再び、廊下の方から微かな物音が聞こえた。
「え……? また聞こえた……」
世羅が不安そうに呟く。俺は椅子から立ち上がり、静かに教室のドアを開け、そっと廊下へ足を踏み出した。わずかに空気の流れが変わったような気がする。誰かがいるのか?
(気のせいじゃない……)
廊下を慎重に見渡し、一歩ずつ足を進める。背後で世羅と凪沙が不安げに見守っている気配がした。やがて、角を曲がった先の暗がりに人影が見えた瞬間──心臓が跳ねる。
「み、湊君……やめたほうがいいよ」
凪沙のか細い声が聞こえたが、俺はそのまま足を踏み出し、そっと角を覗き込んだ。
「こ、小日向さん……?」
そこにいたのは、小日向紫音だった。彼女は俺の声に驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻り、微笑みながら静かに言った。
「由井君……? こんな時間にどうされたのですか?」
「……いや、俺の方こそ聞きたいよ。小日向さんこそ、何をしているんだ?」
紫音はわずかに目を伏せると、小さな微笑を浮かべた。
「実は、忘れ物を思い出して取りに来たんです」
(……小日向さんが、忘れ物をするなんて)
違和感を覚えた。紫音は常に完璧な生徒で、忘れ物などほとんどしないはずだ。
「そうだったんだ。でも、小日向さんが忘れ物をするなんて珍しいね。一体何を忘れたの?」
問いかけると、紫音は一瞬だけ動きを止め、すぐに穏やかに答えた。
「授業で使っているノートです。あのノートがないと、今日の復習ができませんから」
淡々とした口調。それなのに、どこか違和感を覚える。
「……本当に、それだけ?」
俺が声を低くして問い詰めると、紫音の微笑がわずかに揺らいだ。
「え? そうですけど……そうでなければ、こんな時間にわざわざ学校に来たりしませんよ」
「他に、何か用事があったんじゃないの?」
一歩詰め寄ると、紫音の表情がほんの一瞬だけ硬くなった。だが、すぐに背筋を伸ばし、いつもの穏やかな態度に戻る。
「あの……由井君、もし何か気になることがあるのでしたら、どうぞ遠慮なくおっしゃってください」
その丁寧すぎる言葉が、かえって俺を牽制しているように感じられた。
「……いや、ごめん。何でもないよ」
世羅が俺の袖をそっと引き、心配そうに小さな声で言った。
「ね、ねえ……湊君、これ以上はやめておいたほうがいいよ」
俺は仕方なく紫音から視線を逸らした。すると、紫音は教室へ入り、やがてノートを手にして戻ってきた。
「お騒がせしてしまったようで申し訳ありません。それでは、私はこれで失礼します。皆さんも、お気をつけてお帰りくださいね」
紫音の背中を見送りながら、胸の奥がざわつく。
「……なんだろう。すごく気になる」
教室へ戻ると、俺は机に肘をつき、溜息をついた。
「小日向さんのこと?」
世羅が小さな声で尋ねてくる。
「うん。証拠があるわけじゃないけど……彼女、何か隠している気がする」
「でも……小日向さんって、基本的に真面目で優しい人だよね? 疑うのは良くないんじゃ……」
凪沙が困惑したように言う。
「今までは、俺もそう考えていたんだけどな……」
俺は机に肘をつき、考え込んだ。高嶺の動きも不可解だが、それだけじゃない。本来なら疑う必要のないはずの紫音さえ、今はどこか怪しく見えてしまう。
(彼女の言動は、まるで何かを隠しているみたいだ)
「小日向さんが本当に何か企んでいるのか、それとも俺の考えすぎなのか……」
「湊君……」
世羅の声が静かに響く。彼女の不安そうな顔を見て、俺は何も言えなくなった。