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4.憧れの人

 その日の帰り道。

 ふと、目の前に一匹の猫がいることに気づいた。

 柔らかな白い毛を纏った、綺麗な猫だった。不思議と、目が離せない魅力を感じる。

 この道を真っ直ぐ行けば自宅に着くが、このままこの子を放っておくわけにもいかないだろう。

 もしかすると、どこかの家で飼われている猫かもしれないし……。


「おいで」


 俺はしゃがみ込むと、そっと手を差し出した。しかし、猫は警戒しているのか一向に近づいてこない。

 よく見てみれば、猫は怪我をしているようだった。白い毛の一部が赤く染まっている。


「もしかして、怪我をしているのか?」


 猫は返事をするように「ニャー」と小さく鳴いた後、また一歩後ろに下がった。

 ふと、そこで既視感を覚える。以前も、同じような出来事があった気がするのだ。

 その瞬間。俺の脳裏に過去の光景が浮かび上がった。


(もしかして、この猫……世羅が飼っている猫か?)


 確か、名前はモモ。二歳の雌猫で、世羅は目に入れても痛くないくらいモモを溺愛していた。

 何故そこまで知っているのかと言うと、過去にも同じ経験をしたことがあるからだ。

 あの時、俺は怪我を負ったモモを保護して応急処置を施した。そこに、飼い主である世羅がやって来てお礼を言われた。

 それをきっかけに、彼女とよく話すようになったのだ。

 そんなことを思い出しながら、俺はモモを優しく抱き上げる。そして、近くの公園まで連れて行くと、ポケットからハンカチを取り出した。

 水道の水でハンカチを濡らしてしっかりと絞ると、モモの前足の傷口を拭ってやる。そして、鞄からもう一枚ハンカチを取り出し、今度は怪我をした脚に包帯のように巻いてやった。ひとまず、これで処置は完了だ。


「よし、これで大丈夫だ。あとは獣医に診てもらえばすぐに治るはず」


 どうやらモモは落ち着いたらしく、こちらを警戒する様子もなく頭をスリスリと手に擦りつけてきた。

 猫は賢い動物だ。言葉を理解することはできないが、きちんとコミュニケーションを取ることはできる。

 おそらく、こちらに敵意がないことをモモも察したのだろう。

 俺は、ほっと胸を撫で下ろした。その時のことだった。


「……由井君?」


 ふと背後から名前を呼ばれて振り向くと、そこには驚いたような顔をした世羅が立っていた。


「えっと……あなた、由井君だよね? 隣のクラスの……」


 ──ああ、やっぱりそうだ。何もかもが、あの時と同じだ。

 何故か、世羅は他のクラスの生徒である俺のことを知っていて。理由を尋ねたら、「いつも、校舎裏のベンチでよく本を読んでいるよね? あと、図書室でもたまに見かけるから知っているよ」と言われ、その返答にさらに俺は驚いて。

 高嶺に根も葉もない噂を流されるまでは、クラスメイトでさえ俺のことをあまり認知してなかったのに。

 彼女はずっと俺のことを見てくれていたのだと気づき、すごく嬉しかったことを覚えている。

 あの時からだ。俺が彼女に特別な感情を抱くようになったのは……。


(もし、この状況がタイムリープなのだとしたら……今度こそ、彼女とちゃんと向き合いたい)


 不意にそんな思いがこみ上げてきて、俺はゆっくりと世羅のほうに顔を向けた。


「うん、そうだよ。ええと……椎名さんだよね?」


「わぁ! 名前覚えていてくれたんだ? 改めて、よろしくね」


 そう言って、世羅はにこにこと笑みを浮かべた。その笑顔を見て、胸が高鳴る。この笑顔が見られただけでも、タイムリープしてよかったと思ってしまう。


「ところで、その猫……うちのペットのモモだと思うんだけど、もしかして傷の手当てとかしてくれたのかな……?」


「ああ、うん。実は偶然通りかかってね。放っておくわけにもいかないから公園に連れて来ちゃったんだけど、まずかったかな?」


「ううん、そんなことないよ! むしろ、助けてくれて本当にありがとう! モモ、昔から脱走癖があって……今回みたいにいなくなって数時間経ってから見つかったことが何度かあったから……」


 世羅は心底安心したように胸を撫で下ろす。


「幸い、今まで怪我をしたことはなかったんだけど……今回はどこかで事故にでも遭ってしまったらどうしようってすごく心配だったの。そしたら、案の定怪我をしていたみたいで……本当に、感謝してもしきれないくらいだよ」


「そうだったんだ……でも、無事に見つかって良かったよ。次からは、気をつけてあげてね」


「……うん、そうだね。次からはもっと気をつけないと」


 そう言って、世羅はモモの頭を優しく撫でる。すると、モモは気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。


「ふふ……この子ったら、すっかり由井君に懐いちゃったみたいだね。でも、無理もないか。こんなに優しいんだもん」


 彼女はそう言うと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。その笑顔にまたドキッとするが、なんとか平静を装うことに成功する。


(よかった……ちゃんと話せた)


 でも……やっぱり、自分の無実を証明するまでは人前で彼女と話すのは躊躇われる。

 明日は凪沙と作戦会議を開く予定だ。作戦通りに進めば、近々俺の冤罪を晴らすことができるだろう。

 そしたら、堂々と世羅と仲良くできる。そして──今度こそ、逃げずに彼女へ想いを告げることができるはずだ。


「そんな……優しいだなんて。なんだか照れるな。ありがとう」


 それから少しだけ話をして、世羅と別れた。彼女は終始笑顔で、お陰で気分が向上した。

 しかし、タイムリープした以上、何とか冤罪を晴らして過去を変えなければいけない。そうしないと、また同じ未来が待ち受けているのだ。

 でも……果たして上手くいくのだろうか。


(いや……きっと大丈夫)


 そう信じて、俺は眠りについたのだった。



「おはよう、桜庭さん」


 翌日。登校してすぐに、俺は凪沙に挨拶をした。すると、彼女は神妙な面持ちで挨拶を返してきた。


「おはよう、由井君。早速、作戦会議──と行きたいところなんだけど、実はちょっと気になることがあって……」


 凪沙は声を潜めると、耳元に顔を寄せてきたので俺もそれに倣う。


「実は、昨日あれから色々と調べてみたの。それで、分かったことがあるんだ」


「分かったこと……?」


 俺が首を傾げると、凪沙はコクリと頷いた。そして、そのまま言葉を続ける。


「もしかしたら、主犯は高嶺さんじゃないかもしれないの」


「……え!?」


 咄嗟に声を上げてしまった。凪沙は周りをきょろきょろと窺うような素振りをした後、「続きは外で話そう」と言って俺の手を引きながら歩き出す。


「詳しく話を聞かせてくれ。一体何が分かったんだ?」


 人目を気にしつつ昇降口を抜けると、俺は凪沙にそう問いかけた。

 すると、ようやく前を歩いていた凪沙がくるりとこちらを振り向いた。そして、彼女は神妙な面持ちで口を開く。


「つまり……高嶺さんは誰かの指示に従って由井君を陥れた可能性があるってこと」


「え……? どうしてそう思ったの?」


 尋ねると、凪沙は難しそうな表情で語る。


「実は……昨日、動画を見直していたら気づいたんだけどね。よく見たら、高嶺さんの取り巻きの二人も同じ車両に乗っていたみたいなんだ。多分、見張り役をしていたのだと思うのだけど……」


 高嶺の取り巻きといえば……遠藤と陶山だろうか?

 確か……遠藤は高嶺と中学時代からの付き合いがある女子生徒で、陶山は高校で同じクラスになって以来高嶺に金魚の糞のように引っ付いている男子生徒だったはず。


「それでね……昨日、帰る時に偶然二人が前を歩いていたんだけど、遠藤さんが『全部終わったら報告しなきゃ』って言っているのが聞こえてきて」


「報告? それなら、二人が俺に何か嫌がらせをしようとしていて、それが終わったら高嶺に報告するって意味じゃないか?」


「それが……そうでもなさそうなんだ。その後、陶山君が『臨時収入が入りそうだし、今月は余裕だな』って言ってたんだけど……これって、まるで誰かに報酬をもらうみたいじゃない?」


「普通に高嶺があの二人に金を渡して今回の件に協力させているんじゃないか?」


 俺の言葉に、凪沙は首を横に振った。


「高嶺さんの家庭環境を考えると、その可能性は低いと思う。だって、確か高嶺さんって母子家庭でしょ? 彼女が中学生の頃、父親からのDVに耐えかねて家を出たって話だし……やっぱり、金銭的余裕があるとは思えない」


 確かに、言われてみればそうだ。


「ということは……黒幕が他にいて、高嶺たちはそいつの入れ知恵で動いていたのか?」


 俺が問いかけると、凪沙はこくりと頷いた。


「多分、遠藤さんと陶山君はその人から報酬をもらう予定なんだと思う」


「だとしたら、今回の事件の裏で動いている奴は一体何者なんだ?」


 俺が尋ねると、凪沙は右手を顎に添えて少し思案する様子をみせた。


「わからない。でも……いずれにせよ、由井君の無実を証明して相手の計画を狂わせないと、どんどん状況は悪くなるばかりだね」


「……そうだよな」


 事態は一刻を争う。時間がないのは明らかだった。

 それから俺と凪沙はいつ作戦を決行するか、その段取りについて話し合いを始めた。

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