「あ、あの……由井君」
廊下を歩いていると、突然背後から声をかけられた。
振り向くと、そこにはクラスメイトの女子が立っていた。確か、彼女の名前は──
性格は控えめで大人しい生徒だったと記憶している。あまり話したことはないけれど、何故かよく目が合っていたから印象に残っているのだ。
「え? 何?」
俺が尋ねると、彼女はおずおずと口を開いた。
「……その……実は……」
なかなか話を切り出せないのか、桜庭は視線をきょろきょろさせながら言い淀んでいる。
首を傾げていると、チャイムが鳴った。
「もうすぐ授業が始まるよ。とにかく、教室に戻ろう」
俺がそう促すと、凪沙は小さく頷き返して歩き出した。
(そういえば……当時、一度だけ桜庭さんから話しかけられたような……)
授業中、ふとそのことを思い出した。何故彼女が話しかけてきたのかは全くわからないが、何か用があるのは間違いないだろう。
でも……結局その後、彼女が話しかけてくることはなかった。だから、こちらも何となく聞きづらくて、そのまま放置してしまっていた気がする。
(これ、本当に夢なのか? もしかして、本当にタイムリープしていたりして……)
勿論、そんな非科学的なことはあり得ないはずだ。けれど、このあまりにもリアルな体験を説明するにはそう考えるしかないのだ。
もし、本当に過去にタイムリープできたのなら──鈴によって壊された俺の青春を取り戻せるかもしれない。
……そう、汚名返上をする絶好のチャンスなのだ。
ならば、やるべきことは一つ。自分の無実を証明できるよう、全力を尽くすだけだ。
そんなわけで……一先ず、俺は当時とは違う行動を取ることにした。
さっきの凪沙の様子からして、何か大事な用事があるのは明らかだ。
もしかしたら、高嶺に関することかもしれない。そう考えると、やはり無視するわけにはいかないだろう。
「あのさ、桜庭さん」
放課後、俺は凪沙に声をかけた。幸い、彼女は日直で先生に用事を頼まれていたので、教室には俺たち二人だけだ。
「え……?」
凪沙は驚いたように目を見開く。
「さっき、俺に何か言おうとしていたよね? もしよかったら、続きを聞かせてほしいんだけど……」
俺がそう言うと。彼女は少し躊躇うような素振りを見せたが、やがて小さく頷いた。
「……う、うん。わかった」
それからしばらく間を置いて、凪沙は再び口を開く。
「えっと……その……私、もしかしたら由井君の無実を証明できるかもしれない」
「え? どういうこと?」
驚いて聞き返すと、凪沙は声を潜めながら答えた。
「実はね……あの日、私も同じ電車に乗っていたの。その時、偶然動画を撮っていたんだけど……」
「え!?」
思わず素っ頓狂な声を上げた俺に、凪沙は驚いたように身体を硬直させた。
「あ……ごめん」
咳払いをして謝りつつ、俺は言葉を続ける。
「……それ、見せてくれる?」
「う、うん……いいよ」
凪沙はそう言うと、おずおずと鞄からスマホを取り出した。そして、自分が撮ったという動画を再生する。
そこには、確かにサラリーマンに痴漢されている高嶺が映っていた。しばらくすると、やがてそれに気づいた俺が彼女を助けようとする姿も映し出される。
高嶺曰く、この時俺がどさくさに紛れて彼女の体を触ったとのことだが……やはり、何度確認しても自身の手が彼女に触れているようには見えなかった。
(やっぱり、高嶺は嘘をついていたんだ……)
俺はそう確信する。しかし、そうなると改めて疑問が出てくる。何故、高嶺はあんな嘘をついたのだろうか?
「それでね、もう一つ見てほしい動画があるんだけど……」
動画を見終わった後、凪沙はそう切り出した。
「え? もう一つあるの?」
「うん。動画を撮ろうとした瞬間、少し離れたところに高嶺さんがいることに気づいて……。それで、なんだか様子がおかしいからそのまま動画を回し続けていたんだけど……」
動画を再生すると、凪沙は躊躇しつつも語り始めた。
「その……どう見ても、高嶺さんのほうからサラリーマンを誘っているようにしか見えなかったの。あえて自分を痴漢するよう仕向けているっていうか……。最初は、なんであんなことするんだろうって不思議に思っていたんだけど……その後、高嶺さんが由井君を痴漢呼ばわりしているのを見て納得したよ」
「つまり、高嶺は俺に濡れ衣を着せるためにあえてサラリーマンを誘惑したのか……?」
「……うん。多分、そうだと思う」
「なるほど……随分と手が込んでいるな。俺を陥れるために、わざわざそんなことまでするなんて……」
最早、怒りを通り越して呆れてしまう。彼女は確かにきついところもあったけど、ここまでするような人間ではないと思っていたのだが……。
「……もしかしたら、由井君が思っている以上に複雑な理由があるのかもしれないね」
凪沙は、ぼそりと呟く。
「え? どういうこと?」
「ただ由井君のことが気に入らないってだけで、そこまでするかな? 何か、他に目的があるんじゃないかな」
「目的か……」
確かに凪沙の言う通りだ。わざわざ痴漢の冤罪をでっち上げるなんて、普通じゃない。一体、何故そんなことをしたのだろう?
(もしかして……俺に対する復讐なのか……?)
そんな考えが頭をよぎるが、すぐに否定する。そもそも、高嶺とはそんなに話したことがないし、ここまで恨まれる覚えもない。
「ありがとう、桜庭さん。お陰で、身の潔白を証明できそうだよ」
「……そ、そんな。お礼なんていいよ。私はただ、由井君の力になれたらと思っただけで……」
「でも、君が動画を撮ってくれていなかったら俺の無実は証明できなかっただろうし……だから、お礼は言わせてほしい」
俺の言葉に、凪沙はもじもじと視線を泳がせた後、小さく頷いた。その頬は僅かに赤く染まっているように見える。
「ところで……ちょっと気になったんだけど、どうして電車内で動画を撮ろうとしていたの?」
そう尋ねると、凪沙は動揺するように瞳を揺らした。
「そ、それは……その……」
怪訝に思って凪沙の顔を覗き込むと、何故か耳まで真っ赤にしながら俯いた。何か、俺に知られたらまずいことでもあるのだろうか?
しばらく黙り込んでいた凪沙だったが、やがて話を逸らすように口を開いた。
「そ、そんなことより……私、由井君に協力するよ。クラスのLINEグループでさっきの動画を公開して、あなたの無実を証明してみせる!」
凪沙は自信満々にそう提案してきた。
「それは有り難いけど……でも、そんなことをしたら後で桜庭さんが高嶺から復讐されちゃうんじゃないかな……? 匿名希望の生徒から動画を提供してもらったってことにして、俺自身が公開したほうがいいような気がするけど……」
俺がそう言うと、彼女は首を横に振った。
「私は平気だよ。それに……きっと、証人がいたほうが高嶺さんも言い訳できないと思うし」
「そっか……じゃあ、協力をお願いしようかな。その……本当にありがとう、桜庭さん。君が味方になってくれると本当に心強いよ」
その言葉に、凪沙はまた顔を真っ赤にした。先ほどから何度か赤面しているのだが、何が彼女をそうさせているのだろうか?
しばらく目を泳がせていた凪沙だったが、やがて小さく頷いた。
「う……ううん。気にしないで。私、由井君のためなら何でもするから……」
そう呟いた後、彼女は何かに気づいたかのように慌てて口を噤む。
「あ、えっと……私、こう見えて正義感が強いっていうか……クラスメイトが困っていたら、放っておけない性質なんだよね。……あはは」
何故だかわからないが、しどろもどろになっている凪沙。俺は首を傾げつつも、とりあえずこの件について相談できる相手ができたことを素直に喜ぶことにした。
「じゃあ、改めて……これからよろしくね。桜庭さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
こうして、俺は凪沙の協力を得ることになった。
よし……後は自分の無実を証明して、高嶺に制裁を加えるだけだ。