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093 哀哭

九三 哀哭


 ゲネプロは無事終わった。

 一週間後、次の日曜には第六十四回冬季定期演奏会の本番が控えている。依然として低気圧は容赦なくわたしの頭を絞めつけ、自主休講は増加の一途をたどり、寝酒は日を追うごとに深くなった。いや、まだ大丈夫、これからでも挽回できる、そうした幻想を信じ、直視を避けていた出席日数不足での落第も日に日に現実味を帯びていた。最悪のシナリオは浸透し、肉薄し、不安感を肥大させていた。

 もういっそ、定演さえ済ませたら休学届を出してもいいのではないだろうか。


 ゼミに昼組としてご飯を食べに行くのも限界だった。というより、食べに行く理由がない。――理由や必要がない、というのはわたしに強力に働きかける免罪符だった。いま行かなくてもいい、定演が終わった後でもいい。団としては、わたしの欠員はかんたんには埋まらない。わたしが団に留まる理由も必要もある。だが、生命工学科の欠員、高橋ゼミの欠員ならいくらでも補充がきくし、そもそもわたしはそれらに必要とされていないのだ。

 つらつらと考えながら、パソコンでさまざまなゲームを試す。どれもつまらないと判断しては削除していた。ただ、それら遊興ももって三〇分が限度だった。気が散る。集中できない。つまらない。

 文机の座椅子であぐらをかき、うなだれる。なにがどうなればわたしは幸せなのか、満足に至るのか、それすらもイメージできなくなっていた。

「――潮時かな」


「高志」

「あん?」

 この日は練習を終え、わたしのアパートに高志を呼び酒を飲んでいた。煙草を吸ってベランダから部屋へ戻るかれを呼び止める。わたしはベッドに寝たまま「わたしって、死ぬのかな」と訊く。「その、タイミング的にね、いい死に時で、死ねるのかな」と続けると、「それこそ神のみぞ知る、ってやつじゃねえの?」とかれは返した。

「自分の死までも人間自身ではどうにもならない、のかな」

「聖子、なんか、落としそうなコマが増えたのか? それか生理来そうな感じ?」

「茶化さないでよ」

「普通に訊いただけだよ。で、あれか? まじでいってるん?」

 わたしは大きくため息をつく。「なんかさ、金持ちの、一〇〇歳越えてるような科学者がスイスまで行って安楽死したじゃん」

 かれはベッドのへりに掛け、背中越しに振り返り「だいぶ前のニュースだな」と答える。

「それくらい、ひとって死ぬのが怖いってこと。老衰にせよ病気にせよ、人生、打つ手なしって判断しちゃったら途端に怖くなるんだろうと思うの。現実味帯びるから。だからせめて、自分で終わらせるんだと思うの。そのスイスの一〇〇歳だか何歳だかのひとも」

 かれは立ち上がって座卓に立ち並ぶ酒の缶を片付けながら「聖子がどうあれ、ひとって生きる意志と関係なく生きると思うよ。生かされるっていうか。これ、使役動詞ね。神様なり、周囲の人たちなり、聖子を生かしてる。っていうか、そもそもなんの話だ? やばいこと考えてるの?」と、珍しく苛立ちもにじませていった。

「飲みすぎたとかじゃないよ、もちろん。ジョークでいってるわけでもない。ただ、神様や運命や、自分以外の意思によって生かされるだけの人生って、個人の自由はないな、って思ったの」

「なるほど、わかった。聖子、飲みすぎだ。いい子いい子してあげるからもう寝よう、な」と、やれやれといわんばかりにかれは流しに空き缶を持って行った。

 かれが水を使うあいだを待ち、戻ってきたところで「高志、わたしといっしょに死んだりはできない、よね」と、わたしがいちばん訊きたかった質問を投げかけた。

「し――心中?」とかれは口もとだけに笑みを残しながら、濡れた手をアクリルのセーターで拭こうとした。吸水性の乏しいセーターに何度も何度も手をこすりつけるうちに、かれから表情がなくなる。「聖子、最近疲れてるから――」

「馬鹿にしないで!」

 驚くほど大きな声が出た。「わかってるわよ、自分がうつ病なのかどうかちゃんと調べたし、定演だってプレッシャーよ。おまけに講義にゼミに生活に、ぜんぶ疲れてるのに、これからは就活もしなくちゃいけない。毎日死にそう。そんなこと、把握してるわよ。だけどね、だけどね、もう嫌なのよ。なにかのために苦しんで、でも乗り越えても、結局は生きてる限り苦しいのよ(かれは茫然と聞いている)。わたしがこの人生で頑張って得るものがあっても、わたしはもう人生、使い果たしてるのよ。もうくたくた。こんな人生、要らない。捨てたいのよ。どうせ死ぬのに、生きたってなにがいいのよ!」話す途中より涙はこぼれ、わたしは子どものように声をあげて泣く。ベッドでお祈りするかのように額づいたわたしに、かれはおずおずと手を差しだし、わたしはその手にしがみついて泣く。

「もう嫌あ!」とかれにしがみつき、ひときわ大きく叫ぶ。


 一〇分ほどそうしていただろうか。わたしはかれの腕のなかで静かに息をする。

「聖子」「はい」「寝る?」「――はい」「わかった」

 かれは文字通り泣く子をあやすように髪を撫でてくれ、布団もかけてくれた。わたしは「怖い。電気消さないで」と頼んで、かれの背中を見ながらいつの間にか寝てしまった。


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