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Phase 01 思わぬ再会

 私は他の人と比べて特段優れている人間じゃないし、特に何か特別な才能を手にしている訳じゃない。言ってしまえば普通の人間である。

 とはいえ、「普通」の定義は曖昧あいまいなので、もしかしたらどこかで「ズレ」が生じている可能性もある。その微妙な「ズレ」が、私を苦しめているのだろう。

 一応、私は小説家という職業に就いているが、その実態は「売れないミステリ作家」である。公募の原稿を送った先――溝淡社こうたんしゃで自分の才能を評価されて、なんとか商業デビューまで漕ぎ着けたのはいいけど、実際に自分の小説を手にしている読者は少ない。溝淡社の中でもクセ者作家が集う「文芸第三出版部」に所属していることもあって、私のような泡沫作家は他の才能あふれる作家に埋もれてしまうのだろう。それでも、私はこうしてダイナブックで原稿を書いている。というか、当たり前の話だけど原稿を書かないと赤字になってしまうのだ。

 サブスクで自分の好きなアーティスト――hitomiの懐かしい曲を流しながら、小説の原稿を書いていくのだけど、最近はネタ切れで苦しんでいた。いくら小説家といえども、アイデアの枯渇は避けられない状況にあるのだ。登場人物や殺人のトリックを考えるのも一苦労だし、せっかく考えたトリックはすでに他の作家が使っていたということもザラである。――正直、筆を折りたい。そういう状況にある今の私にできることはなんだろうか? 私はそこにあったボールペンを転がしながら小説のアイデアを考えていた。どうせ、ボールペンを転がしたところですぐにアイデアは浮かばないのだけれど。

 そして、転がしたボールペンは――テーブルから床に転げ落ちた。拾わなければ。

 床に落ちたボールペンを拾って、私は改めて小説のアイデアを考える。でも、やっぱり浮かばない。これはいわゆるスランプだろうか。

 仕方がないので、私は執筆作業を中断してダイナブックの電源をシャットダウンした。――どこか、遠くへ行くべきだ。

 私の住んでいる場所――芦屋あしや――から遠い場所。西宮じゃ近すぎるし、神戸はもっと近い。辛うじて尼崎まで出ると「遠い」と感じるけど、やはり兵庫県内であることに変わりはない。ならば、ここは思い切って大阪か京都に行くべきか。

 そう思った私は、阪急の芦屋川駅でイコカを通して――アテのない旅へと出かけることにした。十三じゅうそう駅まで出たら、そこから先は行き先不明である。

 スマホを経由したワイヤレスイヤホンからは、hitomiの曲が流れている。私は古い人間だから、新しい音楽に馴染めない。故に、古い曲を聴いてしまうのか。

 やがて、十三駅に着いたところで――行き先は定まった。思い切って京都まで出てしまおうと思ったのだ。

 十三駅で電車を乗り換えて、一気に京都まで向かう。十三駅から目的地である烏丸駅までは1時間弱あるので、スマホから音楽を流していなければ退屈になってしまう。

 車窓からは田園風景が見えている。長岡京駅を抜けるまではこういう景色しか映らない。それに、トンネルも長い。――眠ってしまいそうだ。


***


「――次は、烏丸からすま、烏丸駅です」

 私はワイヤレスイヤホンを貫通するそのアナウンスで意識を覚醒させた。――どうやら、眠っていたらしい。

 再生していた音楽を停止させて、ワイヤレスイヤホンを外し、下車する準備をした。烏丸駅と終点である京都河原町駅は短い距離で100円も運賃が違うので大抵の人間は烏丸駅で下車を余儀なくされる。当然、私も烏丸駅で下車した。

 改札口を抜けて、地上へと上がる。――吹き返しの風で前髪が揺れそうだ。

 相変わらず、四条通という場所は賑やかである。京都でも一番の繁華街だから当然だろうか。――そもそも、日本という場所なのに日本語が全く聞こえない。外国人の群れを避けつつ、私は四条通を歩いていく。

 その日の天気は完璧なまでの快晴だった。――空が青い。

 アテもなく歩くのも申し訳ないので、私は烏丸の百貨店から四条河原町までひたすら歩くことにした。こうやって歩いているだけでも、小説のアイデアは浮かぶ……ドンッ!

「オラァ! どこ見て歩いとんじゃボケェ!」

 どうやら、私は怖いお兄さんとぶつかってしまったらしい。

 当然だけど、私は気付けづく。――正直、命の危機を感じていた。

「ごめんなさい……。どうせ私が悪いんです……」

 私は怖いお兄さんに対してそうやって言うしかなかった。それでも、相手は私を脅迫してくる。

「『ごめんなさい』じゃねぇんだよ、オラァ! 金出せ!」

 これは――ヤバいな。

 私は渋々財布から貴重な渋沢栄一1枚を相手に渡そうと思った。その時だった。

「――お前が、噂の『ぶつかり屋』か。悪いことは言わねぇから、そこのお姉さんを解放してあげたほうがいいぜ?」

 突然の闖入者に、「ぶつかり屋」と呼ばれた怖いお兄さんは――キレた。

「オラァ! お前は誰じゃ!」

 キレる「ぶつかり屋」に対して、闖入者ちんにゅうしゃ――男性――は自分の名前を名乗った。

「オレ? オレは『速水善太郎はやみぜんたろう』だぜ? 京都で探偵業を営んでいるしがない男だ」

 速水善太郎――えっ? 速水くん? 私は困惑した。

「ちょっと、速水くん、探偵やってるの?」

「お前は――平瀬彩香ひらせあやかだったな。お前のことはよく覚えているぜ? ――話は後だ。とりあえずその『ぶつかり屋』を警察に突き出してくれ」

「わ、分かった……」

 私は、自分のスマホで警察を呼び――「ぶつかり屋」をお縄につけた。


***


 そもそもの話、私と速水善太郎の付き合いは大学の頃までさかのぼる。互いに京都でも屈指の名門大学と言われるキリスト系大学――立志館りっしかん大学――の同期で、なおかつミステリ研究会という文系サークルに所属していた。立志館大学のミス研自体が有名な作家を多数輩出していて、私もその波に乗っただけのことである。ちなみに、専攻学科は文系とは真逆の理工学科で、小説家がダメなら神戸でシステムエンジニアにでも就職してやろうと思っていた。――結局、就活でお祈りメールを受け取った数は30社以上にも及んでしまったのだけれど。そして、就活で万策尽きた私は、わらにもすがる思いで溝淡社の文芸第三出版部に原稿を投げつけて、プロの小説家としてデビューした。デビュー時期は、多分就活のエントリー期限ギリギリだったと思う。

 一方、速水善太郎の方は――どういう訳か、就活の気配がなかった。就活に苦労している私をよそに「〇〇から内定をもらった」とか「〇〇の面接に落ちた」とか、そういう報告を寄せる気配が全く見受けられなかった。私は心の中で「速水くんはニート一直線なんだろうか」って思っていたけど、こうやって直に「探偵」としての速水善太郎を見ると――なんだか、彼のことが分からなくなる。どうして、彼は探偵業を営んでいるのだろうか?

 パトカーに乗せられて「ぶつかり屋」が連行される中、私は速水善太郎に対して質問をぶつけてきた。

「こんなところで速水くんに会うなんて、私――夢でも見てるのかしら? それはともかく、どうして探偵業なんかに? スマホでも全くそういうメッセージ寄越してこなかったじゃないの」

 私の質問に対して、善太郎は――申し訳無さそうに答えた。

「ああ、ちょっとした事情があってな。確かに、オレも就活に失敗してお前みたいに小説家になろうと思っていたぜ? でも、現実は上手くいかねぇ。そこで、オレはあることを閃いた。小説家になれないんだったら、実際にこの手で事件を解決する探偵になればいいって考えたんだ」

「ふーん。――それで、京都を拠点として探偵業を営んでるって訳ね」

「ああ、そうだ。とはいえ、京都だけじゃ仕事にならないからな。依頼さえ受ければ大阪や神戸で事件を解決することだって可能だ」

 そう言って、善太郎は手に持っていたサングラスを装着した。――ちょっと、かっこいいかも。

 そのうえで、彼は私にある提案を持ちかけてきた。

「そうだ、お前――オレの探偵事務所に来ないか? 事務所は四条河原町の一等地にある。コーヒーと軽い茶菓子ぐらいなら、用意してやるぜ?」

 私の答えは、言うまでもなかった。

「――良いわよ? 私、なんとなく速水くんの顔が見たいと思ってたし」

「そうと決まれば――行くぜ?」

 善太郎は自分の車――オレンジ色の日産GTR――を指さして、私に対して車の中に入るように伝えた。――煙草臭い。

「あの、私――煙草吸わないんだけど」

「悪ぃ。オレはヘビースモーカーだからな。ちなみに吸っている煙草は赤いラークだぜ?」

「そんなことはどうでもいいから、さっさと事務所へ連れてってよ」

「へいへい」

 烏丸から四条河原町まではそんなに距離がない。その割に、タクシーやら市バスやらで四条通は常に渋滞している。――完全に渋滞に巻き込まれてしまった。

 カーナビからはFM802が流れていて、DJがリスナーに呼びかけて大喜利をしている。

 ラジオを横目に、私は改めて善太郎と話す。

「こうやって速水くんと会うのって、何年ぶりかしら?」

 少し間を置いた上で、善太郎は話す。

「そうだな。――10年ぶりぐらいか? 最後に会ったのは、確か大学の修了パーティーだったような気がするぜ?」

「そうなのね。――10年経ったとはいえ、互いにあまり老けてないわね」

 私がそう言うと、善太郎は――高笑いした。正直ムカつく。

「ハハハ、お前はいつまでも変わらないぜ?」

「そう? お世辞じゃないでしょうね?」

「お世辞じゃねぇ。オレはお前を見てありのままのことを言っただけの話だ」

「――分かったわよ」

 それから、20分経ったところで日産GTRはようやく目的地――探偵事務所へと着いた。どうやら、四条河原町でも随一の高層ビルに事務所を構えているらしい。

 関係者用入口からビルの中へと入っていき、エレベーターで最上階――8階へと上がっていく。京都市内は建築基準法が厳しいから、基本的に31メートル以上――つまり、10階以上のビルを建てることができない。善太郎の探偵事務所があるビルは、そういう建築基準法のギリギリのルールの下に建っているのだ。

「――着いたぜ?」

 目の前に、「速水探偵事務所」と書かれた看板がある。ここが善太郎の探偵事務所なのか。私は事務所の中へと入っていった。

 大きな窓の後ろに、大きなデスク。――助手は雇っていないようだ。

 疲れていた私は依頼人が座る椅子に腰をかけた。――ダイナブック、持ってくれば良かったかな。

 私が椅子に腰かけたのを見たのか、善太郎は給湯ポットの電源を入れて、コーヒー用のお湯を沸かした。そして、戸棚からクッキーを取り出してきた。

「――食え」

 そう言われたからには、私はありがたくクッキーを頂く。クッキーの真ん中には赤いジャムが乗っている。――最近、この手のクッキーって見ないかも。

 クッキーを食べているうちに、コーヒーも出来上がったらしい。善太郎はカップにインスタントコーヒーを入れてお湯を注いだ。

 2人分のコーヒーをテーブルに置いたうえで、善太郎は赤いラークの箱から煙草を1本取り出して、火を点けた。――だから、私に紫煙を向けるな。

 煙草を吸いつつ、善太郎は話す。

「お前、小説家としてはどうなんだ?」

「どうなんだ? って言われても、売れてないとしか言いようがないけど……」

「そうか。――オレは、お前の小説を読んでるけどな」

「えっ? 私の小説を読んでるの? そもそも、ペンネームすら伝えてないのに」

「知ってるぜ? ペンネーム。――『卯月絢華うづきあやか』だろ?」

「よく分かったわね」

「分かったも何も、お前――立志館大学に在籍していた時からそのペンネームじゃねぇか」

「ええ、確かにミス研でのペンネームは『卯月絢華』だったわ。面倒だったから商業でも同じペンネームを使わせてもらっているだけの話よ」

「お前の商業デビュー作、ノベルスコーナーに山積みにされていたぜ? ノベルスが『オワコン』って言われていた中で、あそこまで山積みにされていたのはすごいことだと思うけどな」

「でしょうね。――溝淡社のご意向らしいけど」

 確かに、私の商業デビュー作は溝淡社ノベルスでの発刊だった。しかし、当時は「弊社のノベルスなんて売れない。売れるのは林博嗣と東尾維新だけ、京極冬彦は新作に対してやる気がない」なんて言われていた。そんな中でも、私の溝淡社における担当者は「ノベルスで発刊しましょう」って言ってきた。京極冬彦と舞城玉次郎のノベルスに殴られて育った身からすればこれまでにないほどのオファーだったから、私は二つ返事でそのオファーを承諾した。でも、販売形態がノベルスだから――売れるはずがなかった。爆死である。

 結果として私は「溝淡社文芸第三出版部のお荷物作家」という烙印を押されてしまい、発刊したノベルスはことごとく爆死していった。あまりにも爆死するから、やる気をなくして自傷行為に手を染めたこともあった。私はその度にhitomiの曲を聴いて、精神の平穏を保とうとしていた。

 そんな私に転機が訪れたのは――今からちょうど2年前だった。たまたまライト文芸レーベルである溝淡社タイガー文庫で発刊した小説がZ世代の間でバズったのだ。担当者曰く「自虐的かつ退廃的な文章がZ世代の共感を呼んだ」とのことであり、私は一躍時の人となった。――結局、一発屋だったのだけれど。

 とはいえ、一発屋でも印税はそれなりにもらったので、私は神戸から芦屋に引っ越して、それなりの生活を送れるようになった。

 そして、長期のスランプ状態に陥って現在に至るのだけれど――善太郎の顔を見たら、少し安心したかもしれない。

 私は、話を続けた。

「まあ、たまたま『棒人間の殺人』が売れたのは予想外だったけど。正直、売れるなんて思って書いてなかったし」

「そうだな。『棒人間の殺人』はオレも読ませてもらったけど、それなりに面白かったぜ? ――ああ、思い出した」

 善太郎は、何かを思い出したらしい。――言いなさいよ。

「思い出したって、何を?」

「実は、お前が書いた『棒人間の殺人』と類似した殺人事件が京都市内で相次いでいてな、ちょうどお前に対して事件の見解を聞いてみたかったんだ」

「事件の見解? どういうことなのよ」

「確か、『棒人間の殺人』って、そのタイトル通り『遺体を棒人間のように見立てて磔にして殺害する』という残忍な手法で人を殺していたよな?」

「そうだけど……それがどうしたの?」

 私がそう言うと、善太郎はプロジェクターの電源を入れて、壁に遺体の写真を投影した。

 遺体は、棒人間のように大の字になっていて、おまけに顔は何かで潰されていた。なんというか、顔に大量の硫酸を浴びせたとしか言いようがなかった。

「――そういう訳だ。お前の書いた『棒人間の殺人』も、犯人は同じような手口で相手を殺害していただろ?」

「確かに、そうだけど……もしかして、私の小説を真に受けた模倣犯がいるとでも言いたいの?」

 私がそう言うと、善太郎は大きく手を叩いた。

「その通りだ。もしかしたら、この事件はお前を恨む人間による犯行なんじゃねぇのかってオレは考えているぜ?」

 善太郎の考えは、あながち間違いではないかもしれない。私はそう思った。

「私を恨む人間か……。いるのかしら、そういう人間?」

「さあ、どうだろうな? 少なくとも、オレの周りにはいないと思っているけどな」

「でしょうね。そもそも、いる方が間違ってるんだもの」

 それから、善太郎は私に被害者の詳細を伝えてきた。

「――被害者は月下弥生つきしたやよいという女性で、年齢は27歳。職業はWebデザイナーだ。遺体は烏丸御池からすまおいけの近くの公園で発見されて、即座に司法解剖に出された。結果、後頭部に打撲痕が見つかったことから、死因は撲殺と見られているぜ?」

「それで、遺体の発見日時はいつなの?」

「発見日時は今から3日前だ。事件発生からそんなに日は経ってないな」

 今日は――9月9日か。3日前なら、9月6日だな。華金に殺害されてしまうというのもなんだか気の毒な話である。

「つまり、月下弥生は金曜日の夜に殺害されたってこと?」

「オウ、そうだな。監察医によると、死亡推定時刻は午後11時から午前3時の間で間違いないとのことだ。ただ、事件現場がここ――烏丸御池とは限らねぇ」

「烏丸御池とは限らない……。つまり、別の場所で殺害されたという可能性も考えられるのかしら?」

「もちろんだ。犯人は事前に月下弥生を殺害したうえで、遺体を公園に搬送して――磔にした。そういう可能性も考えられるぜ?」

 善太郎がそう言うから、私は顎をさすった。そして、話を結んだ。

「なるほど。――今のフェーズだと、犯人は私の小説を読んで犯行に手を染めたとしか言いようがないわね。多分、犯人は私を恨む人間で間違いないと思う」

 そうは言ってみたけど、大学で友達が少なかった私にとってそういう類の人間はいるのだろうか? いや、いないと思う。それどころか、私を恨むような人間は――皆無かいむだ。

 善太郎は、プロジェクターの電源を切ったうえで話す。

「当たり前の話だけど、この事件はお前が犯人だとは考えていないぜ? そもそも、オレとお前が再会したのはつい1時間前のことだしな」

「それはそうでしょう。――普通に考えて、芦屋に住んでる私がわざわざ京都に出向いて人を殺すとでも思ってんの?」

「それはないな。オレはお前を信じている」

「あら、そう。――ありがたい話ね」

 スマホの時計を見ると、時刻は午後5時を少し過ぎようとしていた。いくらなんでも、ラッシュ時を避けて帰らないと。

「じゃあ、私はこれで失礼するわ。――何か、変わったことがあったらすぐにスマホに伝えて」

「オウ、分かってるぜ」


***


 エレベーターでビルの1階まで戻って、来客用のエントランスから外に出る。

 目の前には阪急の京都河原町駅が見える。色々考えた末に、私は100円払ってでも良いから始発電車で芦屋まで戻ることにした。始発だったら空いているし、烏丸から乗ろうと思ったら座れないという可能性も考えたからだ。

 スマホの音楽プレーヤーを起動して、再生ボタンを押す。――相変わらず、イヤホンからはhitomiの曲が流れている。バッテリー残量は55パーセントか。このまま音楽を再生し続けていても、多分大丈夫だろう。

 ドッと疲れが出たのか、電車が動き出してから私はまどろんでいた。どうせ十三駅までは1時間以上あるし、少し眠るか。


***


 ここは、どこなんだ。周りは白い壁で覆われている。目の前には、私じゃない誰か――どう見ても女性――が倒れている。

 私は、目の前で倒れていた女性の頸動脈けいどうみゃくに触れた。――脈がない。死んでいるのか。

 当たり前の話だけど、私とその女性以外に人はいない。助けを呼ぼうにも、助けを呼べない状態だった。

 仕方がないので、私は女性を背負ったうえで助けを呼べる場所へ向かおうとした。

 その時だった。――私の頭の中で、声がした。

「――あなたが殺した」

 えっ? 私が――この女性を殺した? 私はただ倒れていた女性を保護して――助けが呼べる場所へ向かおうとしただけなのに。

「――この、人殺し!」

 いや、私は何もしていない。そもそも、この女性が誰なのか分からない。一体、どういうことなんだ!

「――罪を償うべきは、あなただ」

 もう、訳が分からない。明らかな幻聴に抗おうという方が間違っているのだけれど、私は思わず声を発した。

「私は、この人を殺していない!」


***


「――次は、十三、十三駅です」

 電車のアナウンスが、無音状態のイヤホンを貫通する。――どうやら、イヤホンのバッテリーが切れていたらしい。

 十三駅の手前で意識を覚醒させた私は、そのまま電車から降りて神戸線の特急に乗り換えた。特急の停車駅である西宮北口駅で一旦下車しようと考えたが、それは二度手間なのでやめておくことにした。

 やがて、特急は西宮北口駅に停車した。――普通列車に乗り換えなければ。

 普通列車で芦屋川まで出たところで、私はようやくイコカで改札口を抜けた。ここまでの体感時間は4時間ぐらいしか経っていないのに、なんだか1日仕事のように疲れてしまった。――駅からアパートまで歩く気力、残っているんだろうか。

 とぼとぼとアパートまで歩いて、階段を登っていく。――部屋があるのは2階なのに、1段1段が重い。

 部屋に着いたところで、私は即座にシャワーを浴びることにした。

 帰りの電車で見た悪い夢に左右されているのか、私の精神状態はひどく不安定で、シャワーを浴びていても――あの時の幻聴がフラッシュバックしていく。私は何もしていないのに。

「――あなたが殺した」

 ああ、またこの幻聴だ。私、どうかしているのかな。

「――この、人殺し!」

 これって、デジャヴ? それとも――。

 そんなことを考えていると、私は無意識のうちにカミソリを握っていた。マズい。

「――死ね」

 ――え?

「――死ね!」

 し……ね……?

 白い床が、血で汚れていく。白くて華奢な腕には、無数の傷痕が付いていた。傷痕からは、血が流れている。――「死にたい」という衝動が、抑えられない。

 どうせ、私なんかいなければいい。――幻聴が言う通り、私は人殺しなんだ。だったら、このまま死んだほうがマシだ。


***


 視界が横に見える。――倒れているのか。ヌルヌルとした感触は、自分の血液によるものなのだろう。

 どうやら、私は自傷行為に対する衝動が抑えられなくなって、カミソリで腕の静脈に傷をつけてしまったようだ。――腕が痛い。

 冷静さを取り戻した私は、うずくまっていた体を起こして、血にまみれた床を洗い流すことにした。まるで殺人事件の後処理だ。

 それから、改めてシャワーを浴びたうえで部屋着に着替えて、ベッドの上に倒れた。どうせ原稿を書く気力もないし、腕が痛すぎてダイナブックは操作できない。だったら、いっそのこと――寝てしまったほうがいいだろう。

 とはいえ、悪夢を見てしまった以上安易に眠ることはできない。また、夢でうなされてしまうかもしれないからだ。私はなんとなくスマホで件の猟奇殺人事件に関するニュースを見ることにした。今のところ、月下弥生以外に殺害された人物はいないので、連続殺人事件にはならないだろうと思っていた。

 しかし、その考えは――翌朝、あっさりと崩れてしまうことになった。

 午前6時30分に鳴るスマホのアラームで意識を覚醒させた私は、コーヒーを淹れつつパンを食べていた。ついでにバナナも1本食べていた。

 自傷行為による腕の痛みは引いてきたので、私はダイナブックで改めて件の猟奇殺人事件について調べていた。――スマホが鳴っている。

 仕方がないので、私はスマホのロックを解除したうえで、画面を見た。


【京都市内で女性の遺体見つかる 先日発生した猟奇殺人事件と同様の手口か】


 私は、その見出しを見て――言葉を失った。

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