――ここが、天国なのかな。
「……ん……」
それが、ゆっくりと目を覚ました僕の最初の感想だった。
どこかから差す陽の光が、目に飛び込んでくる。
もう一度まばたきすると、今度は無骨な木造りの天井が映る。
おかしいな。
僕は血まみれで雨の中倒れたんだから、死んでいるに決まってるのに。
きっと、もう一度目をつむれば、僕は雲の上に行けるはず――。
「――お。目ぇ覚ましやがったな、坊主」
なんて考える僕の視界に、天使が顔を覗き込んできた。
天使といえば翼を背に生やした、あどけない子供だ。
少なくとも、坊主頭で顔中傷だらけの、がたいの良い男の人なんかじゃない。
――待って。
――顔中傷だらけの、男?
「うわぁっ!?」
違和感を覚えて叫び声を上げ、僕は跳び起きた。
目の前に広がる光景は天国なんかじゃなかったし、ましてやあの路地裏でもない。
僕が眠っていたのは、ダブルサイズほどもある大きなベッドで、かけられていたのは屋敷のものよりもふわふわの布団。
窓の外に見えるのは、のどかな街並み。
そして僕を取り囲んでいるのは、黒いスーツに身を包んだ男女が数人。
「おいおい、テメーのせいでこいつがびっくりしちまったじゃねえか!」
「部屋から出て行きな、バカが! 悪かったね、あたし達は見た目ほど悪い連中じゃないから安心しておくれ」
「何言ってんのさ、悪党には違いないじゃないか!」
「それもそうだ、わはは!」
ただ、誰もが陽気で、僕のことを心配してくれているようだった。
そんなこと、屋敷の中じゃ一度だってなかったのに。
「お前ら、ボスを呼んできな。坊主、ちょっと触るよ」
ボスという人物が僕を助けてくれたのかな、なんて考えているうち、軋む僕の体に女の人が手を触れた。
すると、緑色の光が掌からぽう、と出てきて僕の体を癒した。
これは手で触れるだけで傷を癒すスキル、【
まさかと思って窓ガラスに映った自分を見ると、デイビスに傷つけられた顔の怪我も、火傷の痕も何も残っていなかった。
痛みもないし、きっと脇腹の穴もふさがっているに違いない。
どうして彼ら、彼女らは、僕をここまで手厚く保護してくれるんだろうか。
「あのっ、僕、どうしてここに……」
質問ができるくらいに頭が
「――私が拾ってやった。それだけだ」
答えてくれたのは、扉を開けて、男性を連れて部屋に来た女性だ。
部屋にのそり、とその人達が入ってきた途端、僕は蛇に呑まれた気分になった。
なぜならふたりが放つ威圧感は、周りの人達の比じゃなかったからだ。
ひとりは、腰まであるストレートの黒髪と白い肌、すらりとした体型の女性。
黄色い瞳は細く冷たく、ハイヒールと黒いズボンを履き、黒の上着をシャツの上に羽織っているさまは、さながら20代前半にもかかわらず犯罪組織のボスを務めているみたいだ。
もうひとりは、太い眉と剃り込み入りのショートヘア、顎髭のいずれも白銀の男性。
他の面々はスーツを着崩しているのに、彼だけはネクタイも含めて、黒のスーツをきっちり着こなしていて、左目の黒い眼帯も含めて女性より年上に見える。
「「お疲れ様です、ボス!」」
そんなふたりが部屋に入ってくると、僕を治癒してくれていた人も合わせて、ずらりと部屋の中で姿勢を正して挨拶をした。
さっきまではしゃいでいた男の人も、叱っていた女の人も、すべてだ。
緊迫した空気の間をすたすたと歩き、ふたりは近くの椅子に腰かけた。
「随分と目覚めるのが遅かったな」
「……ここは、どこ、ですか。どれくらい、眠っていたんですか」
「グラッドストーン領地の最北端、カポールの街で、眠っていたのは3日だ。それくらい質問できる余裕があるなら、傷はすっかり癒えたようだな」
眼帯を付けた男性の声は、聞いているだけで背筋が冷たくなるような鋭さを
ついでにカポールといえば、グラッドストーン家の屋敷からずっと離れた街。
つまり僕は屋敷の近くから数日かけて移動している間、ずっと眠ってたみたいだ。
「あとは俺達が話す。お前らは仕事に戻れ」
男の人がそう言うと、彼らはどたどたと部屋から出ていった。
仕事ってなんだろう。
ボスと呼ばれているのはどっちなんだろう。
そもそも、僕が眠っていたここはどこで、彼らが僕を助けた理由はなんだろう。
疑問しか浮かばない僕の前で、今度は女性の方が口を開いた。
「さて、フランシス・マッケンジー・グラッドストーン。お前がどうしてグラッドスト―ン家の屋敷から逃げて来たのか、教えてくれ」
容姿と同じように美しさを感じさせる声だけど、僕の心臓はたちまち凍り付いた。
ふたりが僕の正体を知っているのなら、屋敷に連れ戻す可能性もあるからだ。
「……僕の名前を、知ってるんですか……?」
「グレッグの前で隠し事はできない」
ふっ、と女性が小さく笑った。
「ああ、名前を言い忘れていたな。私はユスティナ。ユスティナ・キングスコート。カポールのマフィア、『ティラミス・ファミリー』のボスだ」
それから、衝撃の事実を僕に教えてくれた。
マフィア?
僕の目の前にいる人達が、さっきまで僕の世話をしてくれた人達が――お酒を密造したり、人を
「隣にいるこいつは、グレゴリー・オズボーン。私の右腕だ」
しかも、しかも強面の男の人じゃなくて、こっちの美人さんがボス?
「オズボーン……それに、マフィアって……」
「そんなに珍しいか? まあ、貴族は努めて話題にも出さないくらい、俺達を嫌っているからな。屋敷の外に少し出たことがある程度じゃあ、知らないのも無理はない」
戸惑う僕の表情のわずかな変化を、グレゴリーさんは見逃さなかったみたいだ。
「事情があるなら聞いてやる。話してみろ」
「……言えません。僕が生きてるってグラッドストーンの人が知ったら、きっとあなた達にも迷惑がかかります」
顔を寄せて来たグレゴリーさんの言葉を、僕は
「貴族だろうが、マフィアにはそう簡単に口出しできない。俺達のためにも、聞かせろ」
でも、ふたりの要求に逆らえないと思った僕は、観念して事情を話した。
「……そこまで、言うなら……」
家族から疎まれて屋敷に居場所がなかったこと。
兄が僕を殺そうとしたこと。
それに抵抗して必死に逃げたこと。
すべてを話し終えた時、最初に口を開いたのはユスティナさんの方だった。
「なるほど、お前はグラッドストーン家の次男坊で、さしずめ敗北者だな。兄はどうしようもないクズだが、貴族としては優秀だ」
僕よりもデイビスが優秀だなんて、言われなくたって理解している。
それに、助けてもらえたのはありがたいけれど、今の僕にマフィアが価値を見出すとすれば身代金くらいだ。
せいぜい真相を聞いて、グラッドストーン家をゆする材料にしかならないはず。
「だが、なおさら都合がいい。俺達の目的にはうってつけだ」
「……何がですか? 僕に身代金を要求するような価値は……ありません」
僕が
「身代金だと? 冗談を言うな、グラッドストーン家がお前を追いかけていようが、売り飛ばすのはもったいない」
鋭く黄色い瞳に僕を映し込みながら、彼女は言った。
「単刀直入に言おう――私達『ティラミス・ファミリー』の一員になれ」
ユスティナさんの望みを聞いた途端、僕は驚きのあまり、ひっくり返りそうになった。
なんとこのふたりは――僕みたいな子供を、マフィアとして勧誘したんだ!