「おい、聞いてんのかよ?」
小林は俺の襟元を強く引っ張りながら、物凄い形相で睨んできた。
俺はその手を振り払おうとしたが、うまくいかなかった。小林の力は尋常じゃない。そんな時──ふと彼の目の奥に以前見たことのある、疲れたような色を感じた。それに、何かしらの切迫した様子も伺えた。
(なんだろう、この感じ……何故だか分からないけど、急にこいつに勝てるような気がしてきた)
それに気づいた瞬間、思わず胸がざわつく。そして、俺は無意識に口を開いた。
「……お前、家族とうまくいっていないんだろ?」
不意に、そんな言葉が口をついて出た。その瞬間、小林の手がぴたりと止まる。
「……何だと?」
彼は、驚いたように目を見開いた。その瞳に、一瞬だけ戸惑いの色が浮かんだことを俺は見逃さなかった。
「本当は構ってもらいたいだけなんだろ? 親の気を引きたいんだろ?」
俺は目の前にいる小林をじっと見つめながら話を続けた。
「でも、それじゃあ何も解決しないよ」
小林の手が、俺の襟から徐々に離れていく。その時、俺はようやく彼の目の奥に潜む痛みを感じ取った。
「それと……さっき、『バイトなんて怠くてやっていられない。所詮、誰にでもできる簡単で単調な仕事ばかりだ』って言っていたよな」
俺の問いかけに、小林は小さく息を呑む。俺は、自分の胸ぐらを掴んでいた手を思い切り振り払う。そして、小林に向かって言い放った。
「甘ったれんなよ! アルバイトを馬鹿にするな!」
「なっ……!?」
小林は気圧されたのか、驚いた様子で後ずさりをした。
「バイトは、お前が思っている以上に大変なんだよ。それに、社会に出たらもっと辛いことだって沢山ある。それが何なのかも分からない、考えられない──そんなクソガキが、アルバイトとはいえ働いている人を馬鹿にする資格はない!」
タイムリープ前の世界では、俺は長年アルバイトを続けて来た。──ただ、惰性で続けているだけ。そんな風にずっと自暴自棄な気持ちでいたけれど……よく考えてみると、中にはやり甲斐を感じられるような仕事もあった。辛いこともあれば、楽しいこともあったのだ。そんな過去の記憶があったから、自然に言葉が出たのだろう。
「色々、悩みがあってむしゃくしゃしているのかもしれないけどさ……でも、それを乗り越えた先にはきっと今より良い未来が待っているはずだ」
俺の言葉を聞いた小林の目に、微かな光が灯ったような気がした。
「お前は今のままでいいのか? 本当にこのままでいいのか?」
「それは……」
小林の体から力が抜けた。そして、俺から距離を取るようにして再び後ずさりをする。
「……今のうちに更正しておかないと、将来駄目な大人になるぞ」
──そう、かつての俺のように。
そう言いかけたが、慌てて口を噤み睨んでみせる。小林の目には、動揺が浮かんでいるように見えた。やがて、彼は肺の中の空気を全て出すように大きく息をつくと──用は済んだとばかりに俺たちに背を向けた。
「一体なんなんだよ……調子狂うわ」
俯きながら独り言のようにそう呟いたかと思うと、小林の背中はそのまま遠ざかり──とうとう見えなくなってしまった。
彼の後ろ姿を見送った俺は、一気に緊張から解放されたせいか放心したようにその場に立ち尽くしていた。
「湊君! 大丈夫だった!?」
そんな言葉とともに、世羅が駆け寄って来る。彼女の背後には、気づけばギャラリーたちがいて皆心配そうに俺を見つめていた。
「ああ……うん。大丈夫だよ。ありがとう、世羅」
世羅は俺に触れるギリギリまで近づくと、祈るようにキュッとその両手を握りしめる。心配してくれる彼女の様子に、自然と安心感が湧いてくるのと同時に愛おしさも増す。
そして、目の前にいる世羅をいつも以上に意識してしまい、嬉しいような照れ臭いような変な気持ちになってくる。
「それじゃあ……そろそろ帰ろうか」
ようやく気持ちを落ち着かせた俺は、そう言って歩き出した。しばらく道なりに進んでいると、世羅が声を掛けてくる。
「湊君は、やっぱり凄いね」
そんな世羅の声を聞いて振り返ると、彼女は少し切なげに微笑んでいた。
「えっ……? 何が?」
「さっきみたいに、簡単に他人の悩みに気づいて説得しちゃうなんて……」
「あ……えっと……あれは、別にそういうんじゃ……」
「凄く格好いいなって思ったよ」
少し照れたように言う世羅を今すぐ抱きしめたいと思ったけれど……今回はまだ告白すらしていないし、何より公衆の面前でそれをしてしまうのは迷惑が掛かってしまうから自重しておく。俺は気持ちを切り替えると、再び歩き出した。
「……世羅だって、俺なんかより凄いよ」
「え……?」
彼女は驚いたようにその双眸を大きく見開く。俺は優しい気持ちになりながら、ゆっくりと口を開いた。
「世羅はいつも俺の話を真剣に聞いてくれるだろ? 俺、世羅と居る時が一番心が安らぐんだ」
そんな風に穏やかな気持ちにさせてくれる人間は、世羅しか居ない。
俺を絶望から救い出してくれた人。誰よりも守りたい人。こんなに胸を焦がすのはこの先もきっと彼女だけだし、きっと俺の思い過ごしなどではないだろう。
そんな温かな気持ちを込めて微笑んで見せると、世羅は顔を隠すように俯いてしまう。
「あ……えっと……ありがとう……」
夕闇に紛れてその顔ははっきりとは分からなかったが、なんとなく喜んでくれているように思えた。
そんな反応を見ているだけでも嬉しくなる。俺は、しばらくの間その幸せな時間を噛み締めていた。
──後日、何故か小林が学校の近くのコンビニでアルバイトを始めていた。
俺の助言を聞き入れてくれたのかは分からないが、人が変わったように真面目に働いている姿を見ると、きっとあの言葉がきっかけで彼も何か思うことがあったのだろう……と思ったのだった。