つい先日までは秋が訪れたと思うような気候の筈だったのに、今日はまるで真夏が帰って来たようだった。じっとりとした疲れが汗と共に体に纏わりつく。
ラベンダー色と茜色が綺麗に混ざった空を見上げながら、僕は一つ息を吐いた。
「体が追い付かないな」
自然現象に文句を述べても仕方がないとは思うものの、こうも頻繁に気温の変化があっては体の調節もうまくいかないし、服装だって困ってしまう。衣替えをしてしまいたいのに、しきれなくて中途半端に出した衣類がクローゼットを圧迫しそうだから、近日中に片付けてしまおうと決意をし、取り敢えず今日は見ないフリをした。
「そろそろ帰ってくるかな……」
壁に掛けられた古びた振り子時計が、間もなく17時半を告げる。良い子はお家に帰る時間で、ホワイト企業のサラリーマンもきっと帰路についている。
さて、ここの家主はどうだろうか。今日の仕事は彼が本業としている探偵業の一環で、警視庁を訪問している。
世間一般の探偵業は不倫や浮気の調査がメインだというのに、壮太さんだけはまるでドラマや漫画の世界で生活しているかのようだった。
「夕飯、何にしようかな」
気だるい体では食欲がわかない。どうしたものかと考えていると、テーブルに放置していたスマホがブルリと振動した。帰宅の知らせかと手に取ってみれば、メッセージに一枚の写真が添えられていた。
「フフッ、嬉しそうな顔しちゃって」
スマホの画面を指で突き、僕は気合を入れ直しキッチンに立った。
窓の外はすっかりと藍色に染めかえられ、日中の暑さが漸く姿を潜めた。僕は冷蔵庫の中身を確認し、彼の帰宅に合わせ、夕食の用意をする。
今日のメニューは――
***
「和戸くん、お腹空いた!」
玄関が開くと同時に掛けられた声に頬が緩む。
まったくこの人は相変わらずだと玄関先まで出迎えてやれば今朝方カッコよくダークグレイのスーツを着ていた筈の男は、ジャケットを腕にかけYシャツの袖を捲り額に汗をうかべて大型犬よろしくニコニコと両手を広げて僕を待ち構えていた。
僕はその子供のような笑顔と、スーツスタイルというちぐはぐさに噴き出しそうになりながら期待に満ちた顔を見て、広げられた手の先にある紙袋だけを受け取った。
「ハグは!!???」
「汗だくでしょ、壮太さん」
「冷たい!」
「お出迎えはしましたけど?」
お帰りって言って!可愛く抱きしめられてよー!なんて我儘もいいとこだ。汗だくの大男に抱きしめられる身になってほしいと非難の視線を向けて見るも、28歳児と化した彼は煩い。ハグして、お帰りってしてと何度も言いながら笑顔から一転、拗ねていじけた顔をしている。カッコよくセットされていたはずのくせ毛すら、彼の気持ちのバロメーターに従うようにくたくたになっているようにさえ見えた。
僕は呆れたように溜息をつき、未だ開かれたままの壮太さんの大きな手を取って、ぎゅっと握った。
「はいはい。お手手、洗ってくださいねー」
「……子供扱いする」
「我儘を言う28歳児にはちょうどいいでしょう?」
唸りながらも手を離さないのは不満はあれど、此れはこれで良しとした――ということだ。僕はそのまま彼を洗面所兼脱衣所に連れて行き、皺にならないように彼の腕からジャケットを受け取って、少しだけ緩められたネクタイを引っ張り、汗ばんだ頬にキスをする。
「おかえりなさい。コレ、冷やして待ってますから早く出て来てくださいね」
「わ、和戸くぅん」
チューしてくれたと飛び跳ねそうなほど喜ぶ大男を置き去りにし、僕は手にしたジャケットをクリーニング用のバスケットに形が崩れてしまわないように気を付けて入れ、キッチンへと戻る。
彼から受け取った紙袋の中身をいそいそと出し、可愛いラベルを一時眺める。仕事先で貰ったと連絡が来てからずっと楽しみにしていた。
「洋梨にエルダーフラワーにピーチ!どれにしよう……」
アンティーク調で可愛らしい絵柄のフルーツが描かれたラベルの付いたボトルが数本。北欧やヨーロッパ圏で良く飲まれているスナップスというお酒を彼は持ち帰ってきた。ハーブなど様々なもので作られた蒸留酒の一種で、これを見たときから今日の夕飯のメニューは決まっていた。
冷蔵庫に瓶を納め、テーブルのセッティングに取り掛かる。円卓の真ん中にはユーカリを活けた花瓶とキャンドルを。それからキャメル色の麻のランチョンマットを敷いた。そのうえに、バターでじっくり炒めた玉ねぎと茹でた卵、アンチョビを効かせたフィンランドの定番メニュー「おじいちゃんの栄誉」を満月の様に真っ白いお皿に盛りつけて、そのサイドにはクネッケブロードとディルを添えてランチョンマットの上へ。
大皿にはミートボールとマッシュポテトにコケモモのジャム、それから普通のトマトソースを用意して。鍋の中にはキャロットスープ。口直しのバケットも用意は完璧だ。
「あぁ、いい香り」
上質なグレーのスウェットに紺色のジョグパンツを履いた壮太さんが、肩にタオルを掛けたまま食卓へとやって来た。
あぁもう、また髪の毛を適当に乾かして。それを視線で語ってやれば、壮太さんはお腹を押さえて空腹を訴える。そんな仕草がやっぱり大柄な体には合わなくて、すっかりと毒気が抜かれてしまう。仕方がないなと椅子を引いてあげれば、嬉しそうに腰を下ろした。
「今スープとスナップス用意しますね」
「あ、僕も手伝うよ」
「じゃぁ、お願いします」
座ったのに直ぐに立ち上がり、手伝ってくれる。こういう所、きっと女性ならキュンとしてしまうだろう。
彼がスープをよそっている間に、冷蔵庫でしっかりと冷やしたスナップスとグラス、それから氷とトニックウォーターを用意して、キャンドルに火を灯す。
スープをトレイに載せて持ってきてくれたので、席について彼のサーブを待った。トレイからスープを食卓に置いた彼は、そのまま照明をダウンライトへと変える。キャンドルの暖かいオレンジ色の光が部屋を優しく灯し、まるでレストランのようなムーディーな雰囲気に包まれた。
「あれ、ショットで飲まないの?」
テーブルの上のトニックウォーターと自分の席にあるロックグラスを見た壮太さんが不思議そうに声をかけてくる。スナップスは普通ショットで飲むことが多いが、度数がかなり強いのだ。
「……今日はね、暑かったし」
歯切れ悪く応えた僕に壮太さんが首をかしげる。熱中症にでもなった?お酒止めておく?と心配そうにする彼のロックグラスに氷と、エルダーフラワーのスナップスを注ぎ入れれば、ふわりと爽やかな花の香りと僅かにハーブの良い香りが漂った。
「和戸くん?」
「……だって、寝ちゃうじゃないですか、壮太さん」
僕の言葉に頭のいい彼は直ぐにその意味を察知する。僕の手からエルダーフラワーのスナップスを取り、僕のランチョンマットに置いてあるシャンパングラスにトニックウォーターと一緒に注ぎながら、形の良い唇の口角がニンマリと上がる。
「ねぇ。それはさ、寝かさないで……ってこと?巽」
甘い声に、うっと言葉が詰まる。僕はまだ、飲んでもないのに体が茹りそうで、頂きますを言う前に彼の口に皿の上に鎮座する栄誉の塊をひとかけら捻じ込んだ。
「くっ、美味しいっ……こんなお酒の進むもの作っておいて、酔うほど飲むなって……まったく」
――意地悪だなぁ、巽は。
揶揄うような声色に、僕はもういいでしょう!と頂きますの先陣を切った。