八月五日。
高校最後の夏も暑かった。
八月に入ると暑さはさらに強まって、 まだ朝なのに一歩動くだけで汗が噴き出す。
暑くて暑くて仕方なかった。
今日も朝から天気がよかった。だけど夏は曇りくらいがちょうどいいと思う。
私は近所の神社でラジオ体操をして帰ってきた弟と妹を横目に遅めの朝ご飯を食べる。
窓の外では青空に真っ白な雲がポツンと一つ流れていた。あとは全て田舎の風景だ。
広い庭の奥には山が見え、その麓には田んぼが広がっている。木は青々と生い茂り、田んぼや畑の間には川が静かに流れていた。
古い県道が山の間を縫うように通ってるけど、車の姿はまばらだ。
蝉はもう鳴き始めていて、それがただでさえ憂鬱な気持ちに拍車をかける。
どこからどう見ても田舎だ。今の時代は郊外ですら庭に井戸はないだろう。車も二台庭に駐まっている。お母さんの軽自動車とお父さんのミニバンだ。
玄関ではお母さんがご近所さんと話している。
話の内容はくだらない世間話だ。田舎ではすぐに噂が広がる。
どこどこの家の息子が受験に落ちて留年している。あっちの男は三十になってもフリーターらしい。あそこの娘は離婚して戻ってきたそうだ。
他にも細かいことからあることないことまで、噂話は暇で刺激が少ない人達の大好物だ。
これがイヤで田舎を出て行く人も多い。良くも悪くも人間同士が近いから、一人でいさせてくれない。まあ、あたしみたいな寂しがりにはちょうどいいけど。
麦茶を飲みながらいつも通りの景色をぼーっと眺めているとお母さんの声が玄関から飛んできた。
「愛花。あんた友達と待ち合わせてるんじゃないの?」
「……え? あ。もうこんな時間か……」
居間の掛け時計には七時四十分を指していた。
夏休みの図書室は八時半から開く。あたしは毎日そこで友達と一緒に勉強していた。
待ち合わせ場所のコンビニまではここから自転車で十五分くらいかかる。そこから高校まで歩いてさらに五分かかるから、八時には家を出ないといけない。
なのにあたしはまだ朝ご飯にほとんど手を付けてなかった。
食欲がない。昨日の夜からずっとだ。いつもは出されたものはなんでも完食するのに。なんならおかわりだってするあたしが目の前のハムエッグに苦戦していた。
食べられなかった。卵もハムも見たくない。見るだけで思い出してしまう。
昨日見た光景が寸分違わず脳裏に映し出される。
「……なんか食欲ない」
あたしが立ち上がると玄関から戻ってきたお母さんはびっくりしていた。きっとそんなことを言うのが初めてだからだ。風邪の時だってごはんだけは食べていた。
「……しんどいの? だったら今日は休んだら? べつに行かないとダメってわけじゃないんでしょ?」
お母さんは心配そうにあたしの顔をのぞき込む。
それも何度も考えた。でもイヤだった。一人になりたくない。一人でいたら否応なしに考えてしまう。昨日のことを何度も何度も。
だからあたしはなんとか笑った。
「大丈夫。多分今だけだから。途中でコンビニ寄って多めにお昼ご飯買っとくし」
笑顔を振り絞ったあたしに対してお母さんは疑いの目を向けた。
勘づかれたんじゃないかと思ってドキッとする。
「……あんた。まさかお菓子食べたいから朝ご飯食べない気じゃないでしょうね?」
「…………へ? いや、ないって。子供じゃないんだから。それにお菓子ばっかり食べたら太るじゃん」
あたしはなんとか苦笑いして乗り切った。
よかった。気づいてない。この前ダイエットするからおかず減らしてって言っといたおかげだ。そのダイエットも二日で終わったけど。三日坊主にすらならなかった。
お母さんは怪しんでたけど、それ以上は言わなかった。
それから重い体でどうにかパジャマから昔ながらのセーラー服に着替えるとあたしは力なく「いってきます」と言って家を出た。