side 鈴
高嶺鈴は苦境に立たされていた。
「おはよう」
登校するなり、鈴は廊下で談笑していたクラスメイト二人に挨拶をする。すると、様子がおかしいことに気付いた。
というのも、普段ならすぐに返ってくるはずの挨拶が返ってこないのだ。
「ちょっと! 無視しないでよ」
鈴は早足で二人の元へ向かうと、詰め寄った。すると、彼らは驚いたように鈴の顔を見た。
しばらくして、二人は気まずそうに鈴から視線を逸らすと再び談笑し始めた。……そう、まるで何事もなかったかのように。その反応を見て、鈴は確信する。
(もしかして、私のことを避けているの……?)
おそらく、彼らは鈴のことなど歯牙にもかけていないだろう。理由は単純明快。昨日の一件で、鈴はクラスのカーストの最底辺にまで転落したからだ。
彼らは、それまでは鈴に気に入られたい一心で媚を売ってきた。
それが今はどうだろう? 挨拶を返さないどころか、まるでそこに誰もいないかのように振る舞っているではないか。
(どうして……?)
そんな疑問が頭に浮かぶと同時に、昨日の光景がフラッシュバックする。
(まさか……)
嫌な予感に突き動かされるように教室に入ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
クラスメイトたちが鈴の方を蔑むように見てくるのだ。それは、まるでゴミを見るような目だった。
いつもの様に、威勢良く入ることが出来るような空気ではなかった。自然と、自分の足並みがスローモーションになるのが分かった。
鈴は「ああ、終わったな」と心のどこかで悟った。
クラスの鼻つまみ者と化したこと。皆が自分の存在を無視するようになっていること。
それだけでもう、心が押し潰されそうな程にショックだった。しかし、それでも歩みを止める訳にはいかなかった。ここで怯んだら、負けたような気分になるからだ。
強がるように一歩を踏み出して自分の席を目指すと、こちらを見ている湊が視界に入った。
(こいつのせいで……!)
鈴は湊を睨みつけた。彼のせいで、自分がこんな思いをする羽目になったのだ。できることなら、その顔面に拳を叩きつけてやりたいくらいだった。
(絶対に許さない……)
そんな風に、心の中で呪詛を吐く。
だが、調子に乗っていられるのも今のうちだ。
時間が経てば、いずれ元に戻るだろう。鈴は、そんな風にどこか楽観視していた。
今は、とにかくこの窮地をいかにして切り抜けるかを考えるべきだ。そう思い直し、平静を取り戻す。
放課後。鈴はいつも通り部室に向かった。こう見えて、鈴は美術部に籍を置いている。
実は、鈴が湊を目の敵にしているのには理由があった。それは、彼に漫画の才能があるという点だ。いや、漫画だけではない。湊は油絵や水彩画も器用にこなす。つまり、芸術方面に特化した人間なのだ。
鈴は中学時代から美術部に所属しており、コンクールで何度も入賞していた。
しかし、そんな鈴の輝かしい経歴も、湊に出会ってからというもの全てが塗り替えられてしまった。
彼はいつも一人で黙々と絵を描いているが、その出来栄えはプロと比べても遜色ないレベルだった。
その事実は、すなわち自分が越えられない壁がある事を暗に示しているようなものだ。だからこそ、鈴は内心嫉妬心を燃やさずにはいられなかった。
初めて味わった挫折感。それは、今まで自分が築き上げてきた自信を根こそぎ奪っていくようなものだった。
「本当に目障りだわ……あの陰キャ」
一人イーゼルに向かいながら、鈴は独り言を漏らす。
そんな中、遠藤と陶山が恐る恐るといった様子で部室に入って来た。
二人は気まずそうな表情を浮かべていたが、鈴は気にせず言い放つ。
「ねえ、あんた達。あの動画のこと、本当に知らなかったの?」
鈴の問いかけに、二人は首を振った。
「……少なくとも僕は知らなかったよ」
陶山が答えると、遠藤も同調するように頷く。
「うん。まさか、同じ電車に桜庭が乗っているなんて思わなかったし……」
「あんた達、ちゃんと見張っていたの!? 全く、何のためにいたのよ! この役立たず!」
鈴は激昂した。しかし、二人は申し訳なさそうに俯くばかりだ。
「本当にごめん……」
「ごめんなさい……」
遠藤が謝罪の言葉を口にすると、陶山もそれに続いた。だが、その態度が余計に鈴の神経を逆撫でする。
「もういいわ! あんた達なんかに期待した私が馬鹿だったのよ!」
そう言って席を立つと、鈴はそのまま部室を後にした。
(ああ、もう! 最悪だわ……)
廊下を歩きながら、鈴は心の中で愚痴る。
「でも、きっと大丈夫。
鈴は自分に言い聞かせるように呟いた。そうしないと、心が折れてしまいそうだった。
(それにしても、桜庭凪沙はかなり厄介ね)
あの女が動画を撮っていたせいで、計画が全て台無しだ。
だが、鈴は諦めない。絶対に湊に一泡吹かせてやろうと心に決めたのだった。
(今に見てなさいよ、由井)
鈴は心の中でそう呟くと、足早にその場を後にした。