人生の歯車が狂ったのは、いつからだろう? 最近、よくそんなことを考える。
俺こと
昔は夢を追いかけていたが、結局それは断念してうだつの上がらない日々を送っていた。
──出来ることなら、過去に戻ってやり直したい。
誰でも、一度くらいは考えたことがあるのではないだろうか。
もしも過去に戻れるなら、今度はこんな間違った道に進むまい、と。
「俺の人生が狂ったのは……」
散らかった部屋の中心に寝転がりながら、そう独りごちる。
そして、「たぶんあの時だ」と確信をもって断言できる、決定的な「人生の転機」と呼べる出来事が起きた日の記憶を掘り起こした。
あれは、九年前。俺が高校一年生の頃の話だ。
当時の俺は、いわゆる陰キャではあったものの、そこそこ充実した学校生活を送っていた。
成績は悪くないし、運動も苦手ではない。友達は多くなかったが、別に嫌われているわけでもないし、いじめの対象にもなっていない。
そして何より、俺には「趣味」と呼べるものがあったのだ。
それは、絵を描くこと。幼い頃から絵を描くことが大好きで、暇さえあればチラシの裏に落描きばかりしていた。
中学に上がる頃には、自分の絵が人並み以上に上手いという自信さえついていた。
小学生の頃から尊敬してやまない漫画家──
漫画家を目指すようになったのは、小学五年生の秋。伊佐美彰のデビュー作「
アニメ化もされ、幅広い年齢層からの人気が高いこの作品を読んで以来、俺は漫画やアニメにのめり込むようになった。
そして、ただ漫然と絵を描き続けるのではなく、将来は漫画家になろうと志したのだ。
しかし、その夢も「あの日」を境に見事崩れ去ることになる。
照りつける太陽の日差しが暑い、ある日のこと。
当時の俺は、電車通学をしていた。毎日片道一時間かけて電車に揺られるのは面倒ではあったが、その時間をスケッチや漫画のアイデア出しに費やすことができるので、そこまで苦には感じていなかった。
その日も、俺はいつものように満員電車に乗っていた。
一時間目から体育がある日は、憂鬱で仕方がない。しかし、そんな日でも俺はいつもと同じ時間、同じ車両の、同じ位置に立つ。
ふと、いいアイデアを思いついたので手帳を開き、それを書き留めようとしている時のことだった。
すぐ側に、クラスメイトの女子──
しかし、なんだか様子がおかしい。彼女は俺と目が合うと、助けを求めるように視線を送ってきたのだ。
どうしたんだろう? 疑問に思っていると、高嶺のすぐ後ろにいるサラリーマン風の男が、何やら彼女のスカートの中に手を入れようとしていた。
「えっ……?」
俺は、自分の目を疑った。そして、それが現実だと理解すると同時に、激しい怒りが込み上げてきた。
咄嗟に男の手首を掴むと、俺は「この人、痴漢です!」と叫んだ。周りの乗客が何だ何だと驚く中、男は一瞬の隙をついて俺の手を振り払うと、素早く電車を降りた。
「しまった、逃げられた!」
ドアが閉まり、電車は何事もなかったかのように走り出す。
高嶺は真っ赤な顔をして俯いていた。やがて顔を上げたかと思えば、彼女は「ねえ……」と、声をかけてきた。
お礼を言おうとしているのだろうか? 律儀な娘だな。そう思い、「そんな……お礼を言われるようなことはしてないよ。それより、取り逃がしちゃってごめん」と返そうと口を開きかけた瞬間。
高嶺は鬼のような形相でこちらを睨んできた。そして、無言で俺の手首を掴んだかと思えば、次の駅に着くなり半ば強引に電車から引きずり降ろしたのだ。
「あ、あのさ。高嶺さん……俺、何か気に障ることしたかな?」
動揺しつつも、そう尋ねる。すると、高嶺はバッと顔を上げる。彼女は再び俺を睨みつけた後、ようやく口を開いた。
「さっき、どさくさに紛れて私の体触ったでしょ!? あり得ないんだけど!」
鈴はそう言うと、反論する間もなく堰を切ったように思いの丈をぶちまけてくる。
「あんたみたいなキモいオタクに痴漢されて、私もうお嫁に行けなくなっちゃったんだけど! どう責任取ってくれんの!?」
「え……?」
理不尽すぎる。一体何を勘違いしているのか知らないけれど、俺はむしろ助けてあげた側なのに。
「いや、だから……俺はただ、高嶺さんがあのサラリーマンに痴漢されていたから助けただけなんだけど……」
「その時、助けると見せかけて触っていたじゃない。私、知っているんだから!」
経緯を説明するも、高嶺は聞く耳を持たない。そして──
「言い訳なんか聞きたくない! あんたのこと、一生恨むから!」と吐き捨てると、走り去ってしまった。
その後どうなったのかは……あまり思い出したくないので省略する。まあ、想像の通りだ。
俺はその日以来、同級生たちから白い目で見られるようになった。噂が広まるのも早かったし、何より高嶺自身が率先して俺を「あいつは性犯罪者だ」と触れ回っていたからだ。
結局、その事件がきっかけで俺は漫画家への道を断念。
高校卒業後は、前述の通り大学にも行かず逃げるように地元を離れフリーターとして生きていくことになった。
子供の頃思い描いていた未来とはまるでかけ離れた今の自分の状況には、我ながら心底うんざりする。
あの出来事さえなければ、俺は夢を叶えられていたのだろうか?
──長々と回想をして気づいたことだが、常に分岐点は存在する。
あの時ああすればよかった、こうすればよかったという後悔の種は、いつだってそこら中に転がっているものだ。
「……人生って、本当に難しいよな」
そう呟き、俺は再び目を閉じたのだった。
翌朝。
「やばい! 遅刻する!」
目を覚ますや否や、俺は跳ね起きた。今日は九時から早番ということを考えると、五分後には家を出ないと間に合わない。
アパートから出て駅まで全力で走り、混み合う電車に飛び乗ると、何とか開店前に出勤できた。
今のアルバイト先は、リサイクルショップだ。CD、古い映画のDVD、他には戦隊モノの武器やモデルガン等々、レトロなデザインの玩具も扱っている。
平日は来店客が多くないため接客は少ないが、休日になると結構な人だかりが出来る。
店がそれなりに広いこともあり、在庫を確認したり商品に埃が被らないように手入れをしたりするのが大変なのだ。
「おはようございます!」
店に入るなり、俺は同僚である藤沢に挨拶をする。
「ああ、由井さんですか。おはようございます」
藤沢は面倒くさそうに挨拶を返した。彼は、俺より少し年下の大学生だ。
仮にも年上である俺に対して、常に上から目線な態度を取っている。
「由井さん、またギリギリでしたね?」
「……すいません」
藤沢は嫌味っぽく言うが、これはいつものことだ。たとえ早めに出勤しようが、風当たりが強いことに変わりはなかった。
「もっと余裕を持って行動するべきですよ。……そんなんだから、その年でまだアルバイトなんじゃないですか?」
余計なお世話だと思ったが、藤沢の言うとおりなので適当に相槌を打っておく。
そんな彼は俺に対する関心など全くないのか、さっさと店の奥の事務室に引っ込んでしまった。
正直、同僚から煙たがられている自覚はある。だが、生きていくためには働かねばならないので我慢している。
この仕事は同僚に恵まれなかったというイレギュラーさえ除けば、不満はなかった。
ずっとここで働くわけにはいかないにしろ、ここの店長には拾ってもらった恩がある。できることなら店が潰れるまでは頑張っていたいというのが、俺のささやかな願いだ。
ロッカーに荷物を置いて制服に着替えると、いつも通りレジ打ちや商品の整理をしていく。
慌ただしく時間が過ぎて、午後六時になった頃。早番で入っていた俺は、遅番の同僚に申し送りをしてタイムカードを切った。
コンビニで弁当を買い、それらが入ったビニール袋を提げて帰宅する。
今日はもう疲れた。軽くシャワーを浴びてから、泥のように眠ることにしよう。
数日後。
今日は休日なのだが、俺は珍しく部屋の片付けをしていた。
何故かと言うと、今朝見た占いの結果が頭にこびりついて離れなかったからだ。
『十二位は蟹座のあなた。今日は思わぬトラブルに見舞われそう! でも大丈夫、ラッキーカラーの赤を身につければ悪い運勢は吹き飛びます!』
確か、赤いTシャツなら持っていたはずだ。不意にそのことを思い出し、ついでだから部屋も片付けようと思い立ったのだ。
占いに人生を左右されるのはどうかと思ったが、それで少しでも気持ちが楽になるのなら別に悪いことではないだろう。
俺は滅多に着ない赤いTシャツを引っ張り出し、それを着て一日過ごすことにした。
「ん……?」
ふと、クローゼットの隅に置かれた紙袋に目が留まる。
開けてみると、中から数冊のスケッチブックが出てきた。
「これって…… 」
思い出した。そう言えば、漫画家を目指していた頃は毎日のように目に留まった風景や人物をスケッチしていたっけ。
「懐かしいなぁ……」
思わず、笑みが溢れる。
ぺらぺらとページをめくっていると、ふと一人の少女の絵が目に飛び込んできた。
彼女は、俺が高校時代に密かに片思いしていた相手──
「あっ……」
そう呟くと同時に、当時の記憶が蘇る。
前述の通り、俺の高校生活は高嶺に痴漢呼ばわりされたことによって滅茶苦茶になった。
同級生たちに蔑まれ、教師からも咎められた。もちろん親や近所の人にも知れ渡り、人間関係が大きく変わってしまった。
挙句の果てには、自分を庇ってくれていた友人もどういうわけか退学してしまい、いよいよ本当に一人ぼっちになってしまったのだ。
そんな中、世羅だけは自分の絵を評価してくれたし、いつも優しく接してくれていた。クラスは違うけれど、よく話しかけてくれたのだ。
内心では自分の気持ちに気づいていたのだろうが、あの時の俺は「自分と一緒にいると世羅まで悪く思われる」という恐怖心に囚われていた。
だから、あえて彼女を遠ざけた。交流を自ら断ってしまったのだ。
当時の俺には、世羅を守る方法などそれくらいしか思いつかなかった。きっと、他にもっとマシな方法があっただろうに。
……後悔してもしきれない。もう二度と彼女に会えないのかと思うと、自然と目頭が熱くなってくる。
あの時の自分にとって、彼女は唯一の救いだった。恩人と言っても過言ではない相手に、なんてことをしてしまったのだろう。
「……もう一度、あの頃に戻ってやり直せたらいいのに」
そんなことをぼやいていると、ふとスケッチブックの右下に日付が書いてあることに気づく。
ああ、この絵を描いた日付か。そんなことを考えていると、突然視界がぐるぐる回り出した。
言い知れぬ違和感とともに思わず頭を抱えると、徐々に俺の意識は遠のいていった。