Side 彩音
教室のドアが閉まる音が響き渡ったあと、涼太が溜め息をついた。
「……あのさ。この間、俺の友達が病院で鈴を見たらしいんだけどさ」
彩音も俯き、机の上で握り締めた手をじっと見つめていた。
「はぁ? 突然、何言い出すのよ? 鈴だって、具合が悪ければ病院くらい行くでしょ」
「いや、そういうことじゃなくてさ……ほら、この前、雲雀が事故に遭って入院しただろ?」
「それがどうしたのよ?」
「俺の友達がさ、その日病院にいた時に、たまたま雲雀が運ばれてくるのを見たらしいんだよ。それで、同じ日に鈴の姿を見たらしいんだ。これって、偶然だと思うか?」
「……? 普通に偶然でしょ。いくら鈴でも、由井と仲が良い人間まで憎んで事故に遭わせるよう仕向けるなんて不可能でしょ?」
「──仮に、雲雀が乗っている自転車に細工をしていたとしても?」
「……!」
涼太の言葉に、彩音の顔が青ざめた。教室の薄暗がりの中、彼の小さな声が妙に響いて聞こえる。
「……何、それ。本当の話なの?」
彩音が息を呑むように問いかけると、涼太は神経質そうに肩をすくめた。
「……わからない。でもさ、鈴が絡んでいるとなると、どんな手を使っても不思議じゃないだろ」
涼太は小声のまま、彩音に顔を近づけて囁いた。
「俺の友達がさ、雲雀の両親らしき二人が廊下で話しているのを偶然聞いたらしいんだよ」
「……どんなことを言っていたの?」
彩音は、思わず眉をひそめて尋ねる。涼太は一瞬言葉を詰まらせたが、周囲を確認するように辺りを見回してから続けた。
「雲雀の父親が、『あれはどう考えても普通の事故じゃない』って言っていたらしいんだ。ブレーキワイヤーが切れていたって」
「ブレーキワイヤーが……切れていた?」
彩音は信じられないというように呟いた。
「そう。しかも、まるで何者かが意図的に切ったような痕跡があったんだってさ」
「でも……いくらなんでも、鈴がそこまでする?」
涼太は肩をすくめながら、机に寄りかかった。
「わかんねえよ。鈴が本当にそこまでやるのかどうか。でも……もし、“あの人”が関わっているとしたら?」
「“あの人”って……」
彩音が声を絞り出すように言った瞬間、涼太はそれを制するように呟いた。
「……俺たち、これ以上深入りするのはやめたほうがいいんじゃないかな」
彩音は涼太の言葉にしばらく黙り込んでいたが、やがて力なく俯いた。
「でも、鈴を裏切るわけにはいかないでしょ……」
その言葉に涼太は苦い顔をしながらも、小さく頷いた。
「そう、だよな……」
涼太がそう言うと、重苦しい沈黙が流れる。薄暗い教室の中、遠くで鳴る夕方のチャイムが、空虚に響き渡っていた。
二人の頭上には見えない雲が垂れ込め、迫り来る破滅の影が少しずつ忍び寄っていた。
***
翌日。彩音は廊下の隅でクラスメイトたちの話し声を耳にして立ち止まった。
「……聞いた? 高嶺さん、また由井君の悪い噂を流していたらしいよ」
「うわぁ、まだやってるの? いい加減しつこいよね」
「しかも、自分が正しいみたいに話していたんだって。滑稽すぎるよ」
控えめな声で交わされる会話に、彩音の胸がざわついた。クラスメイトたちは口を手で覆いながら、ひそひそと笑い合っている。
その視線の先には、鈴の姿があった。彼女は一人で廊下を歩いていたが、他の生徒たちは彼女を避けるように身を引き、露骨に道を開けている。
嫌悪、軽蔑、嘲笑。鈴を取り巻く空気には、そうした感情がはっきりと漂っていた。
鈴はそんな周囲の様子に気づかないふりをしていたが、時折唇を噛みしめる仕草を見せた。その肩には、かつてのような自信に満ちた輝きはなかった。
「鈴……」
彩音は小さく呟きながら、隠れるように柱の陰に身を寄せた。鈴が歩き去るまで、そこから動けなかった。
彩音が鈴と出会ったのは、中学一年生の春だった。美術部の体験入部で一緒になった鈴は、初対面からとても明るく、華やかな存在だった。
「遠藤さんが描いた絵、すごく上手だね」
鈴が声をかけてきた時、彩音は驚きと嬉しさが入り混じった感情を覚えた。
「え……? あ、ありがとう。でも、まだ全然下手で……」
「そんなことないよ! もっと、自信を持ったほうがいいと思うよ」
鈴の朗らかな笑顔に、彩音は安心感を抱いた。当時、まだ人見知りだった自分に気軽に話しかけてくれる鈴の存在は、とても眩しく映った。
いつしか彩音は、鈴に頼り、彼女の意見に従うことが当たり前になっていった。鈴はいつも自信に満ちていて、その言葉は彩音にとって絶対的だった。彩音は、そんな鈴を尊敬していた。
だが、いつからだろう? 鈴が他人を見下し、敵意をむき出しにすることが増えたのは……。自分が憧れていた人は、どこかに消えてしまったのかもしれない。
昼休み。彩音は逃げるように教室から出ると、人気の少ない中庭のベンチに腰を下ろした。
鈴がクラスメイトたちから軽蔑されている様子を目の当たりにした後から、ずっと胸の中がざわついている。ふと、昨日の涼太の言葉が頭をよぎった。
(雲雀が乗っていた自転車のブレーキワイヤーが切れていたって話……まさか、本当に鈴が関係しているなんてことないわよね……)
彩音は自分の胸に手を当てると、ぎゅっと力を込めた。鈴がそこまでするわけない。それに、流石にそこまでやったら犯罪だ。
頭ではそう否定しながらも、胸の奥に生じた疑念は静かに膨らんでいく。もし涼太の話が本当だとしたら、鈴は──。
「……そんなこと、ないよね」
彩音の呟きは、遠くから聞こえる野球部の掛け声にかき消された。けれど、その小さな疑念は彩音の心を徐々に蝕み始めていた。