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第4話 思い出のスキレットカステラ

 ガラス窓をゆっくりと水滴が流れ落ちていく。朝晩が冷え込みだして数日、秋雨が続いていた。

 僕はよく磨かれたキャラメル色の合皮のソファーに腰を据え、窓に向けていた視線をゆっくりと目の前に向けた。青ざめて、俯いている女性は角が丸くなり、赤茶に艶めいたテーブルの上に乗った書類を震える指先で恐々と触れていた。


「以上が、調査結果です」


 凛とした声が静かに響いた。ノスタルジックな店内に静かに流れるジャズの合間に、女性が鼻を啜る音が響く。女性の見つめるそこには恐らく彼女の希望を砕く結果が記載されていたのだろう。ズンと重い空気が僕達を包んだ。

 僕は居た堪れなくて、視線をウロウロと彷徨わせる。メディアに顔を出す程の名探偵と言えど、受ける仕事は華やかなものばかりではない。

 今回の依頼は――まぁ、守秘義務というものがあるから女性の涙で察してほしい。


「……ご希望でしたら、良い事務所を紹介もできますよ」


 重い空気のなか、静かで優しい壮太さんの声が響き、俯いて書類を凝視していた女性がゆっくりと顔をあげた。その面差しには憂いも迷いもなく、少しの怒りとスッキリとした先を見据えた瞳だキラキラと輝いていた。

 壮太さんの言葉にお願いしますと短く呟いた彼女は書類をまとめ僕達が容易した茶封筒に納め直すと、それを鞄へと収め、冷えてしまった珈琲をまるでエナジードリンクのように飲み干して立ち上がった。そうして机の上にカフェの代金を置くと深々とお辞儀をし、彼女は颯爽と店を出て行った。外は相変わらずの雨だったが、彼女の背中はまるで晴れ晴れとした青空の様に清々しいものだった。


「探偵をやっていて、一番嫌な仕事だね」


 さっきまで凛としていた声が意気消沈したような声に変わる。僕は少しだけ肩を落とした壮太さんの手をそっと握って、その方にこてりと頭をのせた。優しい彼は、人の傷つく様を見るのが好きではない。それでも、そう言う人を救いたいという気持ちで探偵をしていると、出会った当初僕に言った。


「……それでも、壮太さんが探偵だったから、僕は救われたんですよ」


 僕の言葉に壮太さんがへにゃりと微笑む。それを見て僕は少しだけホッと息を吐く。


「ね、和戸くん。カステラ食べたいな」


 彼のおねだりに思わず郷愁に駆られ、僕はついそう遠くない過去を思い出す。あの日も、今日みたいに雨だったな。もう一度窓の外を見てから、僕はテーブルに設置されたベルをチリンと鳴らした。



***


 秋雨が窓ガラスをしっとりと濡らすような気候のせいか、古びた店内は閑散とし、いつも以上にノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。きちんと清掃された店内はこぢんまりとしているが、良く磨かれたキャラメル色の合皮で作られたソファーのボックステーブル席が三つ、赤茶色に艶めいたカウンター席が六席、二人掛けのテーブル席が四席とそこそこ座席数があり、普段なら常連客の誰かしらが居るはずだが、この天気のせいかまもなく昼を過ぎるとい生憎と誰もいなかった。

 カウンター内でグラスを磨きながらこの店のマスターである刑部きょうぶさんがしょんぼりとした声を出した。


「今日はもうお客さんこないかなぁ」


 カウンター内でしょんぼりする老紳士に僕はカウンター席の端に座りながら苦笑をうかべる。


「僕がいるじゃないですか、刑部さんてば」

「そうなんだけど。てか和戸くんこそいいの?バイトでもないのにこんな寂れた喫茶店で時間を持て余して」


 若いんだからもっとハイカラな店とかいかないの?なんて小首をかしげる姿が小動物のようで思わず頬が緩む。

 刑部さんがオーナーのこの喫茶店【アーサー】に出会ったのは偶然だった。大学の帰り道、道端で体調を崩していた刑部さんを介抱するために訪れたのが始まりで、店内の雰囲気の良さと刑部さんの淹れる珈琲に魅了され、気が付けば常連になり臨時のバイトになり現在進行形で正式なバイトとして雇われていた。

 大学のレポートもこの店でやると随分と捗るのだ――と何度も刑部さんに伝えているのだが、まだ二十歳そこそこの自分がいわゆるチェーンのカフェではなく、喫茶店にいるのは青春の無駄遣いではないかと。一人で訪れる度にこう、たびたび心配されていた。


「いいんですよ。僕はアーサーが好きなので。それに……最近はそういうところ苦手になっちゃって」


 アーサーに通う前はそれなりに騒がしいところに顔を出すこともあった。恋人もいたし、飲み会にも参加した。でも、ここ最近それを避けている。いや、避けずにはいられないのだ。


「何か、あったのかい?」


 僕の感情の機微を感じたのか刑部さんが珈琲のオカワリを淹れてくれながら優しく声をかけてくれる。その優しい言葉と表情に、今自分を取り巻く不安がドッと胸を圧迫し、ヒクヒクと喉が引き攣るのを感じた。どうしよう、言ってしまおうか。そう決意し喉を振り絞ろうとしたときだった。

 カラン、カランとドアベルが鳴りザァッという雨音が店内のジャズと混ざり合った。弾かれたように二人で入口に視線を向ければ、そこには藍色のトレンチコートを着た背の高い男性が立っていた。


「これは、なんとも当たりのようですね」


 軽くコートについている水滴をハンカチで拭いながら穏やかな口調で男が呟く。まるでメンズ雑誌から飛び出してきたような人に僕があっけにとられていると刑部さんがにっこりと笑いながらタオルを手に持ってその男性へと近づいて行った。


「今日は来ないかと思っていたよ、鸚鵡くん」

「いやぁ、どうしても刑部さんが自慢されるカステラが食べたくなってしまって」


 今日は当たりの日でしょう?なんてこんな雨の日のどこが当たりなのだと疑問しかわかなかったが、彼の言葉に刑部さんもニコニコと笑いながら「うん、当たり」なんてラフな口調で返答した。

 元々の知り合いなのだろうか、僕の知らない時間帯に来る常連さんだろうか? 大学のある時間帯には基本的に店に居ることはないから、その時間帯に来るお客さんの顔は知らない。そんなことを考えていると、僕の不思議そうな視線に気が付いたらしい彼とはたりと目が合った。日本人にしては少し色素の薄い目が優しそうに僕を見つめ、目尻を下げた。


「紹介するよ、和戸くん。鸚鵡 ほうむ壮太そうたくんっていってね、うちの店の常連さんの一人だよ」

「あ、えと、和戸わと たつみです。初めまして」

「初めまして、和戸くん。紹介にあずかりました、鸚鵡 壮太です。君に会いたかったんだ!」


 流れるような所作で僕の側に歩いてきた彼は、まるで映画の貴族のように僕の手を取ってその手の甲にキスをした。ビックリして固まっている僕に刑部さんはコラコラと彼の背を叩き、此処は日本だからねと窘めていた。

 海外の人なのだろうかと理解が追い付かないでいる僕に刑部さんに紹介された彼は家系的にそういうもので――と少しだけ恥ずかしそうに笑った。凄く格好良いのに、その笑顔はなんだか大型犬のようでさっきまで張り詰めていた気持ちが少しだけ楽になった。


「ところで、あの、どうして今日が当たりなんですか?こんな雨なのに」


 コートラックにトレンチを引っかけた彼が慣れた様子でカウンター席に腰を下ろす。それを見届けた刑部さんがニコニコと笑いながら僕の問に答えた。


「彼、君のカステラが食べたくて通ってきてたんだよ。でもタイミングが全然合わなくてね」

「え?僕のカステラ?」

「そう、君の。オフのところ悪いけど特別ボーナス出すから作ってあげてくれる?」


 僕はチラリとコートを脱いでかっちりとしたライトグレーのスーツを身に纏った客人を見る。カウンターに肘をついて、手を組み合わせ、お願いできるかな? と女性ならうっとりしてしまう……いや、正直男でもドキッとしてしまうような眼差しを向けられて僕は少しだけおどおどとしながら頷いた……。



****

 これが、僕と壮太さんの初めましてだった。

 あの日の事は今でも色鮮やかに思い出せる。美しいモデルのような男が、僕の作ったカステラを見てまるで子供の様に大はしゃぎだったのだから。


「和戸くん、和戸くんってば」


 声を掛けられ過去にトリップしていた意識を慌てて現実に引き戻す。沈んだ様子を見せていた壮太さんはいつのまにかいつも通りになっていて、テーブルの側にはオーナーの刑部さんがニコニコと変わらない笑みを携えて立っていた。


「仲睦まじいねぇ」

「……からかわないでくださいよ、オーナー」

「いやぁ、ほら、私、君たちのキューピットみたいなものだろう?なんだか嬉しくって」

「刑部さんのおかげで、僕は最高のパートナーを手に入れましたからねぇ」


 クスクスと笑い合う二人に居た堪れなくなる。あの雨の日、僕の悩みに気が付いた刑部さんの勧めで壮太さんにストーカー被害に遭っていることを相談した。最初は探偵さんにそんな相談をしても……と諦め半分、誰かに知ってもらえたら気が楽になるかもという気持ち半分での相談だった。

 男がストーカーされているなんて警察にも相談しにくかったこともあったから、言うだけ言ってスッキリした気持ちになれただけでもよいかと思っていたが、壮太さんは親身になって話しを聞いてくれて、それからあっと言う間に僕の問題を解決した。

 まぁ、その時に彼が世間を騒がすイケメン探偵だったと知ったのだけど。ストーカーに悩まされていた僕はそんな世間の話題を拾う余裕がそのころにはすっかりとなかったのだ。だから、彼がその手腕を持って解決してくれた時は心底ほっとしたものだ。


「吊り橋効果を利用して可愛い和戸くんを言いくるめてしまった感はあるんですけどねぇ」

「まぁ切っ掛けではあったよね。でも、鵬鵡くんめちゃくちゃ熱烈だったからそれだけではないと思いたいけど」

「いやぁ、だって、あのカステラでまず胃袋掴まれましたから、僕」

「男はなぁ、そこに弱いからねぇ」


 刑部さんの生暖かい眼差しに僕は思わず、うっとたじろぐ。じわじわと頬が熱くなっているのを感じて思わず顔を隠してみるが、きっと首まで赤くなってる。そんな僕をみて、刑部さんと壮太さんがクスクスと楽しそうに笑う。


「ね、久しぶりにカステラ食べたいな」


 あの日、初めて僕にみせたような微笑みをうかべておねだりをしてくる壮太さんに僕は小さく呻いてゆっくりと立ち上がる。キッチン、貸してくださいと刑部さんに言えば彼もまたにこにことあの日と変わらない優しい笑みを浮かべ「私も食べたいな」なんておねだりしてくる。


 全く、この人達は!

 僕がおねだりに弱い事を知っている、悪い大人たちだ――なんて思いながら、まんざらでもない気分で僕は刑部さんからエプロンをうけとり、カウンターの中に入っていった。

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