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43.歪み続ける心

 Side 鈴


 高嶺鈴は、視線の先に広がる喧騒をぼんやりと眺めていた。

 いつも通りの昼休み。クラスメイトたちは談笑しており、笑い声が途切れることはない。けれど、その中心に鈴の姿はなかった。


 少し前までは違った。自分が声を上げれば、みんなが笑顔で応えてくれた。何気ない冗談も、華やかな話題も、いつも注目を集める自信があった。

 けれど、今は──


「まさか、高嶺さんがあんなことをするなんてね……」


 誰かのそんな声が耳に入った瞬間、鈴の心臓が大きく跳ねた。


「信じられないよね」


 別のクラスメイトの声が続く。その声色には、明らかに軽蔑の色が混じっていた。


「痴漢の冤罪とか、普通そんな酷いこと考える?」


「最低だよね。由井君に何の恨みがあったんだろ……?」


 鈴の背中に、突き刺さるような視線が増えていくのを感じた。教室の隅で囁かれているはずの陰口も、今や自分のすぐ隣で聞こえるような気がする。


「ここまで来ると、もう人間性を疑うよ」


「ほんとそれ。性格悪すぎ。ちょっと可愛いからって調子に乗っていたのかもね」


 女子たちの冷たい声が、鈴の耳を刺すように響き続ける。


「だよなー。痴漢の冤罪をでっち上げるなんて、ヤバすぎるわ」


 やがて、男子の低い声も混じり始めた。怒りや呆れの感情が込められたその言葉たちは、彼らの会話の中だけでとどまらず、どんどん周囲に広がっていくようだった。


「しかも、助けようとした由井の善意を利用して貶めようとしたんだろ? てか、いくら作戦だからって自分から近くにいるサラリーマンに痴漢されにいくか? もう、痴女としか思えないだろ」


「あはは! もしかしたら、内心触られたいとか思っていたのかもね」


 そんな会話の後、蔑むような笑いが起こる。その笑い声にまるで殴られたような衝撃を感じた鈴は、慌てて耳を塞いだ。しかし、声は容赦なく脳内に響き渡る。


「高嶺さんってさ、前からちょっとおかしいところあると思っていたんだよね。一見分かりづらいけど、やたら人を従わせようとする癖があるっていうか……」


「分かる。そういえば、前にちょっとでも反論したら、めっちゃ怒ってきたことあったわ」


 次々に吐き出される悪口や不満。それらの言葉は無数の針のように鈴の胸を突き刺し、じわじわと痛みを広げていく。気づけば、鈴の手は小さく震えていた。


「でもさ、これであの人も終わりじゃない? 流石にここまでやらかしたら、誰も味方してくれないでしょ」


「まあ、当然だよね。今まで散々威張ってきた罰だよ」


 嘲笑混じりの声に、鈴は視線をそっと机の上に落とすと、聞こえないふりをして何とかやり過ごす。

 視界の隅で、ちらりと誰かがこちらを見てはすぐに顔を背ける様子が窺える。まるで自分が教室の中に存在していないかのような感覚――いや、それよりも酷い。自分がそこにいるだけで、嫌悪感を抱かれているという確信が鈴を押し潰していた。


(こんな予定じゃなかったのに……)


 一目で分かる、手のひら返し。人から人へ伝わるたびに、自分の評価が落ちていく。その事実は、鈴の自尊心を確実に削いでいた。

 ふと、鈴の脳裏に忘れたくても忘れられない光景が蘇る。それは──中学時代、鈴が初めて由井湊という人間を知った日のことだった。



 当時、美術部に所属していた鈴は学区内の中学校合同で開催された絵画コンクールに出品していた。展示会場は地域の文化センターで、各校の美術部員やその家族、教師たちで賑わっていた。


 鈴は自分の作品を含む壁一面の展示を見回しながら、自信と不安が入り混じるような心境で立ち尽くしていた。

 部活で努力を重ねた自分の絵が、他の生徒の作品と比べてどれだけ評価されるのか──それを確かめたかったのだ。だが、会場の一角に人だかりができているのに気づいた瞬間。その心情は、大きく揺れ動く。


「すごいね、この絵」


「これ、本当に中学生が描いたの……?」


 そんな感嘆の声が鈴の耳に届いた。人混みを掻き分けるようにして近づいていくと、そこには一枚の絵が展示されていた。

 柔らかな鉛筆の線で描かれた、息を呑むほど美しい風景画。モノクロながら、光と影の微細な表現によって絵の中の景色がまるで生きているかのように見えた。鈴は無意識にその場で立ち尽くし、その絵に引き込まれていく。

 絵の下に掲示された小さなプレートには、こう記されていた。


「由井湊(ゆい みなと)」──XX中学校


「……由井湊」


 鈴はその名前を小さく呟いた。聞いたことのない名前だった。それでも、その作品が鈴の胸に焼きついて離れなかったのは、その完成度だけでなく、作者の底知れぬ才能の片鱗を感じたからだ。

 鈴は心の中で、自分の作品とその作品を比べていた。自分の絵も、それなりに評価は得ていたはずだ。けれど、この絵の前では霞んで見える。


「……すごい」


 その言葉は誰に向けるともなく、ぽつりと口からこぼれた。

 それ以来、『由井湊』という存在は、鈴の心の中で特別なものになった。彼の描いた絵はあまりにも鮮烈で、どんなに努力しても自分が届かない高みにいるように思えた。

 美術部の活動を続ける中で、湊の名前を耳にする機会は増えた。彼の絵がまたコンクールで受賞したとか、どこかのギャラリーに展示されたとか──。

 けれど、それらの話を聞くたびに鈴は胸の奥で小さな棘が刺さるような痛みを感じていた。


(どうして、あの人だけがこんなに持て囃されているの……? 私だって、皆から注目されたい)


 そんな思いが次第に鈴の中で渦巻いていった。湊に対する感情は、いつしか憧れと嫉妬の境界線を曖昧にしていき、やがて歪んだ形で膨れ上がることになる。



 ──回想に耽っていた鈴は、はっと我に返る。そして顔を上げると、周囲を見渡した。やはり、誰も自分と目を合わせようとしない。

 彩音や涼太は今のところ自分の味方でいてくれているが、彼らだっていつ離れていくか分からない。鈴は、常日頃からそんな不安を抱えていた。

 それでも、鈴は自分のしたことが間違っているとは思えなかった。だから、何度も心の中で言い訳を繰り返していた。


(そうよ、私は悪くない。あいつが悪いのよ。だって、私より目立つから……)



 放課後。鈴は部室で絵を描いていた。なんだか、久しぶりに鉛筆を握った気がする。自分の手で形を描き出す感覚を確かめる。

 完成したのは、粗削りなスケッチだった。風景画でも、人物画でもない。ただ、自分の胸に渦巻く感情をそのまま形にしたような、不完全な絵。


(絶対に許せない……)


 心の中でその言葉を繰り返すたびに、鈴の怒りは膨れ上がり、胸が熱くなっていく。今にも爆発しそうなほどだった。


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