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094 斟酌

九四 斟酌

 翌日は丸一日、自主休講した。

 高志がいない自分のアパートでひたすら怠惰に過ごす。高志が出かけようとする頃に目が覚めた。

「おれも休んだ方がいいか?」と靴を履くのをいったんやめ、高志は訊いてくれたが、わたしは首を振りかれを大学へ行かせた。高志もなにも知らずに生きてきたわけでもないのだ。わたしのことを直前まで心配しながら家を出たのだが、「いつでも呼んで。携帯、マナーにはしないから」と、かれが自身に確認するかのように幾度ももいってくれた。

 自分が情けなくて、腹立たしくて、しかしどうしようにもない摂理であったり運命であったりに人間が逆らえないことも熟知していた。結果としてどうやって死のう、それも円満に、と考えを巡らせた一日だった。


 確かにスイスでは回復の見込みのない不治の病などを証明する診断書と、保証人の同伴があれば安楽死の申請ができる。しかし自ら高い建物から飛び降りても結果は同じという話でもある。とにかくイレギュラーな終わり方であることは違いない。自分の意思で、神様からこの世において与えられたすべてを拒むことがどういうことか。そんなことをつらつらと考えていると、うすら寒い感覚に見舞われた。純然たる恐怖、死への恐怖だった。

 この部屋は四階だ。もっと高くないと。大怪我をして、運が悪ければ半身不随になるのが関の山だ。だが、高志を見送るときはベッドに横たわったままでしか手を振れなかったのだ。なにもできない、したくない。そんなわたしがいきなり致死性の高い行動に出ることはないだろう。高志もどこかでそうしたリスクの低さを認識しているはずだ。でなければ家にとどまることを選ぶだろう。

 冷蔵庫のなかの酎ハイを取りだす。時刻が朝の一〇時であることを確認し、高志が帰るまでには酔いは醒めているだろうと見立てる。外は寒空がどんよりと雲の重圧を地表に降らせ、わたしはこめかみに痛みを覚える。くそくらえだ。冷えた酎ハイのひと口目を飲む。

 昨日は風呂から上がって髪も乾かさず寝てしまったのだ。短髪とはいえ寝癖だってつくし、それも頑固なものになる。しかし鏡を見るために体を移動させるのも億劫だった。手で幾度も押さえつけては、ぴょん、とはねるのを繰り返し、やがて髪にも興味を失う。見てくれはどうでもよい、ぐちゃぐちゃになって死ぬのだから。

 この近辺にある高層建築物を思い出そうとする。空腹に流し込んだ酒が胃をきゅっ、と締め付ける。吐き気を覚え、近くに高い建物はない、と決めつける。

 かれはいつも通り講義を受けているだろうか。ふと大学のことが気にかかった。笑って煙草を吸っているのだろうか。しかし、いっしょに落ち込んでほしいわけではない。

 冷蔵庫からお茶のサーバーを取りだし、少し飲む。酒の缶は半分以上残っている。心配で上の空であるかもしれないな。そう予測すると自分がとても愚かな存在のように思えた。こんなの、重荷に他ならないじゃないか。わたしはいつからかれのお荷物になっていたのか、考えようとする。はじめてセックスしたときは、いま死んでもいいとさえ思えたというのに。

 寝乱れた布団をずるずると引っ張ってきて、文机のまえで可能な限り暖かくなるよう、布団でツバメのように巣を作る。テレビも気分転換になるかもしれない。外付けのチューナーを取り付けたパソコンの電源をつける。メーカーロゴが現れるのを待ち、ログインして、スタートアップの起動を待ち、テレビのアプリケーションを起動させつつ、電源ボタンを長押しして強制終了する。

 意外と時間が余る。飲んで寝てしまおうと決め込み、缶の残りを空けた。


 高志が帰るころにはわたしは酔いも醒め、エプロンを着けて狭いキッチンに立ち夕飯の支度をしているところだった。鍵を回す音に心の底の方でにんまりと笑みを浮かべ、シチューのルーを割り、溶かし入れた。なんということもない平穏な日常。そう、帰ってきた男にいつも以上の愛を注ごう、朝はごめんね、と照れ臭そうに笑いながら。

 鋼鉄製ドアが開く。驚くといいよ、わたしの料理に。がたん、と大きな音がした。高志は靴脱ぎ場にへたり込んでいた。かなり酩酊している。それも、駆け寄ったり抱き起したりが許されないたぐいのものだ。かれは右の拳で玄関の壁を殴り、両手で顔を覆う。火を止めて鍋に蓋をして、少しずつ起き上がるかれを注意深く見る。つまりわたしは若干の恐怖心を抱いていた。かれが酔うといってもわたしが酔い潰れたあととなる。かれが酔うのは、ほんの数度しか見たことがない。それを抜きにしても、これは普通ではない。下向きだった首をぐにゃりと曲げ、乱雑なそぶりで顔をもたげたかれに、小さく、でも怯えていることは悟られないおだやかさで「おかえり」と告げる。

「それ、なんの遊び?」かれは玄関に上がり、わたしに背を向け体育座りをする。かれは頭を抱え込む。

「なにって、晩ご飯」

できるだけスマートに答えた。

「自分、ゆうべと今日の朝、どういう状態だったか覚えてる?」

 そういうと玄関から起き上がり、わたしの後ろをすっ、と通り抜け、鞄を放りながらうつぶせにベッドに倒れこむ。「た、高志、大丈夫?」とエプロンを取りながらいう。

「なるほど、日内にちない変動ってやつ?」

 かれは横向きになりわたしの方へ顔を向ける。

「帰ったらおれ、一人になってるのかと思った。そしたら怖くて仕方がなかった。今日一日、ずっと指が震えてた。帰りにコンビニで酒でも買おうと思って、その間にもしなにかあったら、確実におれ、一生後悔するって分かってたけど、やっぱり買って飲んだ。駄目だよな、おれ。聖子があんな状態だったのに、よくも酒なんか飲めるよな、って。講義も、一日じゅうずっと頭ががんがん鳴ってて集中できなくて、でも帰ったら聖子は元気に主婦してる。ついていけない。もう無理。もう分からない。聖子はどう思う? 教えて。おれがおかしいって思う?」

 かれは死刑囚のような光を宿さぬ、なにも見ていないような目をわたしに向ける。わたしは恐怖に固まる。確実に高志はわたしを責めている。悪いのは、わたしだ。わたしが悪い、わたしが悪い、わたしが――。

「ご、ごめん――なさい」

 膝をついてかれに頭を下げる。カーテンの外の喧騒も、通り過ぎるバイクの排気音も拾わず、自分の脈動だけが聞こえる。耳朶が充血するのを感じる。かれはベッドから起き上がり「あ――いや、ごめん、そういう訳じゃないんだ。おれ、慣れてないからうまくやれなかったんだ。だから、ごめんな」とわたしを抱きかかえる。

「だって、悪いのは、わたしなんだから」

 そういいながらもわたしは泣き声となって、祈るように床にかしずいて胎児姿勢となる。そのまま泣く。とろ火で煮崩れるジャガイモみたいだ。これ以上ぐちゃぐちゃにならないためには火を完全に消すしかないのだ。もうよい。やはりわたしには無理なのだ、生きることなど。

 土下座したまま泣くわたしを抱き起こし、かれは無言でベッドまで抱いて連れてゆく。わたしに布団をかけ、自分の腕時計を外しながらキッチンへ行く。鍋の蓋を開けるために少しだけ火にかけ、消す。お玉をすすって味を見る。ガスの元栓を閉め、冷凍しておいたご飯をレンジに入れ、その間にシチューをつぎ分ける。

「聖子、これ、うまいよ、率直にいって。ほんとうまいよ。ありがとな、聖子」明るい声が聞こえた。

 わたしへの酌量であり、この家にわたしがいてもよい理由であった。その晩はかれが料理を盛りつけ、一緒に食べた。


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