誰かが言った。

ルドルフって、来るときに会ったわよね。と麻也は思った。

「あいつらがいないことにゃ、せっかくみんなで作った手工業品を街に卸せないじゃないか」

「宮殿のシンドレッド様に粗相を働いて拘留でもされてるんじゃないのか?」

みんな口々に言った。

「あのー、たぶん、もうすぐ帰ってくるわよ」

麻也が言うと、

「なんでわかる?」とつめよられてしまった。

「そうね。そろそろ私も、このくらいで帰ろうかなって思うし、ルドルフ?たちもなにかやってることに飽きたころだと思うの」

麻也はそう言うと、ハノウ山の皆に惜しまれつつ、別れを告げて、街へ下りて行った。

「私、きっとまたここに来るわ」と、そう言い残した。

麻也には、そんな確信めいた思いがあった。




第18話☆再び入れ替わるシンドレッドとルドルフ




何度かケイチと絵礼にひっぱられてシンドレッドは王宮へ出向いた。

「おい、お前、本当にあのシンドレッドなのか?別人みたいだぞ。大丈夫か?」

とルドルフが思わずシンドレッドを問いただした。

シンドレッドはどうでもよさそうにのほほんとして、

「まだ帰れないのか?私はこやつとかけあい漫才をする気はないぞ」

と言った。


「何を言われるのです。このルドルフなどに王位がつとまらないことはこの頃の民の不満のつのりと訴えで明白なのですぞ。シンドレッド様、今こそお力を示されてください」

「具体的に何の訴えがあったんだ?」

「干ばつで農業がうまくいっていません。湖の水を引く事業が滞っています。他にも……」

「…………」

シンドレッドは無言で窓の外を見やった。

「私のしていることは民のためにならないのか?」そう自問自答した。


絵礼はシンドレッドのために即興の詩をうたった。

「……白亜の宮殿

  長い回廊に続く

  赤い絨毯の上に

  陽光と

  色鮮やかな花びらの群れが

  降り注ぐ

  まるで未来を祝福するかのように


  あなたは前へ歩いて行く

  明るい日差しの中

  沢山の人たちに囲まれて

  それは

  長い道程のほんの刹那の物語……」


「さあ、シンドレッド様。我が王」

ケイチがシンドレッドの背中を押した。

「ふん。王位なぞ、くそくらえだ。めんどくさい公務がわんさかあるし。俺はのんびりとした生活で好きな時に好きなことがしたい。それに大勢の人間に無条件でちやほやされなきゃ駄目なんだ」

とルドルフがやけくそで言った。玉座に座っていた間にかなり厳しい現実を思い知らされたらしかった。


「とっととハノウ山に帰るぞ」

「いえーす」

仲間に呼びかけると、彼らも異議は無いようだった。

「ここでの暮らしには飽きました。ハノウ山へ帰ろう」

「もう酒池肉林ごっこも終わりか……」

「ちょっと!それどういうこと!?」

集まっていた女たちが男たちに詰め寄った。

「お別れだよ」

「冗談じゃないわ。責任取ってよ」

「もう、今までみたいに贅沢はできないんだぜ」

「だけど、こどもができたのよ!」

「ええ!?」

男たちはたじろいだ。

「リーダー。どうしましょう?」

「責任取って結婚するしかないだろう」

「ええ!?」

「ハノウ山に花嫁を連れて帰るぞ!」

「わー!!!」

てんやわんやだった。

「俺、嫁さん三人」

「リーダーなんて五人だぞ」

「ハノウ山ならなんとでもなるって!」

ルドルフが顔を赤くして言った。


「王なんて仕事は寂しいものだな。お前がマヤとかいう娘に入れ込んでいた気持ちもわからなくはないぞ」

とルドルフは言った。

「私はお前のように集団で群れるのは性に合わないんでな。即位してからもこの前までなんとかもってはいたんだがな……。また続けられるかは正直自信がないぞ」


シンドレッドは徐々に以前の威厳を取り戻しつつ言った。眼光に鋭さが戻り、責任に対する心構えを思い出していた。


「そこにいるエレとかいう娘もいつかいなくなるんだろう?いる時はいる時でうるさくてかなわんが、いつかいなくなるのかと思うと寂しい気がするのはなぜなんだろうな?」

とルドルフはぶつぶつ言った。

「寂しがりやめ。寂しいからハノウ山へ帰るのか?」

「そうさ」

とルドルフはそっと笑った。シンドレッドも笑った。

二人は立ち上がり、前へ進み、そのまますれちがうと立場を入れ替わった。




第19話☆デルムントの誤算




「ただいまー。みんな元気だった?」

両手を振って麻也が宮殿に帰ってきた。

「麻也……」

絵礼は全身の力が抜けてしまう気がした。

妹が無事だった安心感と、そして交錯する奇妙な感情。


「マヤ。マヤ!本当にあなたなのか?」

シンドレッド王は走り寄ると、麻也の両手をにぎり、喜びにうちふるえた。

「ええ。正真正銘、まじりっけなしの麻也でぇす」

麻也はハノウ山で得た知識をもとになにか新しいことを始めたいという話をした。

シンドレッド王は麻也の目を一心にみつめながらその話に耳を傾けた。

「そういえば、私と入れ替わりに、ルドルフ?とかいう人たちここにいなかった?」

麻也が問うと、ケイチが深い深いため息とともにこれまでのいきさつを説明した。

「そうなの。ハノウ山で、みんながあの人たちを待ってるのよ」

「皆、帰るべき場所へ帰ったのです」

とケイチは言った。


「この気持ちは……何?」

麻也たちから少し離れて突っ立ったまま、絵礼は身動きできずにいた。

確かに麻也が戻ってきたのは嬉しいのだ。だが相反する気持ちが彼女の心にわきあがってくる。

「ねえ?たった今まで絵礼のことを見て、絵礼の話を聞いていたシンドレッド王が、今、どうしている?」

絵礼は文字通り凍りついてしまった。

「麻也。愛しくて憎い私の妹。どうしてあなたは宮殿に戻ってきたの?あのままあなたさえ戻らなかったら、私はシンドレッドのそばで微笑んでいられたのに」

そう思うと、絵礼の握りこぶしがふるふると打ち震えた。


 ぽん。

絵礼の肩の上に誰かが手を置いた。

のろのろと振り向くと、デルムントが相変わらずの皮肉っぽい笑みを浮かべて立っていた。「元の世界ホームワールドへ帰るきっかけの『ゆらぎ』がもうすぐ現れるんだが、まだ帰る気はあるかい?」

「帰る……?元の世界ホームワールドへ……?」

「そう。ご両親や友達や、いろんなものが待っている元の世界ホームワールドへ」


絵礼はうなだれて、そしてこっくりうなずいた。


「ああ、でも、それなら麻也も一緒に連れて帰らなきゃ。……麻也も帰る?……そうしたらシンドレッドはどうするかしら?私たちがいなくなった後、どうなるかしら?麻也がいなくなったらシンドレッドはまた私を必要としてくれるかしら?……こんなこと考えちゃ駄目だ……」


 ぐらぐらぐらぐら。

絵礼の心は大きく揺れ動いた。


「そうそうその調子だ。絵礼の心の『ゆらぎ』が最高潮に達したら時空の『ずれ』が発生する。そのエネルギーで、やっと約束通り彼女たちを元の世界ホームワールドへ戻してやることができるぞ」

デルムントはじっと絵礼をみつめた。


「……シンドレッドが私をまた必要としてくれるのならば、私はここに残りたい!本当に何もかもそのために無くしたってかまわないとさえ思える。……この気持ちは何?何なの?……でも、私がここに残ったら、麻也も帰れないかもしれない。……そうしたらまたシンドレッドは麻也だけを見て私なんて必要なくなる」

出口のない迷路のような試行錯誤。ひきさかれそうな二律背反。


 帰りたい。帰りたくない。


 麻也をみつめるシンドレッド。絵礼をみつめるシンドレッド。


 デルムントは絵礼の感情の波のある一瞬を待ち構えていた。

『今だ!』

デルムントはそう叫び、……そして。

次の瞬間、デルムントは驚愕の表情を浮かべた。

「これは……なんだ?」

今までこんなことは一度もなかった。予測した『ゆらぎ』はいつもデルムントのものになったのに、なぜだろう、この時に限ってデルムントは『ゆらぎ』をつかみそこねた。

絵礼の心の『ゆらぎ』は確かに出現したのに、発生すると同時に消滅してしまったのだった。


「……どうしたんだ?絵礼、あんた、元の世界ホームワールドに帰るつもりだったんじゃないのか?」


すると、悩みうつむいていた絵礼の表情に変化があった。

瞳に光が宿る。

「私……」

きらきらきら……。

この時、デルムントは信じられない思いだった。絵礼の瞳は本当に音をたてそうな程きらめいていた。


「私、思ったの。この先麻也がシンドレッドと一緒にいて、彼が二度と私の方をみてくれなくなったってかまわない。もう一度見てみたいものがここにはある。だから帰れない。帰らない。私はこの世界に残る」

「なにぃ?」

デルムントはぽかんと口を開けて絵礼を見た。


予想外の展開。未知の事態。

彼自身、自分の数奇な境遇に戸惑いこそすれ、こんな場合にどうすればいいのやら途方に暮れた。


「ごめんなさいデルムント。あなたの親切は忘れないわ。本当にありがとう」

「いや、あの、待て。あんたの気が変わった理由!それを聞かせてくれ。もう一度見てみたいもの、ってなんなんだ?」


「赤い絨毯と花びら」


「???」


絵礼は夢見るまなざしになった。

「もう一度見てみたいの。太陽の日差しを受けて人々に祝福されながら長い回廊を歩く王の姿。今の王でも、それこそその子孫の姿でも構わないわ。王の足元を導く赤い絨毯。頭上に降り注ぐ花びらたち。あの夢のように美しい現実を。だから私、ここに残りたいの」


にっこり。

最高の微笑みを残して絵礼はデルムントの前から立ち去った。


 なんという誤算だろう?

デルムントはやがて、大事な帽子を地面に投げつけ、頭をかきむしり、その場にしゃがみこんだ。


「……だめだ、こりゃ」




                    ☆終わり☆





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